NEWSポストセブン-2020.02.09 06:58
かつて強制移住させられた江別市対雁にある、樺太アイヌの慰霊のための墓(撮影/竹中明洋)
アイヌ新法が昨年成立し、4月には国立アイヌ民族博物館がオープンする。アイヌを取り上げた小説や漫画が脚光を浴び、日本における少数民族、先住民族がにわかにクローズアップされている。
だが、私たち日本人は、開拓期の北海道で本当に何があったのか、大国の日露の狭間で翻弄された彼らの歴史を知っているだろうか。厳冬の北海道に閉ざされた彼らの苦難の歩みを、ジャーナリスト・竹中明洋氏が取材した。
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アイヌ文化への関心がにわかに高まっている。
牽引役となったのは人気コミック『ゴールデンカムイ』(野田サトル、集英社)だ。2018年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞し、昨年にはシリーズ累計で1000万部を突破。昨夏、英ロンドンの大英博物館で開催された「マンガ展」のキービジュアルに、同作のヒロインのアイヌ少女・アシリパが選ばれた。
今年1月15日には、樺太アイヌを主人公のひとりに据えた『熱源』(川越宗一、文藝春秋)が直木賞を受賞。両作品ともに、開拓時代の北海道や樺太を舞台にした冒険活劇である。
そうしたコミックや小説だけでない。政治的な動きからも、アイヌを取り巻く環境は大きな転換点を迎えている。
札幌から特急に乗り1時間あまりで白老町に着く。1月中旬、駅前などあちこちで急ピッチの工事が進められていた。雪道に足を取られながら駅から歩くこと10分ほどで、森や湿原に囲まれた「ポロト湖(アイヌ語で「大きな沼」の意)」に着く。その湖畔に立つ、軍艦のような巨大な黒い建物が、4月オープン予定の国立アイヌ民族博物館だ。
周辺には、アイヌの伝統舞踊の公演などが行われる体験型フィールドミュージアムの国立民族共生公園や、アイヌの伝統的な家屋「チセ」など、その一帯は民族共生象徴空間と位置づけられ、アイヌ文化の復興や創造の拠点になるという。愛称は「ウポポイ」。アイヌ語で「(大勢で)歌う」という意味だ。総事業費は約200億円。年間100万人の来場者を見込むという。
ウポポイの整備事業と並行して昨年4月、国会で成立したのが、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」、通称「アイヌ新法」である。
1997年に制定された「アイヌ文化振興法」が文化の保存・発展に限定された法律だったのに対し、新法では、第1条でアイヌが先住民族であると初めて明記し、その権利を保障するように国や自治体に求めた。アイヌへの差別の禁止や、アイヌ伝統の儀式や漁法を伝承するため、サケの捕獲や国有林の林産物の採取を認めることなども盛り込まれた。
そんなアイヌへの関心の高まりは、私にとって隔世の感がある。
20年近く前、道内でテレビ局の記者をしていた頃、十勝地方の上士幌町でアイヌ文化の伝承活動に取り組む川上英幸氏を長期取材したことがある。堂々とした白髭の持ち主ながら茶目っ気のある川上氏は、アイヌ文化に不勉強な私がしつこく質問するのに冗談を交えて説明してくれた。アイヌ料理をご馳走になったことも一度や二度ではない。
出き上がった取材VTRを東京の本局の幹部に見せたところ、木で鼻を括ったように「泥臭い取材やってるね」と言われたことを憶えている。さも、もっと他に取材することがあるだろう、派手な事件のネタを取って来い、そう言わんばかり。当時の報道現場でアイヌといえば、そんな扱いだったように思う。
アイヌ新法について北海道アイヌ協会の加藤忠理事長は、「抱えきれないような苦しみと悲しみと歴史がありましたが、きょうから出発できるということは、歴史の大きな1ページ」と成立を評価した。
だが、国が進めるこうしたアイヌ施策に諸手を挙げて賛成する人たちばかりではない。
アイヌといえば、北海道の先住民族という認識が一般的だが、実はアイヌは北海道だけにいたのではなく、大きく北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌと、文化や言葉を独自に持つ3つのグループに分けられる。さらに、日本の領土で暮らしていた北方少数民族にはウィルタやニヴフも存在する。
先述した『ゴールデンカムイ』や『熱源』には、そうした少数民族がいきいきとした姿で登場する。ただし、現在のアイヌ施策からは、北海道アイヌ以外の少数民族は取り残されてしまっている。
私たちは、そうした歴史を、どれだけ知っているだろうか。
◆強制移住させられた後、人口が3分の1になった
日本最北端の街・稚内からは、宗谷海峡の対岸の樺太(ロシア語でサハリン)まで最も近いところで42km。天気がいい日は島影が見えるという。
稚内の駅前でレンタカーに乗り、日本海沿いの一本道を南へと向かうと、1時間弱で小さな漁港に着く。陸に揚げられた漁船の多くは長年使われていないようで、寂寥感が漂う。そこから内陸に入った集落が稚咲内(わかさかない)だ。住宅は数十戸ほど。商店も見当たらず、かつてあった小学校は廃校になっていた。
稚咲内は、アイヌ語で「飲み水のない川」という意味だ。飲用にも適さない濁った水が流れ、周囲は湿地のサロベツ原野が広がる痩せた土地。ここに戦後、樺太から渡ってきた樺太アイヌたちが集まって暮らしていると聞いて訪ねた。
樺太アイヌとは、樺太南部で暮らしていたアイヌのことである。自称は「エンチウ」という。トンコリと呼ばれる弦楽器を用い、寒冷な樺太の気候に合わせて衣服にトナカイの毛皮を用いるなど独自の文化を持つ。なお、北海道アイヌにはもともと弦楽器の文化がなかった。
樺太アイヌの女性が住むという家を訪ねた。
「それはうちのばあさんのことだと思うけど、もう話ができるような体調ではないよ」
出てきた男性は、女性の義理の息子だという。集落には他にも樺太アイヌが暮らしているのではないかと尋ねると、「よくわからない」と言う。
「遠路はるばる来てもらって悪いけど、こんな不便なところだから、みんな出て行って今はもうアイヌの人はおらんと思うよ」
男性はそう言葉少なに語るだけだった。なぜいるはずの樺太アイヌがいなくなったというのだろうか――、
まず、樺太アイヌがこの小さな集落に移り住んだ背景に、日本とロシアに翻弄された苦難の歴史があることから説明すべきだろう。
近代までの樺太には、南部にアイヌ、北中部にウィルタやニヴフが居住していた。そこに最上徳内や間宮林蔵ら江戸幕府の役人らによる探検が入ったのは、江戸時代後期になってからだ。南下してきたロシアとの間で樺太をめぐる争奪戦となると、いったんは日露の「雑居地」とすることが決まり、明治政府は警察官を派遣した。
だが、政府は北海道開拓に専念することに方針転換。1875年、樺太を手放す代わりに千島列島を日本領とする「千島樺太交換条約」が日露間で結ばれた。
先住民族の主権を全く無視したこの条約によって、樺太アイヌはロシア国籍を取って樺太にとどまるか、樺太を去るかの二者択一を余儀なくされる。当時、2400人ほどいた樺太アイヌのうち、漁業を通じて日本との関わりが深かった841人が対岸である北海道北部の宗谷地方へと移り住んだ。さらに、翌年には札幌に近い、現在の江別市対雁(えべつし・ついしかり)に強制移住させられ、それまでの生業だった漁業ではなく農耕に従事するよう強いられたのだ。
《樺太移住旧土人先祖之墓》
対雁の市営墓地を、雪をかき分けて進むと、高さ2mを超える墓石が立っていた。慣れない環境で相次いで亡くなった樺太アイヌの慰霊のための墓だ。1931年(昭和6年)建立。かつてアイヌのことを「旧土人」という差別的な用語で呼んでいたのである。
北海道への移住から10年後の1886年、天然痘やコレラが流行すると、免疫のなかった樺太アイヌは、たった7か月間で300人以上が亡くなったという。
そんな過酷な暮らしゆえだろう。日露戦争の勝利によって日本が樺太南部を領有することになると、樺太アイヌは一斉に帰郷を望み、339人が樺太へと向かった。北海道に残ったのはわずか十数人ほどというから、移住後の後わずかな期間で半数以下に減ったことになる。
◆「土人じゃとて日本の臣民じゃ!陛下の赤子じゃ!」
そうした経緯を詳しく描いたのが『熱源』だ。作品の主人公のひとりは、実在した樺太アイヌの山辺安之助(アイヌ名はヤヨマネクフ)である。山辺は後に『あいぬ物語』という自伝を遺した。そのなかで西郷隆盛の弟で、開拓使長官だった西郷従道(つぐみち)が対雁を訪れた際の出来事を語っている。
樺太アイヌと酒を酌み交わしているうちに、西郷は彼らの輪に入り、一緒に踊り始めた。すると、同行した大佐が「閣下」とこう言い出した。
「どうしてこんな土人風情のものと一所になって踊ったり跳ねたり酒を呑んで狂い廻るというような事をなされますか?」
西郷はこう答えた。
「何を汝は云うんだ。土人と一所に踊るのは、悪いというのか? そんな訳は無いじゃろう。土人じゃとて日本の臣民じゃ! 陛下の赤子じゃ!」
当時のアイヌへの差別の一端を示すエピソードである。強制的に対雁に連れて来られたのに、「陛下の赤子」とされることを樺太アイヌたちはどのように思ったのだろうか。
そして1945年の日本の敗戦。樺太全島がソ連によって占領されると、樺太アイヌは着の身着のまま北海道へと追われる。道内をあちこち渡り歩いた末に、彼らが移り住んだ先のひとつが、先に訪ねた稚咲内だったのだ。
ここで樺太アイヌは半農半漁の生活をしながら処女地開拓に従事。鰊が不漁になると和人(日本人)の大半は出て行ったが、樺太アイヌはそれでも留まった。故郷に近いこの場所を離れたくなかったからだという。
その樺太アイヌの団体である「樺太アイヌ協会」は、アイヌ新法に反対している。それを知って会長の田澤守さんに札幌で会うことにした。だが、会うなり田澤さんからは、どういう趣旨での取材なのか、樺太アイヌの歴史をどれほど知っているのかと逆質問を受けるばかり。それには理由があった。
「これまでいろんなメディアの取材を受けましたが、残念ながら私たちの主張をきちんと伝えてはくれなかったからです」
法案が国会で可決する前の昨年2月、田澤さんが発表した声明書にはこうある。
《私達、樺太アイヌ(エンチウ)はアイヌ新法案の作成過程から排除されてきました。新法案の中身にも樺太アイヌを対象としたものがありません。(中略)新法においては、北海道アイヌのみならず樺太アイヌ、千島アイヌにも先住民族としての権利を認め、各々のアイヌ集団が現在の北海道、樺太、千島の植民地化以前に享受していた主権(先住権、自己決定権等)の回復を保障し明記することを求めます》
アイヌ新法に向けた有識者懇談会のメンバーに北海道アイヌの代表は入っていたが、樺太アイヌには意見を求める機会すら与えられなかった。
「アイヌ新法の良し悪しを判断する以前に、私たちは対象にすらされていないのです」
田澤さんが続ける。
「私たちが先住民族としての権利を取り戻したいと主張すると『今の時代に昔のようなサケを捕まえ、山菜を採る生活なんてできるのか』と言う人もいます。しかし、どうするかも含めて私たちに決定権を委ねるべきです。もともと北海道や樺太にいたのは私たち先住民族です。もとのような環境を取り戻したいだけなのです」
先住民族として権利、いわゆる先住権には、先祖代々使ってきた土地や資源などを自由に利用する権利があるが、それらは現代においては実際に行使するのは難しいとする研究者もいる。それぞれの土地には現在の所有者がおり、その財産権が認められているからだ。先住権を認めれば、混乱を招くことにならないか。そう尋ねると、田澤さんは「それは和人の論理です」と反論する。
「そもそも順番がおかしいと思うのです。過去の日本政府の行いを検証し、その上で謝罪するのが先で、その反省に基づいて先住民族政策を策定し、法律も作るべきではないですか。すでにオーストラリアやニュージーランドでは、先住民族に対する過去の抑圧的な政策を首相自らが謝罪しています」
正直に言えば、取材の最初から「これは難航しそうだ」と感じていた。この取材は一筋縄ではいかない問題をはらんでいる。田澤さんたちの主張は過大な要求なのだろうか。それとも和人である私が支配者の論理を振りかざしているだけなのだろうか。私には容易に答えを出すことができなかった。
田澤さんは稚咲内の出身で、父親からは「日本人になれ」と言われて育ったそうだ。差別から身を守るためだという。高校卒業とともに札幌に出たが、「今も集落の住民の8割は樺太アイヌではないか」と話す。私が稚咲内で「樺太アイヌはみんな出て行った」と聞かされた話を伝えると、田澤さんはこうつぶやいた。
「初めての人に、本当のことを言うわけがないですよ」
札幌の大学を出て、北海道で記者として暮らしたことがあるだけに、私はこの島のことをよくわかったつもりでいた。だが、田澤さんの言葉に自分が知らない北海道があるように思えてならなかった。
(後編に続く)
【プロフィール】
◆竹中明洋(たけなかあきひろ)/1973年生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、週刊文春記者などを経てフリーランスに。著書に『殺しの柳川 日韓戦後秘史』(小学館)など。
※女性セブン2020年2月20日号
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