島津斉彬公が日本の総船印として江戸幕府に提案して誕生したとされる「日の丸」。
当時の日の丸はどんな色をしていたのでしょう?
現在、見慣れている白地に染め抜いた赤い丸は化学薬品で染めた色。当時は鮮やかな赤ではなく、やや黄みが混じった色だった。今の赤色とは明らかに違っている。
こう断言出来るのも実際に見たことがあるからだ。7年前に福岡県の筑豊地方で勤務していた時、飯塚市役所に関係する施設の倉庫に保管してあるのを見せてみらった。
薩摩藩の「日の丸」を染めたのが飯塚市の隣町、筑穂町にあった筑前茜屋で、明治時代に途絶えている。地元では薩摩藩には納得できるような染料と染色技術がなかった。そこで、姻戚関係にある筑前藩主の所領にあった茜屋に染めさせ幕府に献上した、と伝わっている。
私が見た「日の丸」は、飯塚市の女性染色家が当時の技法を研究し、試行錯誤で茜色を出し、染め上げたものだった。赤丸は真っ赤ではない。その色に魅せられ、この染色家に会いに行った。
日の丸の復元を手掛けたのは1979年6月ごろ。茜染めの手法は絶たれている。「農業全書」などの古い文書を読みあさり、材料になる多年草のアカネを探すことが大変だったと言う。
山梨県や長崎県・五島列島などでもアカネを探し歩き、博物館で昔の衣類を見ては色を研究。さらには日の出の太陽の色を観察する。椿の灰汁での媒染も、わずかな調合の具合で違う色になる。
海岸近くに自生するアカネは潮風に当たっているせいか良い色にはならないことも突き止めた。「茜色は決して同じ色にはならない。自然のなすがまま。染めるのではなく、染まってくれるのです」と話してくれた。
化学薬品ではなく、自生している草を材料にして染めるのだから、昔の人も、同じような苦労、努力をして染め上げたに違いない。
「日の丸」と聞くと、拒否反応をする人も多いだろうが、その問題は別にして、私が見た茜色は素朴で落ち着きがあり、青空と海に映えそうな色だった。鹿児島の桜島を背景にして、この茜色の旗を見てみたい。日課にしている海辺の散歩中にそう思った。
鹿児島支局長 竹本 啓自 毎日新聞鹿児島版 2006.1.9掲載
当時の日の丸はどんな色をしていたのでしょう?
現在、見慣れている白地に染め抜いた赤い丸は化学薬品で染めた色。当時は鮮やかな赤ではなく、やや黄みが混じった色だった。今の赤色とは明らかに違っている。
こう断言出来るのも実際に見たことがあるからだ。7年前に福岡県の筑豊地方で勤務していた時、飯塚市役所に関係する施設の倉庫に保管してあるのを見せてみらった。
薩摩藩の「日の丸」を染めたのが飯塚市の隣町、筑穂町にあった筑前茜屋で、明治時代に途絶えている。地元では薩摩藩には納得できるような染料と染色技術がなかった。そこで、姻戚関係にある筑前藩主の所領にあった茜屋に染めさせ幕府に献上した、と伝わっている。
私が見た「日の丸」は、飯塚市の女性染色家が当時の技法を研究し、試行錯誤で茜色を出し、染め上げたものだった。赤丸は真っ赤ではない。その色に魅せられ、この染色家に会いに行った。
日の丸の復元を手掛けたのは1979年6月ごろ。茜染めの手法は絶たれている。「農業全書」などの古い文書を読みあさり、材料になる多年草のアカネを探すことが大変だったと言う。
山梨県や長崎県・五島列島などでもアカネを探し歩き、博物館で昔の衣類を見ては色を研究。さらには日の出の太陽の色を観察する。椿の灰汁での媒染も、わずかな調合の具合で違う色になる。
海岸近くに自生するアカネは潮風に当たっているせいか良い色にはならないことも突き止めた。「茜色は決して同じ色にはならない。自然のなすがまま。染めるのではなく、染まってくれるのです」と話してくれた。
化学薬品ではなく、自生している草を材料にして染めるのだから、昔の人も、同じような苦労、努力をして染め上げたに違いない。
「日の丸」と聞くと、拒否反応をする人も多いだろうが、その問題は別にして、私が見た茜色は素朴で落ち着きがあり、青空と海に映えそうな色だった。鹿児島の桜島を背景にして、この茜色の旗を見てみたい。日課にしている海辺の散歩中にそう思った。
鹿児島支局長 竹本 啓自 毎日新聞鹿児島版 2006.1.9掲載