さて、昨日の柳時春のインタビュー(12月26日分)の後半です。ちょっと、僕の体験を話すと、一番初めに韓国に来たのは、確か1986年の夏に在日韓国YMCAのツアーで来て、その後、年末、五月の連休、秋の連休と1987年には3回来ていました。当時は韓国語もようやく挨拶ができ、食事の注文ができる程度。町中では写真は撮れない雰囲気でした。当時のことは、また別の機会にしますので、柳時春のインタビューの後半をご覧ください。
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柳時春(ユ・シチュン):はい。 ビハインドストーリーをちょっと申し上げますと、最も重要なのが、そんなに爆発的な力を持つようになったのは最後に野党が合流し、共に組織を立ち上げたため、それだけ爆発的な力があるようになりました。 朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起きて、それこそ民主化運動団体だけで2月7日、3月3日に追悼集会と平和大行進をしたのですが、そのときは青年学生たちと民主化運動団体だけ結合をしてデモをしましたが、大きな大衆的な反応を得られませんでした。
李政烈(イ・ジョンヨル):怖くもあった、事実上その状況が?
柳時春(ユ・シチュン):怖かったです。 しかしこれもビハインドストーリーですが、3・3の追悼集会、平和大行進が学生たちと在野団体だけでたいへん小規模で行われ、すぐに鎮圧を受けたので、全斗煥(チョン・ドゥファン)集団が自信を持ったようです。 そこで登場したのが4・13護憲宣言です。 「我々はお前たち要求を聞き入れる事はできない。我々だけで体育館に集まり大統領選ぶ。 私は盧泰愚(ノ・テウ)に譲渡する」宣言を4月13日に行うことになります。
李政烈(イ・ジョンヨル):「4・13護憲」も久しぶりに聞く言葉ですね。
柳時春(ユ・シチュン):はい。ところが、その直前に、数年前にシム・ウンギョンという名前で在韓米大使をしたスティーブンソンという女性の方がいらっしゃいます、韓国語が上手で。その時は、米大使館の参事官だったです。その方が私たちを訪ねて来ました。 友好的でしたね。私たち民主化運動勢力の所に来て、気をつけてと注意してくれました。「今、全斗煥(チョン・ドゥファン)は、なにも目に入らない。 明日か明後日ごろ、たぶん自分たち同士で体育館で再び権力を継承するという宣言をするつもりだ。そして弾圧がもっと深刻になるから、気を付けて行動して」と。その理由は、「2・7追悼集会と3・3平和大行進があなたたちだけの集会で終わったではないか。全斗煥(チョン・ドゥファン)が自信を持つようになったようだ。気をつけろ」と私たちにこっそり教えてくれました。
李政烈(イ・ジョンヨル):どうでした、その時の気分?
柳時春(ユ・シチュン):そうなってもそうでなくても、関係ない。私たちは、我が道を行く。
李政烈(イ・ジョンヨル):すごいですね。 座って話だけ聞いている私も背筋が寒くなります。
柳時春(ユ・シチュン):それで4・13護憲宣言が事実上、国本(国民運動本部)の結成に火をつけたことになります。到底、このままではダメだ。自分たちだけで、体育館に集まってひそひそ話し合って、「私、全斗煥は友達の盧泰愚(ノ・テウ)に大統領を譲る。お前たちは目を閉じて口を閉じて、じっとしていろ、与えるのも食べて」というような宣言だったという言葉です。 4・13護憲が出て、二日後に国本を結成する立ち上げの会議をすることになります。
李政烈(イ・ジョンヨル):その立ち上げの会議、国本を結成した。さっき、3・3大行進まで言われた。 4・13護憲まで出てきたので、およそ5月ごろですか。
柳時春(ユ・シチュン):違います。 4・13護憲出てこれは本当に我慢できない。このように思って、4月16日でしょうか? 牛耳洞レンギョウ山荘という粗末な家で、十人ほど集まって立ち上げたのです。その時は、野党、政党が合流するとは思いませんでしたが、宗教団体、在野団体、学生運動団体がみんなでひとつになることが必要がという立ち上げの会合をしたのが、たぶんその翌々日だったようです。
李政烈(イ・ジョンヨル):4月15日、16日。その時、私が覚えているにはその当時、87年度の状況を後から「6月抗争」と呼ばないですか? そして、その6月抗争と命名された理由が6月10日に大規模な集会があります。 6月10日、このあたり頃に国本や先生が。
柳時春(ユ・シチュン):はい。それで長い議論を経た上に最後に甲論乙駁を繰り広げたのが野党を参加させるかどうかでした。 そうでしたが、結果的に考えば、野党を参加させたのはとても良い判断でした。地域的には済州(チェジュ)からソウルまで、年齢的にも10代で70代の高齢者まで。 慶尚道と全羅道の区別がなかったし…。 その次に分野別でも農民、女性、貧民、学生、人権、法曹、文化、芸術、このすべてのジャンルで、民主化運動をしていたすべての団体が網羅されました。 それで6月10日の朝に、私たちがなぜそれが成功できたのかと言えば、韓勝憲(ハン・スンホン)弁護士のような方が非常に知的なユーモアで、ほとんど神話の段階にいらっしゃる方なので、後に回顧することを「6月抗争が成功したのは聖公会で開催したために成功した」と、こんなこともおっしゃっていたそうです。
李政烈(イ・ジョンヨル):今で言えば、それ、オヤジギャグですが。
柳時春(ユ・シチュン):オヤジギャグですか。その時は凄く新鮮でした。それで国本が発足した5月27日の朝は、昨日のように鮮明に覚えています。そこに出席した200余分の発起人たちは皆、私のように担当刑事が見張っている要注意人物です。
李政烈(イ・ジョンヨル):今のやり方で表現すれば「査察」。
柳時春(ユ・シチュン):ブラック、ブラック・ブラックリストに載っているんです。
李政烈(イ・ジョンヨル):どれだけ黒いば、3回言いますか?
柳時春(ユ・シチュン):そのために場所を事前に知らせる事ができませんでした。 定めませんでした。漏れていくかも知れないから。
李政烈(イ・ジョンヨル):今のように、インターネットでサイていがあるわけでもないし。
柳時春(ユ・シチュン):はい。なぜなら国本を結成したあいつらが何か事をおこすということは捜査機関も知っていましたたが、何月何日どこなのかは知らなかったんです。 5月27日は私たちが決めております。場所はその前日まで誰も知りませんでした。 それでまず、すべての団体が鍾路通りに隠れていることにしました。 光化門(クァンファムン)から、東大門まで鍾路(チョンノ)両方の道に適した場所にいることにして、伝令がメモを書いて通いました。
李政烈(イ・ジョンヨル):笑ってしまいますが。
柳時春(ユ・シチュン):でも、その時はとても切迫していました。それでうちの民家協(逮捕者の家族の組織)はどこにいたかというと鍾路2街の路地にある、その当時、民家協の会員がしていたカフェを夜明けに開けてもらい、そこに待っていました。 私が外に出ると、夜明けの光が輝く朝でした。 5月27日朝6時に、遠くから誰が来ました。キチュンさんです、明洞(ミョンドン)の青年連合の幹事をしていた。以前に大統領府でも働いていた。
李政烈(イ・ジョンヨル):キチュン、金淇春(キム・ギチュン)?
柳時春(ユ・シチュン):ではないです。やって来て、こんなふうに通り過ぎ、メモを、小さなメモ用紙を一枚を私の手に握ぎらせて、いきました。見たら「ヒャンリン教会」と書いてあるのです。その時、私たちがどこで会議をするかをめぐって民主化運動のメッカだった鍾路5街のキリスト教会館、その次に明洞聖堂、ヒャンリン教会、西大門にあるキリスト教社会問題研究院。その四ヶ所を考えていましたが、未明の5時ごろ行ってみたら気配を感じた警察が、警察隊たちを残りの三箇所は配置していきました。行ったり来たりしていますから。キリスト教会館とキ社研と明洞(ミョンドン)聖堂前は、戦警が敷かれていて、私服刑事たちが行ったり来たりします。
李政烈(イ・ジョンヨル):その側の立場で見れば予想問題じゃないですか。
柳時春(ユ・シチュン):そうです。 予想問題です。 ヒャンリン教会はなかったんです。 それでヒャンリン教会に決めたのが5時半ぐらい。そして6時にメモを書いて鐘路通を中心に散在していた団体に渡していったのです。
李政烈(イ・ジョンヨル):まるで、映画ですね。
柳時春(ユ・シチュン):はい。 でも今回の映画には、その話までは出ませんでした。 映画は多分、国本を結成して6月抗争が起こる直前までの事実関係を追跡したものです。その後の話も、映画の前にしておかなければならないでしょう。 そうしてみんなヒャンリン教会に7時ごろに集まってきました。 一瀉千里に進行をして終わって出ると、その時になってようやく消息を聞いた警官らが、鶏を追っていた犬が屋根を見つめるように眺めていて、一方私たちが意気揚々と出てきました。 そんなにして、結成しました。
李政烈(イ・ジョンヨル):緊迫していましたね。さて、ヒャンリン教会で国本が発足をしました。 時間が早く行きますね。 今日、全て終わらせられませんね。 わ、大変だ。
柳時春(ユ・シチュン):それじゃ、6月10日に定めたのは。
李政烈(イ・ジョンヨル):先生、これは映画も映画ですが、もっと詳しく聞いて、それで先生にもう一度ご迷惑かもしれませんが、詳しく一回追加したらと思います。それでは、ヒャンリン教会で発足して、その次にさっきおっしゃった聖公会でしたからに成功したと、聖公会は、それでどのようにして出たんですか?
柳時春(ユ・シチュン):私たちが聖公会はその時、守らなかったために、そして聖公会にその時若い神父たちがたくさんいて、ほとんどが最近の486世代たちで、その時は20代、30代の若者で、私たちに非常に協力的でした。 そこは警察が守っていなかったのです。そして6月10日に決めたのは、初日の会議で全斗煥(チョン・ドゥファン)が盧泰愚(ノ・テウ)に権力を継承する民政党全党大会が6月10日12時なので、その日に私たちが対応をしたのです。
李政烈(イ・ジョンヨル):その時、私も記憶が生々しいですけど、1987年6月10日に民主正義党全党大会で大統領候補を選出するが…。
柳時春(ユ・シチュン):ヒルトンホテル。
李政烈(イ・ジョンヨル):はい、そこで祝宴をそこでしました。 ヒルトンホテル、崇礼門の隣に。私がそのとき6月10日に崇礼門付近にあったんですよ。
柳時春(ユ・シチュン):催涙弾の煙、膨大なものだったでしょう。
李政烈(イ・ジョンヨル):南大門(ナムデムン)市場を初めて行ってみたのがその時でした。 逃げて行く、と。 時間がもうこんなになりましたね。 私が先生もう一回出てくれるように説得をして、明日、もう一度お迎えようと思います。先生、今日の話、ありがとうございます。
柳時春(ユ・シチュン):そうですが、 6月10日に機動隊が水が漏れる隙間もないぐらい取り囲んでいる3重、4重の機動隊の壁をかき分けて聖公会の進入に成功した二十人の話が一つ一つが映画です。
(続く)