七草の夜、たまらなく芹の味が恋しくなって、近所のスーパーに買い求めに。
一束389円。他の野菜に比べ高級感は否めないが、躊躇せず。
太い茎と根っこの部分は、鶏肉、マイタケ、豆腐と芹鍋にし、柔らかな葉と茎の上部はさっと塩で湯がいて白いご飯に和えて芹飯とする。
春よ来い。
日本百名山 MY SONG
67 甲武信ヶ岳(こぶしがたけ・2475米)
68 金峰山(きんぷさん・2599米)
69 瑞牆山(みずがきやま・2230米
【深田久弥・日本百名山から】
(甲武信ヶ岳)
「甲武信岳から、千曲川、荒川、笛吹川、三つの川の源流が出ている。(中略)頂上に降った一滴は、千曲川に落ちて信濃川となり日本海に入る。他の一滴は荒川に落ちて大東京を貫流し東京湾に注ぐ。さらに次の一滴は笛吹川に落ちて富士川となり太平洋のものとなる。」
甲武信岳 千曲 荒川 笛吹の 源流に落つ旅する一滴
(金峰山)
「秩父の最高点はこれよりわずか数メート高い奥仙丈岳に譲るにしても、その山容の秀麗高雅な点では、やはり秩父山群の王者である。」
快哉を叫んだ峠は猫坂と金峰・朝日は何色に輝いた
(瑞牆山)
「由来はどうであれ、瑞牆という名は私は大変好きである。そしてこの名はこの山にふさわしいと思う。瘤岩と呼ばれたほど、大きな岩のゴツゴツ立っている山である。その大岩の群れを、神の宮居の玉垣すなわち瑞牆と見立てられないことはない。」
瑞牆の言葉をネットで調べるや瑞牆山の名ばかり出づる
【深田日本百名山登頂の思い出・再掲】
深田さんのご著書「日本百名山」の目次欄に鉛筆書きで書いていたメモによると、奥秩父北部の甲武信ヶ岳には、昭和51年(1976年)6月、金峰山には、昭和51年(1976年)6月、昭和54年(1979年)11月、昭和55年(1980年)1月1日、瑞牆山は、昭和54年12月(メモには55年とあるが明らかに間違い)とある。
初めは金峰山と甲武信ヶ岳を合わせて登って、その時期が1976年6月であることが分かるが、オイラの遠い記憶では、この時に瑞牆山も登っているはずだ。
金峰山に再登、再々登した理由は、「これから雪山をはじめようか、入門の山として金峰山がいいな」と思ったからだろう。雪山道具をそろえて1979年の11月に登ってみたが、まだ雪が少なかったので、その年の12月末から正月にかけてまた行ったのだろう。再々登は、当時働いていた千葉の事務所の同僚を誘って、まず瑞牆山に登ってから金峰山頂近くの金峰小屋に泊まって、1980年の正月を金峰山で過ごした。
金峰山行の2回目も金峰小屋に泊まっている。この2回目の金峰山では、東京の錦糸町に住んでいるというとても可愛らしい独身女性と山小屋で出会って、一緒に頂上に登ったり、写真を撮ってあげたりして、ほんのりしたひと時を過ごした。だが、その夜の山小屋での登山者同士の歓談で、彼女は他のかっこいい若者たちの注目の的となってしまっていて、ついに間近に話をすることができなかった。シャイなオイラ。
住所を聞くこともなく、そのままで終わったが、そのわずか1ヵ月後の正月にまた金峰小屋に出かけたのは「彼女は金峰山に感動していたな。もしや彼女も登ってきているのかもしれない」という淡い想いが潜在していたのかもしれない。ただ、それだけのささいな話だが、金峰山といえば、いつまでもあの若い女性の微笑みが目に浮かんでくるのは、オイラのさちうすい半生のせいか。
八ヶ岳の左奥に奥秩父の山並みが遠くかすむ。(2019.10蓼科山頂)
六月の甲武信の小屋を過ぎるとき田園交響楽いづこより流る
ニット帽金峰の小屋のをみなごのまなこの光いまだに消えざる
瑞牆の花崗の岩の感触の指の間に残りをりたり