はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

はがき随筆特集 支局長が選ぶはがき随筆「心に残る1本」

2006-01-23 16:48:09 | 受賞作品
はがき随筆特集として、2005年12月20日に掲載されたものです。
 
  今年は戦後60年でした。毎日新聞の九州・山口地区の地域面で掲載している「はがき随筆」には、節目の年に思いを綴る作品が多数寄せられました。戦乱の中で最愛の人を失った悲しみ、あるいは過酷だった体験などの数々が、多くの読者の胸を打ちました。現代は豊かさとの引き換えのように、多くの問題も抱え込んでいますが、改めて「平和」をすべての礎とすることの大切さが作品から伝わってきます。担当の各支局長・デスクが印象深かった作品を選び、合計11本を特集しました。

月見草
 「いい嫁さんになれよ」と言って、兄は佐波川の川原に咲く黄色い月見草を私の髪にいっぱい飾ってくれた。手をつないで歩いた川原。やがて押し花にしてレイテに送ろうと郵便局に行ったが、受け付けてもらえなかった。母は山口の局で土下座して受け付けてもらった。母も私も届く日を信じた。
 私はその花を探しに行く。河川改修工事で、もう咲くことはないと諦めていたが、花は堤防に生きて咲いている。兄の化身のように。届くはずのない月見草に抱かれて兄はレイテの海に永遠に眠っている。私は嫁さんにならなかった。
   山口県防府市 粟本 房子(77)

山口県版の戦後60年特集への応募は150点。この作品には選者もうなった。
   山口支局長・菊池 健


平和の今
 「今日はもう帰ってもいいぞ」。坑木担ぎに明け暮れていた動員先の炭坑で終戦の玉音放送を聞いた8月15日。中学2年生の暑い夏だった。「戦争が終わったらしいぞ」と、ささやき合いながらも胸にポッカリ穴が開いたようだった。あれから60年。B29の空襲に毎日おびえたことも、山の向こうの福岡の空が真っ赤に染まっていたことも、米軍が上陸したら皆殺しになるらしいと、戸締まりをして息をひそめたことも、食糧難で毎食がカボチャゃサツマイモばかりだったことなど、すべてが今では遠い昔の物語。平和の今をかみしめながら、そのころを思う。
   福岡県飯塚市 安部田正幸(74)

「遠い昔の物語」を、ずっと「物語」にしておくことが私たちの責任と痛感。
   筑豊支局長・武内 靖宏


同期の桜
 幼稚園に通う孫から「おじいちゃん、『同期の桜』を歌って」と電話がありました。私は、この歌の孫の結びつきが理解できずに一瞬戸惑いました。
 「早く『貴様とおれ』のだよ」と催促され、我にかえって受話器に向かい歌いました。そばにいた妻がけげんな顔をしたので「わけは後で話す」と言って、妻と2人で歌いました。孫はアニメが何かで知り、分かりにくかったのか、ママに聞いたら「おじいちゃんに聞きなさい」といわれ、電話となった次第でした。
 8月下旬のことで、彼の時代があんなことにならないよう祈るばかりです。
   福岡県瀬高町 黒田 直(73)

孫からの催促に戸惑いを隠せない祖父。平和への思いは人一倍強い。
   久留米支局長・満島 史朗


あの日
 「またサイレンで授業はないでしょう。お休みしたら」。いつにない母の言葉をいぶかる私を送った後、母は松山町へ叔父の葬儀に出向いた。8月9日。
 火の海となって燃えさかる長崎を見ながらなすすべもなく、無惨に日を重ねた。
 消えた街。たどり着いた家の後の焼けつきた土に転がるアルミの弁当箱を見た。ぐにゃりと変形して中身が入ったまま炭の塊になっている。お母さん! すがるように抱きしめた。まだ熱かった。
 「これからどうなるのだろう」。がれきがくすぶる中で感じた漫然とした不安と恐ろしさ。今も忘れない。
   長崎市   高橋栄美子(73)

炭の弁当箱で「あの日」を描写した。身近な品だけに、かえってむごさが伝わる。
   長崎支局長・松田 幸三


西君の思い出
 戦時下、女学校4年生の夏休み、村の学生5人で役場の仕事を手伝った。〝黒一点〟の西君は凛としていて優しく、私たちのミスでもすぐに解決してくれた。昼休みは鬼ごっこやかくれんぼに熱中した。こうして、2週間の奉仕は終わり、西君と「さようなら」。
 やがて終戦。9月の風に、西君が長崎原爆で亡くなったことを知る。同年齢と思っていたが、長崎医大生だった。驚きと畏敬。人の命を救う勉強をしているのに、なぜ……。絶句してしまった。
 あれから60年。今でも『長崎の鐘が鳴る』の歌声を耳にすると、つい涙ぐむ。
   福岡県上毛町 瀬口久美子(76)

伯父も医大在学中に被爆死した。惨禍を語り継ぐ大切さを改めて思う。
   報道部デスク・平山 千里


黒パン
 戦後60年、私には忘れることの出来ない映像が残っている。北朝鮮の興南という街に住んでいた。終戦直後の厳しい冬、6歳の時だった。ソ連軍の宿舎の近くまでロシア人を見に行った。ソ連兵7、8人が、笑いながら私たちの側にいた若いお母さんに手招きしている。かたわらに幼い男の子が2人いた。母親は走って倒れこむようにソ連兵の中に消えた。しばらくして母親は「1本の黒パン」を大事に抱え、泣きじゃくりながら、そのパンを子どもたちに与えた。私には何も分からなかった。ソ連兵はガムをかんで笑っていた。敗戦、母の深い慈愛を思う。
   福岡市早良区 大森 京子(68)

後日、作者より秘め続けた話しだったとのお便り、反戦の気持ちと共に。
  報道部編集委員・小川 敏之


日記帳
 実家のおいが戦死した兄の日記帳を持って来てくれた。女学生だった私が引き継ぎ、書いていると言う。「エッ! ウソッ!」。開くと確かにわが筆跡。でも、びっしりと赤裸々につづった兄と比べ、いとも単調、勤労奉仕のことばかり。戦後60年、くしくもこの手のひらにあるセピア色の日記帳。兄の魂をよみがえらせる天の啓示に違いない。
 読み進むうち、昭和初期の懐かしい残像が鮮明に浮かび、笑わせてばかりいた兄の悩み、苦しみに触れ、胸が痛む。大学卒業と同時に、お国のために散った青春の足跡を、じっくりひもときたい。
   佐賀県唐津市 向 タエ(74)

戦後60年関連の作品は各自の思いがこもり、採点不能。一番早い掲載作品を選択。
   佐賀支局・関野 弘


残された健君は
 敗戦とは思いがけない事実であった。北朝鮮から歩いて日本に引き揚げる。気の遠くなりそうな距離を野宿の日々。60人組。健君が熱を出した。真っ赤な顔でもう歩けない。彼の母はリュックとその弟を背負い健君の手を引く。余程の決断に一軒の家の門を叩く。なけなしのお金を出し「すぐに迎えに来ます。預かってください」。悲痛な叫びは届いた。「すぐに…」を健君にも言い含め振り返りながら別れたその母。戦後60年、健君は無事だったろうか。熱っぽい眼差しで懸命に黄色い帽子を振っていた幼い姿が目に焼き付いて離れない。8月とは心が重い。
   大分県竹田市 三代 律子(70)

幼児との悲痛な別れ。残された孤児。今も続く悲惨な出来事。これが戦争である。
   大分支局長・陣内 毅


ラジオ
 春浅い朝、温かい思いで目を覚ました。眼の中に亡夫の笑顔が残っている。
 ああ、あの人の夢を見ていたんだ。
 私は二階を見上げている。夫はラジオを持って、歌いながらトントンと降りてくる。「君には君の夢がある。僕には僕の夢がある」。私も一緒に歌っていた。
 その頃の夫は毎晩、布団の中でラジオを聴きながら歌っていた。翌朝2人一緒に同じ歌を歌い出したこともあった。私は夫のイヤホンからこぼれる音を、夢の中で聞いて覚えたのかもしれない。
古い小さなラジオが、本棚の隅でほこりをかぶっている。
   宮崎市 藤田リツ子(70)

文中の歌謡曲「若いふたり」の大ヒットは1962年。戦後もまた若かった。
   宮崎支局長・大島 透


靖国の杜
 同期生会の企画で、靖国の杜を訪れた。久しぶりの上京で、すっかり変わった羽田、進化を続ける東京の街に驚きながら地図に導かれ、靖国の杜にたどりついた。英霊にお詣りしてから、境内で白い鳩の群と遊び、戦友のことを思った。彼は奥薩摩にある山村の国民学校高等科卒業と同時に、飛行兵学校に入り、15歳で戦死した。東京を見たこともなかった彼の霊が、果たしてここまでたどり着けただろうか。まっすぐ母親の懐へ帰り、故郷の山河に抱かれ、安らかに眠っているのでは……。
 大鳥居がむなしく聳える秋の空
   鹿児島市  福元 啓刀(75)

15歳で戦死。霊は温かい母の懐を求め、故郷に帰ったはず。胸が打たれる。
   鹿児島支局長・竹本 啓自


あれから60年
 ソ連兵の「ダモイ(帰国)」の連呼にせき立てられ、兵たちは長い貨物列車に乗り込んだ。昭和20年10月29日、牡丹江(現中国東北部の都市)は朝から初雪が舞っていた。列車は東へ向かい夜中にソ満国境を越え暗闇をひた走る。荒野に真っ赤な太陽が昇る。「あっ、北へ向かっている」と誰かが叫んだ。ウラジオストクから日本に帰るのだとみんな聞かされていたのだ。列車は不安と恐怖に戦慄きながらシベリアの奥へ奥へと。そして流刑地である小さな町のラーゲリ(捕虜収容所)で過酷な日々が始まった。当時、軍属の一員だった私もその中にいた。
   熊本県玉名市 高村 正知(76)

抑留体験記。筆者は当時15歳。恐怖心はいかほどだったか。続きも読みたい。
   熊本支局長・柴田種明




報道の責任

2006-01-23 14:58:39 | かごんま便り
 「マスコミは信用できない」「警察も信用できない」
 今年初め、鹿児島県選出の国会議員から、こう言われた。言い返そうとしたが、こうなると売り言葉に買い言葉。会話にならないから控えた。
 閣議決定された「犯罪被害者等基本計画」に、この議員も携わったと言う。ちょうどいい。私たちの仕事に関係するので話を向けたら、まず「信用できないから」だった。
 基本計画で、私たちが最も危惧してるのは、警察による被害者の実名発表、匿名発表について「個別具体的な案件ごとに適切な発表内容となるよう配慮していく」の項目。警察の裁量で事件、事故の被害者を実名にするか、匿名にするかが決められる。
 司法権を持つ警察の発表をそのまま鵜のみにした報道はできない。被害者やその周辺をも取材して、初めて客観的で責任ある報道ができる。匿名で発表された場合、被害者の存在が不明で、事件の背景さえ分からない。
 昔の言論統制下の墨塗り新聞どころか、事件そのものが包み隠されたり、恣意的につくられる可能性もある。マスコミに盾突かせないような動きとも受け取れる。
 新聞社は警察が実名で発表した場合、加害者、被害者の周辺取材を踏まえて、紙面では実名か匿名かを判断している。それは被害者の安全、二次的被害を被る可能性がある場合などのケースを考えて報道する。
 マスコミも被害者の自宅や関係者宅に押し寄せる集団的加熱取材(メディアスクラム)や、プライバシー問題にも社内や他社とも連携して取り組んでいる。被害者からの要望には正面から向かい合っている。 
 政治家が中心となってつくり、警察にゆだねる「権力側」の基本計画に対しては、あくまでも実名を発表してほしい。実名か匿名かの責任は私たちが持ちたい。 実際、鹿児島県の警察発表にも「被害者の強い要望」を理由に、匿名が増えた。他県では警察が、公職選挙に違反した地方議員の名前を明かさなかったり、容疑者と被害者の関係を「親子」ではなく「知人」と虚偽発表したケースもある。
 皆さんはどう思われますか。私が議員に言うのを控えた言葉は、「信用できないい政治家、官僚がいる。それを監視するために、この仕事に就きました」です。
   鹿児島支局長・竹本啓自 毎日新聞鹿児島版 2006.1.23掲載

年女の願い

2006-01-23 14:29:48 | はがき随筆
1月23日
 「はぁー」。つい、ため息がもれ、言わないようにと思いながらも、ぐちがこぼれてしまう。
 頻発する大災害に胸を痛め、人間の良心なんて、どこ吹く風で自分の得だけで動いている、心浅ましい人たちへの怒り。心穏やかに生きたいと願うものの、なかなかそうはいかないご時世みたいである。
 一人一人の口から、小さなため息や怒りの声がフワフワ浮かび、それが一つにまとまって、大きな怒りのエネルギーとなり、爆発するのではないかと、ふと想像してしまう。どうか、平和で心豊かな1年でありますように。
   枕崎市別府西町 西田 光子(47)