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四国88箇所霊場、第37番札所「岩本寺」は清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に建立されて居る。此の寺の歴史は天平の世まで遡る。寺伝に寄れば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して現在地よりも北西約3Kmの付近にある仁井田明神の傍に建立されたと伝えられる末寺七ヶ寺を持つ福円満寺が全身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であった事から、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師が此の寺を訪ねたのは弘仁年間、大師は一社に祀られていた仁井田明神の、ご神体を五つの社に別け、其々の社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は更に末寺、五ヶ寺を建立された。此の事から福円満寺は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
其の後の天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、此の地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承された。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていが明治の世に成ると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、其れに伴う「廃仏き釈の法難」に遭い、寺領地の大半を失い再建には苦難の道が続いたが、少しずつ伽藍を整備し現在に至って居る。
此の札所は数年前に兄夫婦と私達夫婦で以前から親交の在った四万十市の嶋村さんの所に電測車に搭載されていた電動伸縮ポールを貰い受けする為に訪れた時に義姉のたっての希望で4人で訪れた場所、兄とは水力発電所の送水管の超音波に寄る板厚測定の仕事で岩本寺のある直ぐ近くの民宿で1週間程、宿泊したので町筋を通った時も懐かしかった。私と兄とは共通の趣味であるアマチュア無線の事も在って又、兄の会社の仕事の関係で良く一緒に出掛ける事はあったが此の1年後に思いも寄らず兄は天国に旅立ったのでお互い近くに居ながら双方の夫婦連れで一緒に旅をしたのは此の時が最初で最後と成った。早いもので其の時からは5年近い月日が流れた。私が急に四国88箇所霊場を回る事を決心したのも兄の事で人の命は解からないものなので元気な内に行くを決めた。
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