日刊大衆2月1日(火) 17:30提供:
この正月、おせち料理で「松前漬け」を食べた人も多いのではないだろうか。スルメイカと昆布を細切りにし、醤油や酒、みりんなどで漬け込んだ保存食で、北海道の松前藩が発祥とされ、数の子入りも定番だ。
その松前の名称は江戸時代、蝦夷地(北海道)の渡島半島の大部分を支配した氏族の松前氏に由来。
室町、戦国時代には蠣崎氏と称し、通説によれば、徳川家康に臣従した際、彼がもともと松平氏だったことに加え、北陸の前田氏と交易していたことから松前氏に改称したともされる。
そんな松前氏のルーツははたして、どこにあったのか。
初代松前藩主だった慶広の六男である景広が作成した『新羅之記録』や伝承などに基づくと、概ね次のようになる。
蝦夷地の大部分はかつてアイヌの居住地だったが、中世に和人の移住が進み、室町時代に「道南十二館」といわれる渡党(本州から渡ってきた豪族ら)の館が渡島半島に点在し、その一つが函館。
同じく一二館の一つである花沢館(北海道上ノ国町)の主だった蠣崎季繁の婿養子となった武田信広が、松前氏の祖とされる。
武田氏は信玄の名でよく知られる一方、甲斐の他でも守護を務め、信広は若狭守護だった武田信賢の子として生まれたが、身の危険が迫ったことから夜陰に乗じて出奔。
享徳元年(1452)、奥州の下北半島にある蠣崎(青森県むつ市)を領し、その地名を名乗ったあと、花沢館主の季繁に身を寄せたという。
このうち、若狭武田氏を先祖としていることについては、他ならぬ松前一族が記録した歴史書であることから改ざんの余地も残る。
実際、室町時代の若狭武田氏の系図には、松前氏の初代とされる信広の名前がない
何より花沢館主とされる季繁がそもそも何者なのかもよく分からない。
通説では彼も若狭武田の一族とされるものの、それもはたして、どうか。
ただ、松前氏のルーツを巡る説がいくつもある中、有力なものに“信広=蠣崎蔵人信純(以下=蔵人)”がある。
蔵人は鎌倉時代から奥州で栄えた安藤氏(安東氏)の被官。
安藤氏は十三湊(青森県五所川原市)を中心とした交易で栄え、陸奥から蝦夷地にも進出を図り、道南の一二館もその勢力圏にあった。
だが、室町時代に奥州北部で南部氏の力が強まると、安藤氏はその風下に立たされる。
蔵人が長禄元年(1457)、南部氏の支配に反発して乱を起こし、やがて鎮圧されると、蝦夷地に逃走したという説だ。
確かに渡島半島は安藤氏の勢力圏で、下北半島の蠣崎城主の一族が先に蝦夷地に渡り、花沢館主になっていたと考えれば、蔵人がその後、縁戚関係を頼ったことも十分にあり得る。
また、十三湊と若狭が日本海ルートでつながっていることから、名門の武田氏をルーツとして出自を詐称した疑いも考えられる。
だとすれば、陸奥から蝦夷地に逃亡した蔵人がなぜ、松前氏の祖といわれるのか。
当時、アイヌはコシャマインという首長の一人に率いられて一斉に蜂起し、詳しい理由は分からないものの、志濃里(函館市)の和人の村にあった鍛冶屋を訪ねた青年が、言い争いの末に殺される事件があったという。
コシャマイン率いるアイヌは強く、前述の一二館中、花沢館と別の一館を残し、すべてが陥落し、この危機を信広が救ったといわれる。
信広はやがて勝山館(上ノ国町)に新たな拠点を築き、蠣崎氏が道南の和人社会で覇権を確立。
信広から三代を経て、初代松前藩主の蠣崎慶広は天正一〇年(1582)、中央で本能寺の変が起きた年に家督を相続した。
慶広は難しい時代を乗り切り、豊臣秀吉が小田原を制圧して天下を統一すると、その後、奥羽方面の仕置がなされ、同一八年(1590)一二月に謁見して臣従。
秀吉の時代に「志摩守」の官職を与えられ、「しまのかみ=島主」、すなわち蝦夷地の支配者として地位とアイヌとの交易徴税権が認められたのだ。
その後、前述のように家康に臣従して松前藩が誕生することになるが、この時点では蝦夷地の侵略者とは言えない。
■和人の蝦夷地の侵略が徐々に進んでいった!
松前藩は渡島半島の大部分を和人居住地として誕生させたわけだが、広大な蝦夷地の大半はアイヌの人々の居住地だった。
蝦夷地では当時、米が穫れず、松前藩は「無高大名」と呼ばれたが、城下におけるアイヌの人々との交易で藩は潤っていた。
その後、アイヌの居住地域に「商場」と呼ばれる交易場所が設けられ、松前藩士がそこに出向いて取引する制度に転換。
ところが、松前藩側がアイヌに不要な交易品を押しつけたばかりか、不正取引が横行したこともあり、寛文九年(16ー69)、首長の一人であるシャクシャインが蜂起。
松前藩は彼に和睦交渉を勧告しつつ、それに乗ったシャクシャインを謀殺し、強引に蜂起を鎮圧しただけでなく、交易方法を商人の請負制に転換し、アイヌの人々の負担はより大きくなった。
というのも、藩士らが「商場」の経営権を商人に委ねる代わりに、毎年一定の売上を運上金として納めさせることにしたからだ。
商人らは藩士への上納金プラス利潤を確保するため、アイヌの人たちから過酷な取り立てを行い、和人による蝦夷地の圧政や侵略の度合いがこうして少しずつ進んだと言える。
一方、江戸時代に源平合戦の英雄である源義経が蝦夷地に逃亡したとの噂がしきりに囁かれ、儒学者である新井白石は、彼をアイヌの神であるオキクルミと同一視しているが、そこにはアイヌの人々を和人と同化させるという政治的な意味合いがなかったとは言い切れない。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
https://news.ameba.jp/entry/20220201-791/