夏ですね。私らがガキのころは、プロ野球のナイター(ナイトゲーム)と、高校野球の甲子園大会が、「夏の風物詩」といっていい娯楽でした。
ちなみに、「ナイター」ってのは、和製英語です。
それはそうと、今回のPART7と8が取り上げられている1981年、82年(昭和56,57年)ごろは、まさに「夏! 野球! ナイター!」って風潮が、最も強かった時期かもしれません。
そして、この2年間(というか、80年代前半)の夏は、
まさに江川卓のシーズンでした。
とくにこの二年間の夏の江川は、圧巻だった気がします。
まずはPART7(81年)から。
この年は、なんつーか、プロ野球に限らず、社会全体に「新しい時代の幕開け」といった空気が漂ってた気がします。当時、まだ10年も生きていないオレが、「なにをわかったようなことを」とも思いますが(笑)。
でもね、いまのように「ネガティブな、状況にやらされた感のある新時代開幕」ではなく、「無理なく、徐々に、古いものと新しいものが混在、あるいは融合した、穏やかな移行」だった気はします。
ともかく、81年(昭和56年)、それでも江川は4月、5月はタラタラとやってました(笑)。
同じチームでエースの座を争うライバル・西本聖のほうが、この時期は勝ちまくってました。開幕投手も西本だったし。
まあ、この春先の「ふたりの差」が後々、とある評価に影響する、というか「言いがかり」に使われるんですが。
ただ、梅雨に入った辺りからですかね? 江川のエンジンが全開になっていきます。対して、西本はちょっとだけ失速。
7月から9月にかけて11連勝。9月上旬かな? そのタイミングで20勝到達。ただ、その後、軽い怪我もあって、勝ち星はそこで止まりましたが。
いや、ホントに夏場の江川は、おもしろいように三振奪って、おもしろいように勝ってたイメージがあるなぁ。その速球もカーブも、見ていてホントに爽快だった。
それはこの年だけでなく、彼のキャリア全体として、そういう印象がある。
ってか、江川は「デーゲームに弱い」といわれ、たしかに星がよくなかったようだけど、それは「デーゲームが多い時期(4月から5月上旬、9月末から10月初旬)というのは、肌寒い日もあるから、日のあるうちに試合をやることが多いんであって、すなわち江川は夏場に強く、涼しい時期が苦手」ってことかもしれませんね。
ともかく、やっぱり江川の奪三振ショー、完封劇は、まさに「スーパースターの所業」でしたよ。
結局、この年の江川は20勝6敗(20完投、7完封)、防御率2.29、奪三振221などで、それら三冠に加え、最高勝率、最多完封と、投手五冠のうえ、シーズンのMVPと、タイトルを総なめでした。
ただ・・・投手にとっては最高の栄誉ともいえる沢村賞は、同じチームの西本でした。
まあ、西本も18勝12敗、防御率2.58ではありました。江川がいなければ、文句なく最多勝、最優秀防御率だったでしょう。すなわち、江川がいなければ、沢村賞も文句なし。
けど、数字だけでなく、野球ファンに与えた影響も込みで、「どう考えても、江川じゃないの?」って空気は強かったですよね。
このころの沢村賞選考は記者投票で、ご存知のとおり、江川は入団の経緯、その際の記者への態度(まあ、本人は『冷静になってください』いっただけだが、あとで見返すと、たしかに相手を見下してるようにも見える)なんかがね。ってか、記者の態度や言い草に問題があった気がするけど。
で、「江川が勝ち始めたのは、4月、5月の西本の勝ち星により、巨人が波に乗ることができたから」などという、言いがかりともいえる理由も挙げられてね。
まあ、いずれにせよ、まだアンチ江川が多かった時期ではありますね。
ただね、まあ、前年からの活躍と、じつはユーモラスのある江川の性格も手伝って、このころからは人気も出てきましたよね。
本人も、そういう空気は満更でもなかったのか、「掛布さんがキンチョールなら、ボクはフマキラーボールで対抗」(掛布がキンチョールのCMに出てた/笑)なんて、いってみたり、まあ、球団からの指示もあったんだろうけど、
自身もこんなCMをやってみたり(笑)。
ってか、江川出演CMといえば、「♪笑顔と江川~、熱海後楽園ホテル~」のほうが印象にありましたが。
まあ、ダーティなイメージは、そろそろ薄まっていった時期でしょうかね。それでもまだ賛否両論だったけど(笑)。
あ、ほかの選手のことも・・・(笑)
この年の、江川以外のスターといえば、やはりゴールデンルーキー・原辰徳でしょうね。
当時、子供だった私にとっては、「野球マンガのヒーロー」みたいなイメージがありましたね。
希望している巨人に、籤を当ててもらえる強運、見た目はさわやかなハンサムで、ルーキーにして20本以上のホームラン、さらにはルーキーイヤーにチームが日本一ですからね。
もちろん、この年の新人王を取ったわけですが・・・彼の場合、当時のおっさん世代がON、とくに長嶋茂雄を美化しすぎてたんで、江川とは違う意味で叩かれてたんですよね。
ウチの親父なんかもそうでした。もちろん、ONが偉大なのはわかるんですが、原もいい選手でしたよね。
まあ、大人たちがあまりに原を叩くもんだから、私自身も彼の偉大さに気づくのは、もうちょっとあと、自分も野球を始めてから数年後を待つことになりましたが。
なお、この年の日本シリーズは、江川2勝、西本2勝で、大沢親分率いる、江夏豊やソレイタ、柏原を擁する日本ハムを下し、巨人が8年ぶりに日本一になっています。V9最後の年(1973年)以来です。
胴上げ投手は、最初の画像のとおり、江川。
で、82年(PART8)。
この年も江川です(上の画像にはいませんが/笑)。
この年の彼は開幕投手で、4月から順調に勝ち星を重ねていき、得意の夏場には二年連続20勝、そして「今度こそ、沢村賞」が見えてきましたよね。沢村賞選考が記者投票から、プロ野球OBによる選考に変わったこともあって。
ちなみにこの年、オレは初めて後楽園球場で観戦しました(巨人中日戦)。「初のプロ野球観戦」は、前年の横浜スタジアムでの大洋巨人戦でしたが。
前年は誰が投げたかは覚えてない(笑)。巨人が勝ったのは覚えてるけど。
後楽園のときは西本でしたね。まあ、巨人は負けましたが。
ライトスタンドでの観戦だったんですが、トマソンだったかホワイトだったかだと思うんだけど、試合前の守備練習で、外国人選手がライトフェンスぎりぎりから、ホームまでノーバンで送球してね。「すげぇ」なんて思った記憶も(後楽園が狭いとはいえ/笑)。
それはそうと、この年も巨人は江川、西本が順調に勝ち星を重ね、前年に11勝を上げた定岡正二も勝ち続け、この三本柱を擁することもあり、V2は確実視されてましたね。
前年、ストッパーで活躍した角三男(当時)や、あるいは鹿取義隆といったリリーフ陣は調子を落としていたけど、先発陣がほとんど完投してましたからね。
それが・・・
よく覚えてますよ。優勝を争っていた中日との一戦。9月26日だったようですね。
エース江川の好投で、この年は恐竜打線と恐れられていた中日も、敗色濃厚でね。
完投勝利目前の9回裏(ナゴヤ球場での試合だった)。江川が突如の乱調。
当時、野球中継の延長はなく、TV中継が終了すると、ラジオを聴く必要があったんですが(ラジオは試合終了までやってた)、とある解説者が、
「肩が冷えちゃったんですよ。キャッチボールくらいは、やっておかなきゃダメなんですよ」
なんて、私情混じりなのが子供心でもわかるような口調で、批判しててね。まあ、この私情は「江川憎し」ではなく、「巨人贔屓ゆえに」って感じだったんですが。
この解説者が誰だったのかはわかりませんが、まあ、巨人OBか、OBでなくても巨人贔屓だった人なんでしょうね。
たしかね、9回表の巨人の攻撃が長かったんですよね。
いまでこそ、味方の攻撃時間にかかわらず、2アウトになると、ピッチャーはキャッチボールを始めますが、それまではやらない人が大半だったと思う。
あるいは、江川のこのときの乱調がきっかけで、そういう習慣が始まったのかもしれませんね。
ともかく、この試合、中日打線が江川を攻略し、サヨナラ勝ちをすることで、優勝への道筋が開けることになります。
ちなみに、江川はこの年、19勝止まりで(それでも凄いけど)、広島の北別府が20勝を上げていたこともあり、沢村賞は彼が受賞することになります。
さらに余談ですが、西本、定岡はともに15勝で、投手力では文句なく巨人のほうが上だったんでしょうが・・・前述のとおり、優勝は中日となります。
そういえば、中日(当時)の田尾安志(のちに楽天の監督もやりましたが)が、1厘差で首位打者を逃したんですが・・・競争相手の長崎啓二擁する大洋の投手陣が、四打席連続で敬遠してきたんで、当てつけにボール球をわざと空振りしてたシーンなんかも、覚えてます。
一方、パ・リーグを制したのは西武ライオンズ。球団創設後、初の優勝です。
この年で、前期後期制が廃止されたんですよね。っつーか、CSなんかやるくらいなら、前期後期制を復活したほうがまだマシだと思う。
ともかく、田淵幸一、石毛宏典擁する西武が、広岡監督と選手間で軋轢はありつつも、中日を破り、初の日本一に輝きます。
いま思えば、西武の80年代黄金時代の幕開けでしたね。
また、やはりパ・リーグの話題としては、落合博満が初の三冠王に輝いています。まあ、このころはまだ、落合のことは知らなかった気がしますが(笑)。
まあ・・・なんか江川の話題ばかりになってしまいましたね(笑)。
ってか、80年代前半、とくに81,82,83辺りは、江川中心に球界は回ってましたから。
もう、よくも悪くも江川。人々の話題のうえでも、彼が取り上げられることが多かった気がします。賞賛、批判の割合は両極端でしたが(笑)。