川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

1970年6月22日

2011-06-23 09:52:23 | 父・家族・自分

6月22日(水)晴れ 猛暑

 今年はじめての猛暑日、川越も35度を超えたかな。久しぶりにドライブに連れていってもらう。

●旧菖蒲町の花菖蒲園とラベンダーの里

 川越からは県道12号を只管(ひたすら)走った県東北部。交通の激しい道端の旗本屋敷跡に菖蒲園。旧役場付近にラベンダーの里。ふるさと創成事業で作られたのかな?

 大勢の人で賑わっている。ハナアブがラベンダーに止まってみつを吸い続けていた。熟年のおじさんとおばさんが怖がっている。いくらなんでもそれじゃ、アブがかわいそう。妻が怖がらなくてもいいと言ってアブの仕事を説明する。

 広大きわまりない関東平野の水田地帯のど真ん中、日差しが強い。

 

 羽生に向かう122号脇の「ふく茶屋」というそば屋で昼食にする。妻が2000円也もするうな重を食べさせてくれた。川島の小沢屋がなくなってから美味しいうなぎにありつくのが難しくなった。鹿児島産だという。美味。

 正月にFさんに教えてもらった羽生の水郷公園をひと歩きして帰った。炎暑の時に来るところではない。

 ●1970年6月22日

 今日は41年前、妻が第一子(娘)を出産した日だ。僕は学校を休んで友人たちと集会とデモに参加した。

 60年に改訂された日米安保条約がこの日で10年になる。あすからはいつでも合法的に廃棄通告ができる。不可能とは知っていても何としても安保を終わらせたかった。

 米軍のヴェトナム空爆が熾烈を極めており、日本の戦争加担は人ごととはとても思えなかった。僕が働いている池袋商高のすぐ近くに一時「王子野戦病院」が開設され、ヴェトナムで負傷した米軍兵士が連日ヘリコプターで運び込まれていた。私たちも「戦場」にいる実感をいくらかは持っていたのだ。

   ●http://www.kitanet.ne.jp/~takashi/yao-jieitai/yasen-syasin1.htm

 御茶ノ水の三楽病院を訪ねて娘と初めて面会した。7時ぐらいになっていたか‥。

 あれから41年。75年にヴェトナム戦争は米軍の敗戦で終結。今や米越(ヴェトナム)は友好国同士であリ、合同軍事演習まで行なっている。

  ●http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2010-08/13/content_20701383.htm

 日米安保の大義名分は「共産主義の脅威に対抗する」から「中国のアジア支配に対抗する」に変わった。「安保粉砕!」の声は僕には聞こえてこなくなった。僕も言わなくなった。こんなことになるなんて想像もできなかった。

 これからの世界で日本はどういう針路を取ればいいのか?冷戦時代の惰性から抜け出せないまま行き当たりばったりの日々を送っているように僕には見える。僕も同じような混迷のさなかにある。

 三人で食卓を囲んだ。ささやかに乾杯! 暑い暑い夏至の夜、今年初めてパソコン部屋のベッドで寝た。窓は全開。