では、葬式・法事をどう考えればよいか
では、今日日本の佛教徒として、葬式と法事とを、どう考え、どのように処したらよいか。私見を率直に述べる。
まずお葬式~葬式は人生最後の式典である。ちゃんと勤めるがよいと思う。「葬式坊主」だなどと言われて、みずから卑下することはない。自信をもって僧侶は葬式の司会を勤むべきだ。そのとき死者供養だけでなく遺された家族に向けて、必ず一席の法話をすべきである。家族の死を前に、人生の大事を思う心が備えられている。このとき佛法を説かないで、いつ法を説くというのか。
ただし、私一人は一生死者儀礼に関わらぬ僧で生きたいと思う。本師山田無文老師の本葬を期にみずからそう誓って、一切の葬式に不参している。ではお前の葬式はどぅする。家族には私の葬式はするな、と言ってある。と言っても、弟子たちはゆかりの寺に集まるであろう。そのときは『心経』一巻と一炷の坐禅ですましてほしいと願う。
次はお墓~死骸は火葬にする。そして檀那寺の墓地に葬むる。これもきちんとするがよい。しかし、今日は都会地では、そのお墓がなかなか買えない。ある寺院ではすべての人のお骨を一箇所の万霊塔に埋骨する方式を打ち出している。卓見だとは思うが、やはり自分の家の墓を建てたいというのが人情であろう。
お前の骨はどうするか。
すでに、久松抱石(真一)先生の遺言による先例がある。
我死すも引導追薦葬無用むくろを茶毘て骨な拾ひそ
これができればそうしてほしい。しかし火葬場で許さないなら、故郷の赤江灘の海中に散骨してもらえたらありがたいと思う。
家の墓-ーと言ったが、前にも家の宗旨と言った。今日日本ではまだ「家の宗旨」ということが言われてこの考え方が生きている。しかし、これは考えるとおかしなことだ。宗教は本来個人のものであるはずだからである。
ーーーーー
私も死後の存在を認めていない。焼いた後の骨なんて全然美的ではないしカルシウムを主成分とするカスでしかない。拾骨するに及ばないと考える。なまじ拾ってくれば墓に入れるとか処分しなければならない。散骨というのも徐々に増えてきているようだが、撒いてしまうなら拾うまでもない。
親鸞も「某(親鸞)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし(改邪鈔)」と言っていたのに墓もある。
散骨を望んだ有名人としてネットに記事にあった。本人はその気でも実際は墓に埋葬されているのがほとんどと思われる。親戚に当たる折口信夫も墓がちゃんとある、遺族がその気でないと難しいことである。
中江兆民 エンゲルス 夏目漱石 ガンジー 折口信夫 寺山修司 ネール 中野好夫
本田宗一郎 マリア・カラス 松本清張 竹中労 いずみたく 横山やすし 沢村貞子
周恩来 勝新太郎 中島らも 天本英世 ケインズ ゴールズワージー 永井荷風
アインシュタイン 石原裕次郎 ジャン・ギャバン イングリッド・バーグマン
藤原義江 マーヴィン・ゲイ エドウィン・ライシャワー J・F・ケネディ・ジュニア
フレディ・マーキュリー リンダ・マッカートニー ジョージ・ハリスン 劉少奇
ダーク・ボガード 胡耀邦 ジャック・マイヨール