毎日が日曜日で徘徊老人としてうろついている日々なのだが、家にいる時はテレビを見るか本を読むかしかない。
BSで昼間やる映画を腰を据えてみるのだが、あまり触手がそそられないものもあって、毎日水戸黄門を見るのも業腹。
図書館で借りてあった本は読んでしまって、さあどうする。
この機会に学生時代に読んだ本でももう一度読み直してみるか。
ところが本棚を探って高橋和巳の「邪宗門」でも読んでみようと思ったのですが、手に取ってみると分厚い。しかもハードカバーなのですが2段組の小さな活字。これは内容云々ではなくて今の私の視力では読了するのもなかなか難しい。学生時代は活字が小さくて2段組だとコスパがよくてなんか得になった気分でしたが、今は昔。
そこで方針を変えて、なだいなだの「江戸狂歌」を読んでみました。決め手はハードカバー200ページほどで活字が大きいこと。
そんな動機でも読んでみたらこれが面白い。1984年初版なので、多分読んだのは私が30歳すぎたごろのこと。あまり記憶がないのですが、当時はなだいなだのもっと理屈っぽさに魅力を感じていて、この面白さがちょっとピンと来なかったかもしれない。まだまだ人生修行が足りなかった若気の至りの時代でした。
なだいなだは戦時中は陸軍幼年学校で過ごし、当然ながら冗談が全く通用しない世界。真面目くさった顔をして建前だけを居丈高に言うだけの時代。
だからこそ江戸狂歌との出会いは、日本人はこんなにもユーモアを解する人達だったのかと目が開かれる思いがあったのでしょう。
江戸狂歌はそもそもは内山賀邸の私塾の門人たちの間で唐衣橘州が狂歌好きのメンバー4~5人を集めて作ったサークルから始まる。太田南畝も誘われ参加している。太平の世が続き封建社会の身分のしがらみにがんじがらめになりつつ、自らの才能を発揮することが出来ずにはけ口を求める若者たち。その姿はまさに「しおれし花飾りのごとく」に書かれている医局でくすぶりながら同人誌で日本の文学界に革命をおこそうとたむろする若者たちと重なる。太田南畝たちは実際に江戸狂歌という一大ムーブメントをおこした点が違うのですけどね。
そのサークルには太田とか唐衣のような武士だけでなくタバコ屋を営む商人とか湯屋の主人とかがいて、武士と違って自由の利く町人たちはその仲間の輪をどんどん広げていく。いつの間にか狂歌は一大文学運動となっていく。封建時代の身分に縛られ自由に生きることが出来ない庶民が精神の解放区を作ろうと狂歌に熱中していく。その中で頭角を現しスターになっていくのが太田南畝=蜀山人です。
太田南畝は下級武士の徒士身分で内職しなければ暮らしていけないような70俵5人扶持の家禄。江戸では知らぬ人がないと言われるぐらいのスターになるのだが、ブームに危うさを感じたのかいつしか狂歌から離れて46歳で学問吟味の試験を受け主席合格しているが、与えられた仕事は古い文書の整理ばかり。それでも有能な役人としての能力があり、古い帳面から面白いものがあればすべて書き留めていて、後世の研究者の実に有用な資料になっているとか。
試験を受ける前に狂歌師、洒落本の当代随一の作家として名を成した有名人の太田南畝ですが、試験を主席合格しても、幕府は天才を処遇して使いこなすことが出来ない。太田南畝としてはやりきれない日々だったのだろう。
太田南畝が狂歌から離れたのは寛政の改革を揶揄する有名な句「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武というて夜もねられず」の作者と疑われたことによる。太田は上役の調べに対して「知らぬ、存ぜぬ」と否定しているけど本当はどうだったか。研究者は蜀山人作と推定している。
狂歌のムーブメントが町人に間に広がっていくに従って、直接的ではないにしろ庶民の本音的なお上批判の歌も出てくる。武士たちが後ずさりしていき主役は町民たちとなっていく。それでも当時の狂歌ブームのすごさは一般公募した時に集まった歌が車5台分一千箱に一杯になるほどだったことからも分かる。このことは当時の町人たちが読み書きができ、パロディにする花鳥風月をうたう元歌を教養としてみんな知っていたということであり、その教養水準の高さが分かると言うもの。
花鳥風月をうたうのではなく生活実感から笑い飛ばしていくと言うことには幕府政治への批判をはらんでいる。時代は松平定信の締め付けの時代になっていき、庶民の自由な狂歌運動もエスカレートしていけば幕府としても放置できずに圧力をかけてくる。江戸庶民の文化ムーブメントとして花開いた狂歌運動もやがて散っていく。それでもその精神は地下で脈々と生き続け、詠み人知らずの落書として時代時代を生き生きと活写している。
この本にはたくさんの狂歌が引用してありますが、それを読んでいるだけで当時の庶民の生活が想像でき、人間というのは昔も今もあまり進歩していないなと感服する次第。
BSで昼間やる映画を腰を据えてみるのだが、あまり触手がそそられないものもあって、毎日水戸黄門を見るのも業腹。
図書館で借りてあった本は読んでしまって、さあどうする。
この機会に学生時代に読んだ本でももう一度読み直してみるか。
ところが本棚を探って高橋和巳の「邪宗門」でも読んでみようと思ったのですが、手に取ってみると分厚い。しかもハードカバーなのですが2段組の小さな活字。これは内容云々ではなくて今の私の視力では読了するのもなかなか難しい。学生時代は活字が小さくて2段組だとコスパがよくてなんか得になった気分でしたが、今は昔。
そこで方針を変えて、なだいなだの「江戸狂歌」を読んでみました。決め手はハードカバー200ページほどで活字が大きいこと。
そんな動機でも読んでみたらこれが面白い。1984年初版なので、多分読んだのは私が30歳すぎたごろのこと。あまり記憶がないのですが、当時はなだいなだのもっと理屈っぽさに魅力を感じていて、この面白さがちょっとピンと来なかったかもしれない。まだまだ人生修行が足りなかった若気の至りの時代でした。
なだいなだは戦時中は陸軍幼年学校で過ごし、当然ながら冗談が全く通用しない世界。真面目くさった顔をして建前だけを居丈高に言うだけの時代。
だからこそ江戸狂歌との出会いは、日本人はこんなにもユーモアを解する人達だったのかと目が開かれる思いがあったのでしょう。
江戸狂歌はそもそもは内山賀邸の私塾の門人たちの間で唐衣橘州が狂歌好きのメンバー4~5人を集めて作ったサークルから始まる。太田南畝も誘われ参加している。太平の世が続き封建社会の身分のしがらみにがんじがらめになりつつ、自らの才能を発揮することが出来ずにはけ口を求める若者たち。その姿はまさに「しおれし花飾りのごとく」に書かれている医局でくすぶりながら同人誌で日本の文学界に革命をおこそうとたむろする若者たちと重なる。太田南畝たちは実際に江戸狂歌という一大ムーブメントをおこした点が違うのですけどね。
そのサークルには太田とか唐衣のような武士だけでなくタバコ屋を営む商人とか湯屋の主人とかがいて、武士と違って自由の利く町人たちはその仲間の輪をどんどん広げていく。いつの間にか狂歌は一大文学運動となっていく。封建時代の身分に縛られ自由に生きることが出来ない庶民が精神の解放区を作ろうと狂歌に熱中していく。その中で頭角を現しスターになっていくのが太田南畝=蜀山人です。
太田南畝は下級武士の徒士身分で内職しなければ暮らしていけないような70俵5人扶持の家禄。江戸では知らぬ人がないと言われるぐらいのスターになるのだが、ブームに危うさを感じたのかいつしか狂歌から離れて46歳で学問吟味の試験を受け主席合格しているが、与えられた仕事は古い文書の整理ばかり。それでも有能な役人としての能力があり、古い帳面から面白いものがあればすべて書き留めていて、後世の研究者の実に有用な資料になっているとか。
試験を受ける前に狂歌師、洒落本の当代随一の作家として名を成した有名人の太田南畝ですが、試験を主席合格しても、幕府は天才を処遇して使いこなすことが出来ない。太田南畝としてはやりきれない日々だったのだろう。
太田南畝が狂歌から離れたのは寛政の改革を揶揄する有名な句「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武というて夜もねられず」の作者と疑われたことによる。太田は上役の調べに対して「知らぬ、存ぜぬ」と否定しているけど本当はどうだったか。研究者は蜀山人作と推定している。
狂歌のムーブメントが町人に間に広がっていくに従って、直接的ではないにしろ庶民の本音的なお上批判の歌も出てくる。武士たちが後ずさりしていき主役は町民たちとなっていく。それでも当時の狂歌ブームのすごさは一般公募した時に集まった歌が車5台分一千箱に一杯になるほどだったことからも分かる。このことは当時の町人たちが読み書きができ、パロディにする花鳥風月をうたう元歌を教養としてみんな知っていたということであり、その教養水準の高さが分かると言うもの。
花鳥風月をうたうのではなく生活実感から笑い飛ばしていくと言うことには幕府政治への批判をはらんでいる。時代は松平定信の締め付けの時代になっていき、庶民の自由な狂歌運動もエスカレートしていけば幕府としても放置できずに圧力をかけてくる。江戸庶民の文化ムーブメントとして花開いた狂歌運動もやがて散っていく。それでもその精神は地下で脈々と生き続け、詠み人知らずの落書として時代時代を生き生きと活写している。
この本にはたくさんの狂歌が引用してありますが、それを読んでいるだけで当時の庶民の生活が想像でき、人間というのは昔も今もあまり進歩していないなと感服する次第。