毎日新聞2016年9月6日 地方版
藤野家の栄枯盛衰伝える
藤野家は江戸時代中期から明治期にかけて、北海道松前貿易を繁栄させた近江商人で、天保年間に建てられたその邸宅と庭園が、現在「豊会館」として保存公開されています。1928年から56年にかけて一時村役場に使用されていたものの、その後荒れはててしまった本邸宅を68年、明治100年の記念事業として地元企業家らによる援助によって、藤野家の事業と近江商人の心意気を後世に伝える社会教育の場として整備したものです。
「天保の大飢饉」救う
初代藤野喜兵衛喜昌は天明元(1780)年生まれ。12歳で北海道松前へ渡り、呉服商へ丁稚(でっち)見習いに入ります。20歳にして独立、呉服商を営む傍ら、松前の港に水揚げされる大量の海産物に目をつけました。そして、故郷・近江ではめずらしい魚介類を塩や搾りかすで保存することを工夫し、7隻の北前船の輸送力を駆使して関西圏にひろく輸送販売を始めます。
また、持ち前の熱意で松前藩主に願い出て、東西蝦夷地の数カ所に漁場請負の許可をとりました。その海産物、また、アイヌの収穫物や産物を本州に運ぶ一方、アイヌや現地の必要物資も回送し、互いの利益になるこの「三方よし」の商いは、地元民の協力も得て大きく発展し、藤野家は北海道における確固たる地位を得たのです。しかし、彼は病により44歳の若さでこの世を去ってしまいます。
2代目藤野四郎兵衛良久が父の遺業を継いだのはわずか13歳の時でした。彼は根室や色丹島、択捉島に進み漁場を開拓、根室一帯を差配するまでに成長します。ちょうどそのころ、天保の大飢饉(ききん)が日本を襲いました。蝦夷地においても主食が欠乏しますが、藤野家の北前船を使い遠く下関(山口県)から米を運び人々を救済します。
また、地元近江でも飢饉の影響は大きく、この時に、お助け普請として建てられたのが、この邸宅なのです。郷里の寺院、仏堂も建立し、作業に従事したものに多額の労賃や食料を与えました。ですから、近江商人のものとしては大変豪華で、また、庭園は勝元鈍穴作庭の広く美しいもので、「松前の庭」と名付けられています。
「相手よし、世間よし」
幕末・明治の混乱期、3代目は北海道開拓の新事業に鋭意し、4代目は船舶の近代化に着手、うまく舵とりを行います。とくに4代目は西洋の缶詰技術に着目し先進諸国を視察して製造を始めます。これは「あけぼの缶詰」のルーツとなる星印缶詰として国内はもとより輸出もされるまでになりました。
遠く北海道と本州を東奔西走し、常に時代の先を読み「相手よし、世間よし」の精神を貫いた近江商人藤野家。その栄枯盛衰を見つめてきた大きな楠が、今も庭園の背後にそびえています。縁側に座り、庭園を眺めながらその大木とそっと対話をしていると、一瞬数百年の時を超えて活気のある人々の声が聞こえてくる気がします。(MIHO MUSEUM学芸員 桑原康郎)<協力・滋賀県博物館協議会>
所在地:豊郷町下枝56
電話番号:0749・35・2356
開館時間:9:00〜16:00
休館日:月、水、金曜日、年末年始
観覧料:大人200円、小人(小中生)100円
駐車場:7台
交通:近江鉄道「豊郷駅」下車、徒歩7分
http://mainichi.jp/articles/20160906/ddl/k25/040/594000c
藤野家の栄枯盛衰伝える
藤野家は江戸時代中期から明治期にかけて、北海道松前貿易を繁栄させた近江商人で、天保年間に建てられたその邸宅と庭園が、現在「豊会館」として保存公開されています。1928年から56年にかけて一時村役場に使用されていたものの、その後荒れはててしまった本邸宅を68年、明治100年の記念事業として地元企業家らによる援助によって、藤野家の事業と近江商人の心意気を後世に伝える社会教育の場として整備したものです。
「天保の大飢饉」救う
初代藤野喜兵衛喜昌は天明元(1780)年生まれ。12歳で北海道松前へ渡り、呉服商へ丁稚(でっち)見習いに入ります。20歳にして独立、呉服商を営む傍ら、松前の港に水揚げされる大量の海産物に目をつけました。そして、故郷・近江ではめずらしい魚介類を塩や搾りかすで保存することを工夫し、7隻の北前船の輸送力を駆使して関西圏にひろく輸送販売を始めます。
また、持ち前の熱意で松前藩主に願い出て、東西蝦夷地の数カ所に漁場請負の許可をとりました。その海産物、また、アイヌの収穫物や産物を本州に運ぶ一方、アイヌや現地の必要物資も回送し、互いの利益になるこの「三方よし」の商いは、地元民の協力も得て大きく発展し、藤野家は北海道における確固たる地位を得たのです。しかし、彼は病により44歳の若さでこの世を去ってしまいます。
2代目藤野四郎兵衛良久が父の遺業を継いだのはわずか13歳の時でした。彼は根室や色丹島、択捉島に進み漁場を開拓、根室一帯を差配するまでに成長します。ちょうどそのころ、天保の大飢饉(ききん)が日本を襲いました。蝦夷地においても主食が欠乏しますが、藤野家の北前船を使い遠く下関(山口県)から米を運び人々を救済します。
また、地元近江でも飢饉の影響は大きく、この時に、お助け普請として建てられたのが、この邸宅なのです。郷里の寺院、仏堂も建立し、作業に従事したものに多額の労賃や食料を与えました。ですから、近江商人のものとしては大変豪華で、また、庭園は勝元鈍穴作庭の広く美しいもので、「松前の庭」と名付けられています。
「相手よし、世間よし」
幕末・明治の混乱期、3代目は北海道開拓の新事業に鋭意し、4代目は船舶の近代化に着手、うまく舵とりを行います。とくに4代目は西洋の缶詰技術に着目し先進諸国を視察して製造を始めます。これは「あけぼの缶詰」のルーツとなる星印缶詰として国内はもとより輸出もされるまでになりました。
遠く北海道と本州を東奔西走し、常に時代の先を読み「相手よし、世間よし」の精神を貫いた近江商人藤野家。その栄枯盛衰を見つめてきた大きな楠が、今も庭園の背後にそびえています。縁側に座り、庭園を眺めながらその大木とそっと対話をしていると、一瞬数百年の時を超えて活気のある人々の声が聞こえてくる気がします。(MIHO MUSEUM学芸員 桑原康郎)<協力・滋賀県博物館協議会>
所在地:豊郷町下枝56
電話番号:0749・35・2356
開館時間:9:00〜16:00
休館日:月、水、金曜日、年末年始
観覧料:大人200円、小人(小中生)100円
駐車場:7台
交通:近江鉄道「豊郷駅」下車、徒歩7分
http://mainichi.jp/articles/20160906/ddl/k25/040/594000c