「心は子供」ということ考えると、心の問題、認識の問題の難しさ痛感される。
今朝の朝日新聞一面に、「心は女性」を認めて女子大学が入学の許可を検討しているとかいないとかとの記事があった。理論的には明らかな問題であると思うのだが、心の問題であるだけに……と思う。
さて、「心は女性」という問題とは別にして、「心は子供」という問題に近頃、度々出会うことがある。例えば著しく社会性に欠ける言動をして「心は子 . . . 本文を読む
自身が高校生時代を過ごした土地を訪れた。万物は流転するを実感する。
本日、個人的な用件で、自身が高校生時代を過ごした土地に何十年ぶりかで訪れた。山々や川、道路の坂道、曲がり角等々は昔のままであるが、昔によく行った店が無くなっていたり、逆に新しい知らない店が出来ていたりという風景の激変に驚かされ……昔々の高校生時代の未来に向けての希望いっぱいの日々も思い起こされて、当時の自身と自身の環境のありかた . . . 本文を読む
『脳単』による脳の学び行なっている。「好き」という感情とともにの学びの大事性痛感する。
『骨単』で、古典ギリシャ語(コーネイギリシャ語)とともに解剖を学ぶことの有効性、楽しさ実感したので、「これならば、これまで何度か学ぼうとして学び得なかった「脳・神経」の学びもなんとかなるのでは?」との思いとなって、『脳単』(原島広至著 NTS)での「脳・神経」の学びを始めた。
「脳・神経」としての図や説かれ . . . 本文を読む
先日の強風の経験に関わってΣχολή (スコレー・余暇)の持つ意義を実感する。
昨日、小柄で高齢の患者さんとの会話をしていて、先日の春の嵐で電車がストップして深夜に二時間余を歩いて帰った時の、あまりの強風によろめかされた経験を思い出した。これまで何度かその患者さんから、「風の強い日は橋を渡る時に吹き飛ばされそうで恐いのでリハビリを休んでいます。」といわれたことがあったのだが、「そんなやつはおらん . . . 本文を読む
統計学の実践的学びの成果としてイメージできるようになったと思える弁証法の像について、『新・弁証法・認識論への道』(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻』所収 現代社)からの引用とともに説く。
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『新・弁証法・認識論への道』を読み返している。統計学の実践的な学びの成果を実感できたと思える。
南郷先生が「受験勉強」について説かれていることを読み返し、そこに学ぼうとの思いから『新・弁証法・認識論への道』(現代社)の「第五章 第五節 受験勉強のなかでまともな認識を創るには」を読み返すなかで、そこに説かれていることの凄さにどうしても最初から全部を読みたいとの思いとなっていって、最初から読み返して . . . 本文を読む
「古典ギリシャ語」について、その学びの二重の意義。
「古典ギリシャ語」とは、紀元前5世紀頃のアッティカ方言、つまり古代ギリシャ文化の中心地であったアテネで使われていた言語である。それゆえ、古代ギリシャ哲学の原典を学ぶのには必須のものであるとされる。
その「古典ギリシャ語」の学びの機会が持てそうである。そこで、改めてその学びの意義について考えてみた。一般的には、言語は認識と直接的同一性を持つもの . . . 本文を読む
「万物は流転する」(ヘラクレイトス)を実感レベルで分かることが、弁証法を分かることの大元であると思える。吾人が人類の歴史を繰り返すことの大事性痛感する。
ヘラクレイトスの言葉とされる「万物は流転する」は、弁証法が説かれる時には必ずといっていいほどに、これが弁証法の原点であるとして説かれる言葉であるが、その言葉の中身=いかなる像であるのか、は通常は説かれることは無い。しかしながら、本当はその言葉の . . . 本文を読む
風邪・インフルエンザ等に関わる観念論的見解について。
現在、インフルエンザ大流行であるらしい。風邪の季節でもある。自身では、一般的には、風邪をひくのもインフルエンザにかかるのも、自己管理=生活過程を整えることが出来ていないから……との思いがある。
ところが、自身の周囲の人々の見解は、どうもそうではないらしい。風邪だから仕方が無い、インフルエンザだから仕方がない、病氣だから仕方がない……つまり、 . . . 本文を読む
経絡経穴の二重性について考えている。認識論の実力の必須性、それゆえ自身の認識論の実力の無さ痛感させられる。
経絡経穴について学ぶということは、これは経絡経穴に限らず東洋医学の学びにおいては常にであるが、まずは現在の定説としてあるものを学ぶことである。
しかしながら東洋医学のほとんどの学びにおいてその学ぶものは実体としては存在しないと言ってよいものであるから、例えば経絡経穴の問題、例えば五臓六腑 . . . 本文を読む
本ブログは、「鍼灸如何に学ぶべきか」と称しておきながらも、弁証法の学びとか科学的な学問体系の構築のための学びとかの、直接に鍼灸とは関わりない。と通常は思えることを繰り返し書いてきている。理由は、自身の本来の志の問題だけではなく、単に鍼をうったり灸をすえたりするだけでは、もしくは医古文と言われる歴史的な資料を渉猟するのみでは、鍼灸とは何かもそれを如何に学ぶべきかも本当にはわからないであろう。との思いがあるからである。
以上を前説として、本日の記事は弁証法習得のための中学校の全教科の教科書の学びかたについてである。 . . . 本文を読む
「武道・武術の諸問題(1)」の[問題15]薩摩示現流「修練の方法」は、いかなる意義をもつものかを問う。で、「絶叫することは頭脳そのものに実力をつけていく(中略)頭脳の働きが良くなるというのは、生理構造上簡単なことである。そもそも口は顔の中にあり、かつそこは脳にほぼ直結しているだけに、大声を出し続けるならば、脳への刺激が見事な位の強烈さとなるものである。だから、大学の弁論部が、海岸で大声を出す訓練 . . . 本文を読む
三月に入って漸くに昼間の気温が二十度近くまで上がる日がでてきたので、土台力を衰えさせないための朴歯の高下駄で歩くこと行っている。
昔々、自身の大学生時代でも武道・武術を学ぶのでもなければ珍しかった朴歯の高下駄だが、現在ではまず見かけることがない。そればかりか現代の歩道や駅、ショッピングセンター等ほとんどの建築物の床は、下駄では、雨で濡れたら危険なほどに激しく滑る。つまりは、朴歯の高下駄どころ . . . 本文を読む
医古文の学びを行なっていくほどに、東洋医学の原点を創った人々の立場というものが、現代の東洋医学(や鍼灸論)を説く人々の立場とは違っていると思えてくる。両者ともに、同じくに観念論の立場なのではあるが・・・・・・観念論にも新・旧二つあるのではと思う。
東洋医学の原点である、「黄帝内経」をモノした人々の立場=旧・観念論の立場は、古代中国という時代の時代性の制約から、例えば個別科学の未発達等から、 . . . 本文を読む
今年になって気分一新のために財布を買い換えたのであるが、その財布を先日紛失してしまった。
財布を無くしたことより、自身のうっかりに自己嫌悪でいっぱいになってしまった。とは言え、気分一新のための財布購入であったので、再度の財布選び、購入を行った。
財布を紛失しての再度の財布購入であるので、同じものでは意味がない!との思いで、財布の形状だけでなく、財布の素材である革について、革の歴史、革の種 . . . 本文を読む