乞食(こつじき)の本来の意味は仏教用語で托鉢のことである。僧侶でない者が路上などで物乞いをすることを乞食(こじき)と呼ぶようになった。「こつじき」と「こじき」では雲泥の差がある。発展途上の求道者と人生の負け犬の意気地無しの違いがある。
6月17日から4日間、飯田市の果樹園の援農ボランティアに参加した。13回目である。毎回同じ篠田農園で世話になる。ご家族に可愛がられ、好意に甘え足繁く通っている。主人は人見知りする、私も同じ、同病相哀れむで長い付き合いになった。
今は渋柿である市田柿の摘果の時期である。一枝に直径1cm程度の3個の実が有るが、真ん中を残し、一個にすると3倍の美味しさが凝縮される。そして3倍の大きさになるから、冬の皮むきの時には、大幅に作業が軽減される。しかし大きな柿は乾燥が難しく、高度の加工技術が要求される。ドライフルーツの市田柿はオレンジの果肉に白色のブドウ糖・果糖が表面に析出して、コントラストが美しい。
都会のサラリーマンの生活に疲れ、半年振りに訪れた。変わらぬ自然環境。仙丈ケ岳・白根三山・塩見岳・赤石岳が雪渓を残し堂々と聳えている。
朝の7時から日没まじかの6時ごろまで、終日、只管、柿の実の摘果に明け暮れる。有り難い事に生活費の支出は皆無である。
夕食は女将さんの手製の豪華晩餐である。主人夫妻の新婚旅行の記念の30年保存焼酎の宮崎芋焼酎・宮の露を頂く。年の功、円やかで優しく咽喉を通過していく。
ほろ酔い気分で、8時には就寝である。明朝6時までおやすみなさい。
梅雨の晴れ間の日差しに埋没し、唯只管に柿の摘果に没頭する。休憩時間には、渇きを癒す為に大量のお茶を飲む。その水分は汗となり消え去る。食後の小便は濃い黄色である。老廃物が凝縮している。体がクリーニングされる。
援農は仏道の修行と同じ様である。春の四国遍路旅と同じ体験である。勤勉な自分、怠惰な自分との戦争である。良くも悪くも、自分で判断し、反省し、食事や扱いはご家族にお任せである。その意味で、仏教の乞食行と同じである。もし万一怪我をしたり、体調を崩す事に成ったら、速やかに帰宅しないといけない。寝込んで喰わして頂いたら、世間のお役に立てない、厄介者の乞食と同じになってしまう。それでは私の自慢が無くなってしまう。
高僧は仏法を述べるが、言葉や立ち居振る舞いで奉仕できない私は、作務即ち労働する事の他に奉仕の方法が無い。只管に作業する。その報酬は健康な心と身体を維持できる事である。
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