マッシュムラムラ(仮) ――クラ鈴が斬る!――

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氷室京介、あぶない刑事、マンガ etc

別冊ベースボール よみがえる1980年代のプロ野球 PART9&10

2020-09-21 22:09:31 | スポーツ

このシリーズのレビューも、今回で終わりです。
まずはPART9(1983年=昭和58年)
このころは日本の最盛期ではないでしょうか。景気は適度によく、後のバブル期のような浮ついた雰囲気もまだなく、人心も穏やかで牧歌的――世の中全体に余裕があって。日本が最も豊かで平和だった最後の年代が、この年辺りなのかもしれません。
人心も社会構造も、ずっとこのころのままであってほしかったです。
ともかく、その83年から。
上の画像にあるとおり、この年は巨人の50番トリオと、西武巨人の日本シリーズでしょうね。
50番トリオというのは、駒田徳広、槇原寛己、吉村禎章のことです。それぞれの背番号が、駒田は50、槇原は54、吉村は55だったんですよね。
当時、若手だったこの三人が大活躍してね。とくに駒田は、





プロ初打席で満塁ホームランでしたからね。



衝撃的でしたよ。デーゲームだったんで、リアルタイムではなく、夜のニュースのスポーツコーナーかなんかで見たんでしょうが、それでもね。
槇原も凄かったなぁ。滅法、球が速かった。スピード表示的には、江川より上だったもんね。
ただし、このころの彼は、めっちゃノーコンでした(笑)。後に、斎藤、桑田と三本柱になる彼ですが、最初のころは結構、不安定だったかな。
その90年代の三本柱で、放る球だけを見れば、最も才能があったのは槇原だと思います。変化球(フォークやスライダー)のキレ、コントロール、どれをとってもピカ一でした。その分、球威を抑えるようになったけど、それでも充分に速かったし。
ただ、「放る球」の才能に特化してしまったのか・・・勝ち方を知らない、というか、勝ち星に恵まれなかったんですよね。年間でも13勝が最多だし、通算勝利数も、20年近くやって159勝だし(槇原の才能的には物足りない)。
で、プロでもピッチャーをやれる人って、運動神経、野球センスの塊であって、このため、バッティングもバントも、そして守備も上手いもんなんですよ。同じ巨人でいえば、江川も西本も、斎藤も桑田も上手だった。
それが、槇原の場合、どれも・・・(笑)。とくに、バントは壊滅的だった気がする(笑)。
それでも、いいピッチャーでしたけどね。後にパーフェクト・ゲームをやってのけるし。
吉村はね、当時はそんなに印象になかった気がするな・・・彼を凄いと思ったのは、86,7年辺りかな。
で、日本シリーズは、50番トリオや江川、西本を擁する巨人と、田淵幸一、石毛宏典、東尾修や松沼兄弟を擁する西武ライオンズの対戦になるんですが・・・その前に。
この年も前年に続き、後楽園球場で観戦したんですよ。ただし、巨人戦ではなく、日本ハムvs西武
当時、ジャンボスタンドと呼ばれる二階席があって、ほとんどの部分がファールゾーンだったんですが、一部はフェアゾーンでね。オレが座ったのは、そのフェアゾーンに該当するトコ。
で、当時、もう全盛期を過ぎていた田淵が特大のホームランを打ってね。それが、オレの目の前で落下し、一階席の最上部へ落下していったんですが・・・ホームランボールをあそこまで間近で見たのは、後にも先にも、このときのみだったかもしれません。
いまでも鮮明に覚えてます。「コン!」という打球音、当時の東京の、スモッグがかかったような青空に舞う白球、





時が止まったかのように滞空していた打球と、その背景に、完全に見惚れてしまいましたよ。



あそこまで印象に残っている、もっといえば、美しいホームラン――それを間近に見たなんて体験は、ほかに覚えがありませんかね。別に田淵のファンではなかったにもかかわらず。
そんな田淵を擁する西武と、巨人によるシリーズは、ホントに名勝負といえたかもしれませんね。
巨人は江川、西本、槇原といった投手力に加え、打点王を取った原辰徳を中心とした打線も好調で、また、松本匡史が盗塁王を獲得するなど、投打のバランスが取れていたうえに、機動力にも長けた好チームでした。
対する西武も同様に、投打のバランスが取れた、リーグチャンピオンにふさわしいチームです。
この年のレギュラーシーズン、江川は16勝、西本は15勝で、江川はセーブポイントも得るなど、先発、リリーフに大活躍でした(西本も、たしかリリーフもやったと思う)。
ただ・・・いまになって考えてみると、江川はこのころから、球威が衰えていたかもしれませんね。
いや、いいときは相変わらずなんですよ。おもしろいように三振奪って。けど、悪いときは明らかに、まっすぐが走ってなかったというか・・・
それもあってか、自ら「コシヒカリ」と名付けた変化球を放るようになって・・・まあ、カーブの一種なんだとは思いますが、本人曰く、「打者の目前を通って曲がるので、打者の腰が引ける」というコンセプトによるものらしいです(笑)。
まあ、農協だったか農家だったかが、江川にコシヒカリを送ってきたので、味をしめた彼が、





「次は、マスクメロンという球を」



なんて言ってたような気がしますが(笑)。
ともかく、日本シリーズです。
たしか、江川は肉離れの影響で、全くボールがいってなかったんですよね。そのせいか、カーブ頼みだったんで、早いイニングで田淵らに攻略されて。
一方の西本は、シリーズ前半は好調で、第五戦の時点で二勝を上げていました。
対する西武も試合巧者で、一進一退の展開に持ち込んでいきます。
そして、巨人が王手をかけた第六戦。2対1で西武リードの最終回。中畑清による起死回生の同点タイムリー(スリーベース)などで、巨人が逆転。
その裏、巨人は、前日に勝利投手となっている西本をマウンドへ。
だが、やはり疲労のためか、西本が打たれ、西武が同点に。
10回裏には江川がマウンドに登るも、彼もまた打たれ、西武のサヨナラ勝ち。
続く第七戦。前日の雨天順延を挟んだとはいえ、三連投になる西本を西武打線が攻略し、西武が二年連続日本一に。
これね、第六戦、「江川としては最終回にリリーフへ行くつもりだった」「一方の西本は、自分はない(第五戦で勝ち投手になっているうえに、場合によっては第七戦のマウンドに登る必要があるため)」だったんで、西本がリリーフに立った時点でね・・・
西本は疲労のうえ、心の準備がなかったし、自分がいくつもりであった江川は、モチベーションが低下しちゃったし。子供心にも「なぜ、西本連投?」「江川でないにしても、西本以外のピッチャーじゃない?」といった気持ちにはなりましたね。
まあ、後に藤田監督が「流れを変えたくなかった(好調の西本で押し切りたかった)」と、言ってましたけどね。
一方の、勝利監督である広岡達朗さん。この勝利のあと、巨人OBの川上哲治さんのもとへ優勝報告にいった際、川上さんに「おまえなら、いつでも勝てるじゃないか。負ければよかったじゃないか」言われたらしいね。
これは「なにも巨人相手に」って意味かと思われるんですが・・・広岡さんの言葉(このPART9に載っています)が事実であるのなら、川上さんの言葉もどうかと思いますね。
まあ、私が知る限り、広岡さんは川上さんに嫌われて当然な言動を見せていたんですが・・・それでもお見舞い(当時、川上さんは入院していた)を兼ねて報告に来てくれた後輩に対する言葉じゃないんじゃないかな?
あくまで、「広岡さんの言葉が事実であるのなら」という前提だけど・・・嫌われている人間にも、理はあるんだろうね。

続きまして、84年(PART10)。


この年は、広島カープの年といってもよかったかも。
投手陣は山根和夫、大野、北別府、川口、小林誠二。打線は山本浩二、衣笠、小早川、高橋慶彦、長嶋清幸。盤石の布陣でしたよね。
この年の広島は、安定して強かった気がします。
対するパ・リーグ覇者は、阪急ブレーブス。「阪急」では最後の優勝じゃないですかね?
このころはまだ、山田久志とか今井雄太郎とか、活躍してたんだよね。世界の盗塁王・福本豊も健在。
加えて、ブーマー、松永、蓑田、山沖。そりゃ、勝ちますよ(笑)。
その両者による日本シリーズは、4勝3敗で広島が制します。カープにとっては、この1984年が、現時点では「最後の日本一」となっています。
一方、球団創設50周年で、王監督船出のシーズンであった巨人は、三位に終わります。
シーズン序盤、勝てなかったもんなぁ。江川も西本も、打線では原も、調子悪かったと思う。
まあ、江川はオールスターの八連続奪三振があり、後半戦はコンスタントに勝っていくんですが・・・明らかに、衰えが見えていました。
それでも15勝を上げ(西本も15勝)、ちゃっかり最高勝率のタイトルを取ってんですよね(笑)。まあ、勝ち方を知っているというか、帳尻合わせるのが上手いというか・・・(笑)
ちなみに、オールスターの連続奪三振、最後の大石大二郎を追い込んでおきながら、当日の球威を考えれば(ブーマーも落合も、手も足も出なかった)、まっすぐ投げれば三振取れた率が高かったにもかかわらず、カーブを放った理由は・・・
本人が「カーブがワンバンして、振り逃げになれば、10連続奪三振が狙えるから」なんていってたけど・・・江川だからなぁ(リップサービスかもしれん/笑)。
ちなみに、振り逃げも記録上は三振です(笑)。

そんなわけで、「1980年代のプロ野球」という「週刊ベースボール」の別冊をレビューしてきましたが・・・なんか、90年代もやるらしいね(笑)。最初は「10.8決戦」のあった1994年からだそうです。そっちはレビュー、やらないと思うよ(笑)。まあ、買うとは思うけど。
それにしても・・・やっぱプロ野球は80年代、昭和末期が最も華やかだったかもしれませんね。
まだONの残り香があり、そのうえで、江川、掛布、落合、清原、バース、ブーマーと、スター選手がバランスよく、いろんなチームに分散されていったことも、一因でしょうかね。
まあ、私自身がまだ子供で、なにもかもが新鮮に見えていた時代だったから、というのもあるんでしょうが。
それでもね、この時代のプロ野球には、夢が溢れていたと思います。後のプロ野球ももちろん、魅力がありますが、80年代(昭和末期)のプロ野球は、選手もチームも、個性が豊かで、とくに子供たちを魅了してやまないものであったかと思われます。

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賊軍土方歳三

2020-09-06 11:14:30 | マンガ

1巻が出ました。「以下、続刊」です。
新選組副長・土方歳三をフィーチャーした作品です。
まあ、基本は史実、というか、伝承に基づいた作風ではありますが、「病床にいたはずの沖田総司が、小姓・市村鉄之助として、土方に同行する」「会津に滞在している土方が、山本八重と出会う」などといった脚色も若干、加わってます。って、後者はホントに会ってたかもしれんけど。
とりあえず、



沖田(向かって右)の伊達男ぶりがカッコいいですね。

もちろん、土方もカッコいいんですが、この沖田はお気に入りです(笑)。
ってか、プロローグを見る限り、沖田はどうやら函館まで同行するようですね。函館で、土方とともに散るのでしょうか。あるいは、ふたりで脱出し、パリへ向かうのか(第一話で、土方が沖田に『パリへ行こう』『西洋の医術なら、おまえの病気も』と口にしている)・・・?
まあ、司馬遼太郎も「燃えよ剣」で、斎藤一を函館まで行かせてますからね。司馬さんのは誤認っぽいけど、「沖田がじつは生きていて、函館まで」という創作があってもいいとは思います。
で、京へ向かった土方、沖田が、近藤勇の首を取り返し、それを持って、会津へと。
そこにはかつての仲間、斎藤と島田魁の姿が。

斎藤



島田


土方、沖田との再会を喜ぶ島田。一方の斎藤は、土方は別として、沖田に対しては疑念と不信感を抱いていました。
ただし、それらは沖田の立場(例えば、密偵であるか否か、など)を疑っているのではなく、「病身の彼が戦力になるのか」といった観点のものです。

斎藤「では、なぜお連れになった。病人なんかを! (略)
――もうすぐ会津は戦火の渦の中心になる。そのような者が会津を支え、剣を振るえるとは、私には思えない!」

それに対し、



静かにキレる沖田。



そんなふたりに、オロオロする島田(笑)。

そして――



斎藤一は無敵の剣。



沖田総司は猛者の剣。



「気は済んだか。斎藤」
「流石だな、沖田さん」

結果、島田の「いちいち喧嘩しなきゃ、仲直りできないのかよ」といった台詞で、その場は一転、和やかになります。
そういえば、沖田と斎藤の年齢、「斎藤が年上、沖田が年下」という設定になる作品が多い中(るろ剣も『どうしたんですか、斎藤さん』『なんでもないよ、沖田君』でしたからね)、この作品は史実どおり、「沖田のほうが斎藤より年上」といったことになるようですね。
もちろん、多少の創作部分はあっていいとは思うけど、史実に沿った作品もいいですよね。ま、おもしろけりゃ、何でもいいんですが(笑)。

で、1巻は、土方、沖田が持ち帰った近藤の首を会津天寧寺に祀るところで終わっています。
この際、官軍の報復を恐れて難色を示す僧侶たちが多い中、突如、現れた宰相様――松平容保がね、近藤の首を抱き寄せつつ、涙ながらに祀ることを許してね。
冷徹な土方も、容保の仁君ぶりに、ただただ平伏するばかりでした。まあ、その直前、土方が容保に、なにやら耳打ちしてましたが(その内容は不明)。

この賊軍土方歳三、新選組や幕末ファンは無条件に楽しめると思いますよ。ってか、土方、沖田は文句なく、斎藤も見ようによってはイケメン(斎藤は和風イケメンなので、評価が分かれるかもしれませんが)ですので、イケメン好きな女性読者も楽しめるかも。何気に、宰相様もイケメンだし(笑)。
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