怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

河合隼雄「幸福論」

2021-02-11 21:33:44 | 
専門書は別として一般向けの河合隼雄先生の本はほとんど読んでいたはずが、図書館で読んだことのない本があったので早速借りてきました。
ところが読んでみるとこれは「しあわせ眼鏡」を改題したもので、絶版だった「しあわせ眼鏡」を復刻する際に改題したとか。

しあわせ眼鏡はもともと中日新聞で連載されていたものをまとめたもので、連載中から愛読していました。
当然単行本になってからすぐに読んだ覚えですけど、今回改めて読んでみると忘れていたことばかりで改めて心に深く響いてきました。
特に最初の「はじめに」には深く納得。
このところのコロナ禍で、無為無策の日々を強いられて、「小人閑居して不善をなす」とは言っても不善をなすほどの思い切りも度胸もなく、夢は枯野を駆け巡るばかり。人生に悩む思春期ははるか昔の話で、人生の終盤となり、今更考えても無駄なんですが、自分の人生は何だったのか、幸せだったのか、そもそも生きるとは何だろうと全く世の中に役に立たない考えても答えの出そうもない思いに浸ってしまいます。
インデックスファンドの生みの親で著名な投資家のジョン・C・ボーゲルの言葉で
「人生にあっては、成功が幸福をもたらすのではなく、幸福になることが成功なのだ」という言葉がありますが、それでは幸福とはいったい何だろう。
現役で働いていた時には、人並みに上昇志向もある仕事人間で、人に命令できるような地位につき、金を稼ぐことが成功であり幸福になる為の条件だと思っていたのですが、今や生産的な活動をすることもなく社会にお役に立ってもいないこの歳になって振り返ると何と皮相的な考えだったかと思い知ります。
と言うことで、河合隼雄先生の幸福論ですが、そもそも「幸福というのがそんなに大切なのだろうか」となり、幸福を第一に考えて努力するのはあまりよくないようであるとのこと。要はかけがえのない自分の人生をいかに精いっぱい生きたが問題で、それが幸福かどうかは二の次ではないか、自分自身にとって「幸福」と感じられるかどうかが問題で、地位も名誉も金も何もなくても、心がけ次第で人間は幸福になれる!と喝破している。
う~ん、その通りなんでしょうけど、凡人は世間の目を気にして、地位や名誉や金に心が千々乱れて思い悩んでいるのですけど。
この本では、先生が心理療法家として関わった事例などを参考に引用しながら人間にとっての幸福のありようを考えています。
そこには自分の来し方を振り返ると心に響く言葉が沢山出てきます。本の一部ですけど、あとは是非実際に読んでみてください。
「私はどうでもいいのですが」と言いつつ、実際はどうでもよくなくてひっかかている人。
「なぜ私だけが」と嘆く人は多いのだが、どんな不幸であるにしろ「私だけが」といえるのは素晴らしいと思う。その問いは個性発見への切り口を提供している。
「子どもの幸福」の一番大切なことは、子ども自身がそれを獲得するものだ、ということ。
人生の中で「我を忘れる」体験を一度もしない人は不幸な人だと思う。自分という存在を何かに賭けてみる。そのことによってこそ、自分が生きたと言えるのではないだろうか。
もっとも初出が新聞連載のものをまとめているので、体系的ではありませんし、その場その場で出会った人とか相談者とか、読んだ本とか、出来事に触発されたことを綴っていて、通して読んでいくと矛盾しているとは言いませんが、こういう考えもあるけど違う考えもあるし、言い切れないよねという部分も出てくる。
もともと臨床心理学という分野が、正解を論理的に導き出すものではなく、真摯に事例に向き合うことによって対応していくものでしょうし、ここでその要約を書いてもあまり意味がないので、皆さん何度でも読み返して、それぞれの事例に河合先生が考えたことを味わってください。
ところで河合隼雄先生は私がその職を離れてから中部幼研で講演をされていて、今にして思えば前職のコネで無理やりにでも潜り込んでお話を聞いておくべきだったと後悔しています。もっとも司馬遼太郎とか鎌田實の講演の時のように穏やかな語り口に居眠りしてしまったのかも。河合先生に言わせると「さりとて二ついいことはないものよ」という話で、どこかすれ違って直接謦咳に接しなかったのも私の人生だったのでしょう。

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