【生後120年・没後50年、京都で回顧展】
京都出身の洋画家、須田国太郎(1891~1961年)の没後50年回顧展が京都・岡崎公園内の京都市美術館で開かれている。須田は京都の町家で生まれ育ち、京都大学で美学美術史を学んだ後ヨーロッパに留学。帰国後は日本独自の油彩画の創作に没頭し、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)の教授や学長代理も務めた。今回の「須田国太郎展 没後50年に顧みる」には生涯主要テーマとした山間・人里の風景、動植物などを描いた代表作約140点が並ぶ。
(㊧「鷲」、㊨「バラとアザミ」)
須田の初期の作品は京大入学前に自宅の火災で焼失したため、大学在学中のものしか残っていない。同展には自画像、校舎や八坂の塔など5点が展示されている。4年間のスペイン留学中はプラド美術館でバロック絵画などの模写に没頭した。エル・グレコの「復活(模写)」は横約1m、縦約2mの縦長の作品。キリストと復活を目撃する兵士らの肉体表現に、驚異的な観察力と描写力のほどが示されている。
「八坂の塔」「犬」
須田は山並みや動植物を好んで題材として取り上げた。特に1930年代前半には大和や南山城の山間風景を多く描いた。動物を描く際の取材先は主に京都市動物園。そのためにわざわざ動物園と目と鼻の先の南禅寺草川町に転居、足繁く通った。園内の標識画がまずいと自ら制作を買って出たことも。ダチョウ2羽を描いた作品「走鳥」はその時に描いたという。植物ではバラ、ボタン、ツバキなどをよく描いたが、草花を描くときには京都市植物園に通った。
須田は1947年推挙され日本芸術院会員になるが、当時の作品には全体的に暗い色調のものが多い。その頃の日記には「大分暗くなる」「色彩失う」といった言葉が見られ、模索している様子をうかがわせる。風景の中の人物や建物の一部への明るめの色彩の導入はそんな危機感の反映ではないかという。風景画では柔らかな光を浴びた淡い褐色の屋根が連なる山陰の漁村、田後(たじり、鳥取県東部)の家並みを描いた作品3点が印象に残った。
京都での同展は2月3日まで。これまでに神奈川、茨城、石川、鳥取を巡回し、京都の後は島根で開かれる。