寒い夜には、熱燗やお湯割りをそれ相当にいただいて、早めに暖かな蒲団に潜り込んで、暖かな夢でも見ていればよい。
ただ、その桃源に至る導入が大事で、下手に眠れないと、また起きだして寒い時間を過ごす羽目に陥るのだから、枕もとにスマホとBluetooth専用スピーカーを置いて、Youtubeをいじって、女性の優しい声の朗読を聴きながら眠りに陥ればよい。
こんな厳冬の夜に聴きたくなるのは、そうだな、賢治さんの「雪渡り」とか光太郎さんの「山の雪」なんてどうだろう。キツネたちの幻燈会や月夜の雪の平原に誘ってくれるかもしれない。
しまえりこさん提供 宮澤賢治 「雪渡り」
佐和子の朗読提供 高村光太郎 「山の雪」
日本百名山 MY SONGS 90 大台ヶ原山(おおだいがはらやま・1695米)
【深田久弥・日本百名山から】
「私が登ったのは三月の初めだった。山の上にはまだ雪があったが、吉野の春の息吹きはもうそこに這い寄っていた。最高点秀ヶ岳(ママ)の頂上に立った時、素晴らしい天気に恵まれた。すっかり晴れて、西の方大峰山脈の峰々を一つ一つ数えることができ、東を振り返れば、すぐ眼下に尾鷲の入り江を。小さな島々まではっきり望むことができた。」
(大台ヶ原山・日出ヶ岳山上にて)
三月の吉野の春の雪を踏み大和の峰々数えていたり
(わが愛する山々・「大台ケ原」の結びの記載から
「大和路という甘いひびきを持った言葉を、もう私は幾度となく耳にしているが、実際に眼にしたのは何十年ぶりのことであった。春霞のたなびいている大和の国。しかし私は古寺一つ訪ねず、仏像一見ず、ただ山だけを歩いて、その詩に溢れた野は電車で走り抜けただけであった。」
詩(うた)の国 春の大和路立ち去りぬ 古寺を訪ねず 仏も見ずして
【深田日本百名山登頂の思い出・再掲】
和歌山県田辺市在住の1988年か9年に、紀伊半島の複雑な道路網を数時間、当時の愛車スバルジャスティ1000cを走らせて、やっとたどり着いた大台ヶ原のふもとから、最高峰日出ヶ岳と牛石ヶ原や大蛇嵓などを日帰りで周遊している。山頂からの展望として大峰などの山並みより、東方向に目をやった時に光り輝いていた太平洋の大海原と尾鷲の入り組んだ海岸線がいつまでも脳裏に浮かんでいる。笹原の遊歩道でシカさんたちにも出会ったと記憶している。評判通りの美しく気持ちのいい山上だった思い出がある。
深田さんの紀行や年譜を読むと、深田さんが仲西政一郎さんの案内で大台ヶ原に初めて登ったのは、昭和35年(1960年)57歳の2月29日からの3日間だったが、その年の11月に大杉谷から三之公谷を歩いているし、翌年の7月子供たちと大台ヶ原から大杉谷を下りている。
だが日本百名山の「大台ヶ原」のおしまいの数行の記載が気になっている。
(1960年3月の初登頂から)「それから数年後、再び大台ヶ原山を訪れた時には、山上まで有料自動車道路が通じていた。往きはそれを利用したが、帰りは大杉谷に下った。・・」と記している。
翌年には大杉谷を下っているのに、何年も経ったから歩いたという記載がどうも気にかかっている。あまりにもあちこちの山を歩いている方なので記憶違いだったのはなかろうか。
大台の日出ヶ岳より俯瞰せる尾鷲の海の波頭かな
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