あの時代、ありがちな事かもしれないが、両親は相当な苦労人だったらしい。
特に母は、継母に折檻されて育ち中学を出たら紡績工場に入ったとか。
二年の不妊治療の末、辛うじて早産、仮死、未熟児のくちかずこをやっと出産。
皮膚麻酔だけで、お腹を開いて出したので、なんとか私は助かったらしい。
病弱で発達の遅い、やせっぽちな子供を育てるのはどうだっただろう・・・
当時、父はバスの運転手で、決して裕福ではなかったはずだが、
子供部屋には滑り台が、居間には、父の手作りのブランコがあった。
陶器できちんとすべての器にうさぎと亀のかけっこの絵付けのあった、ままごとセット。
私の成長に合わせ、毎年作り直された布団のシーツの柄は、いつも、シンデレラとかぼちゃの馬車のシルエットだった。
卵の白身で体を洗って貰い、母の手作りの服を一日に何度も着替えさせられて大きくなった。
いつも、欲しいものはないかと聞かれ、いつも何も思いつかない、世事に疎いぼんやりした子に育った。
勉強だとか、成績だとかに感心のない変わった両親だった。
ただただ、自由に生きるように勧める両親だった。
過保護と自由、その両方を与えられて出来上がったのが、くちかずこである・・・
ちなみに、高校時代の握力は左右8キロだった。
ハンドボール投げが7メートルだったかなあ?
逆上がりや跳び箱はできない。
マラソンでは迷子になる始末。
それでも自慢の娘と、胸を張っていた。
さて、もうすぐ50歳のくちかずこ。
致命的なほど、わがままで、根性なし!
で、腕力なし!
釘一本、まともに打てない。
離婚して、最初に困ったのは、電球が一人で換えられないこと。
父は30歳のときに、母は43歳のときに亡くした。
さんざん、過保護にしておいて、それはないよなー・・・
元未熟児とも思えないような立派な体格に育て、
ピアノや看護師で身が立つようにしてくれたのは、両親だが・・・
天国から、立派なおばさんになった娘をどう思って見ているのか・・・
少なくとも・・・このわがまま・・・責任とって欲しいなー・・・
あっつ、天国から石が・・・
おとうさーん、あかあさーん、偉いお坊さんから、血脈という手紙、預かったよー
そっちに行ったら渡すからねーーー
と、物思いにふける くちかずこでした。