1900年代後半に初めて職場のⅯ君と白馬岳に登った時、Ⅿ君は山頂の石を拾って帰った。その年かその前年に不治の病により20代前半という若さで亡くなったⅯ君の後輩の墓前に手向けるためだという。その後輩も山が好きで白馬岳に登りたがっていたとのことでありジーンときたことを思い出した。
小石で思い出したが、百名山に本気に登りだした2006年以降、オイラも山頂の小さな石を拾ってザックのポケットに忍ばせ帰り、登頂年月日とかをサインペンなどで書いていたっけ。失われた記憶の一部は、その石をみればわかるはずだ。ということで棚の隅を探したら十数個も小石が出てきた。
2007年というものが一番多く、まだ登っていない残りの山を沖縄から戻った2007年に集中して登り歩いたことが分かった。
そして、その小石の中に「完登 日本百名山 2008年3月20日 霧島山」書かれたものがあった。裏には「韓国岳」とかかれており、まぎれもなく春分の日をはさんだ連休に最後の百名山霧島山の韓国岳に車でサポートいただいた熊本のKさんと登った日に山頂付近のどこかから拾ってきた小石だ。
「そうか、勘違いしていた。オイラが完登したのは2010年ではなく、まだ50代前半の2008年3月だったか」と、その小石が教えてくれた。ありがとう韓国岳の小石さん。
(追記)
山の小石を持ち帰ることは、森林法や国立公園法などで禁止されダメに決まっているだろうが、このころのオイラには生きた痕跡を爪痕のように残しておこうという切ない私欲が働いていたのかもしれない。
もちろん今は、自戒してそんなことはやらないが、こんなことをブログで書いたら、令状を持った人たちが押し掛けるのだろうか。まだ、そんな世の中であってほしくない。
で、この小石たち、「わが骨灰とともにどこかの山中に戻してほしい」と遺言状に書いておこうか。
深田日本百名山登頂の思い出 31 雨飾山(あまかざりやま・1963米)
深田さんが百名山に長野と新潟の県境にある雨飾山を推挙しなかったら、世間にはあまり知られないままでいたのかもしれない。深田さんにとっては、戦前から二回登頂を試みたがかなわず、戦後1957年秋にやっとピーク立つことができた久恋の山。二度目の登山は、太平洋戦争の開戦の年、生涯の伴侶となった志げ子さんとの熱い恋を実らせた求愛の山。
深田さんは、「わが愛する山々」の「雨飾山」で、双耳峰の山頂を志げ子さんと眺めながら、
左の耳は
僕の耳
右は はしけやき(愛らしい)
君の耳
と、思わず赤面しそうな歌を即興で詠んでいる。
オイラが、この山に登ったのは1900年代の後半だと思うが、職場の後輩Ⅿ君と仙台から車で出かけ、蓮華温泉から白馬岳を登ってから、その足で小谷温泉に向かって日帰りで登ってきた。山頂の石仏のある所から眺めた日本海と下山後の無料の露天風呂がいい思い出だ。
温泉近くのお店で、2Lのペットボトルの半分まで水をいれた水槽に飼われていた生きた赤マムシをさばいてフルコースでいただいたこともいい?思い出。思い返すと残酷な話であるが、お店のオジサンがペットボトルのふたを開けるとマムシ君が顔を出し、オジサンがすかさず首根っこを金バサミで器用につまんで、はさみでチョッキン。流れ出たマムシ君の血潮を赤ワインに入れてわれわれにまず飲まさせてくれた。そのあとお腹から卵の黄身を取り出して卵焼きにして、皮を剥いで白身のお肉を素焼きにして食べさせてくれた。むくつけきオトコ二人に向かって「これで精力100倍!」とオジサンは豪語してくれたが・・・なんとも深田さんのロマンスとは異次元の思い出である。
深田さんの紀行やヤマケイの写真をみると、この山の秋は絶景のようだ。いまは、新潟側の雨飾温泉からの道も整備されて小谷温泉と繋ぐことも可能だ。温泉もいい山もいいとなったら、また行ってみたくなるのは至極当然だ。ただし、二度と哀れなマムシ君とは対面したくはない。「精力」も必要ないのだから。