【大丸・梅田で開幕、「重厚な暗さの中に根源的なパワー」】
19世紀フランス美術界を代表するギュスターヴ・クールベ(1819~77年)の作品を集めた「クールベ展」が1日、大阪・梅田の大丸ミュージアムで開幕した。クールベは「目に見えるものしか描かない」と断言、当時としては極めて革新的なリアリスム(写実主義)を確立した。同展では自作に加え、弟子たちとの共作、友人や弟子の作品など約110点を展示している。クールベのデスマスク、愛用のパレットやパイプなども一見の価値がある。
クールベはフランスの山村、オルナン生まれ。21歳の時パリに出るが、故郷への愛着が強く、度々帰省しては風景画を描いた。全体的に暗い色調のものが多い。ギャラリートークで府中市美術館館長の井出洋一郎氏は「オルナンを3回訪ねたが、自然豊かで木々が密集し昼なお暗いという感じだった」と話していた。ありのままに描く写実主義に徹したということだろう。「重厚で暗いが、じっと見ていると、その中に根源的な力がある」とも解説していた。(上の写真は「オルナンの城(部分)」)
クールベはしばしば風景画の中に人間的な要素を盛り込んだ。「トゥルーヴィルの黒い岩」(上の写真)も岩を擬人化した作品の1つ。左側に背を向けた巨人、その斜め下に長い髪の女性、さらにその右の中央にはクールベ自身の顔が描かれているというのだが……。それを確認しようと長い時間、作品に見入る来場者も多かった。クールベは肖像画など人物も描いたが、身近な親しい人しか描かなかった。美化せずストレートに表現するため、女性からはモデルを断られたこともあるそうだ。
「クールベの絵のもう1つのキーポイントは反教権主義」(井出氏)。油彩線画「会議物語・争いまたは窓外投げ出し事件」は宗教会議の後、酒を飲んでどんちゃん騒ぎする宗教家たちの乱れた姿を風刺した作品。クールベは1870年、レジョン・ド・ヌール勲章を拒否したことで権力の敵対者とみなされる。さらにパリ・コミューンに参加して投獄され、73年にはスイスへの亡命を余儀なくされた。投獄中には差し入れの油彩道具を使って静物画を描いた。
着の身着のままに亡命したクールベは生活費を捻出するため、弟子との共同制作の絵をしばしば描いた。弟子が描いた作品にクールベが手を入れた。「シヨン城」(上の写真=部分)もその1つで、弟子のケルビーノ・パタとの共作。「以前大阪市立美術館で開かれたクールベ展では本人の作品だけだったが、今回は共作も入っているため自作と共作を比較できる貴重な機会。共作はクールベ特有の暗さがなくなっていく」(井出氏)。共作の「レマン湖のほとりの一日の終わり」も夕焼けが空を明るく染める。
クールベの晩年は不遇だった。亡命したため故郷に帰ることもできず、酒に溺れ(1日にワイン14本を飲んだこともあるという)肝臓を壊して、1877年の大晦日に亡くなった。享年58。遺体が故郷オルナンに戻り墓地に埋葬されたのは生誕100年に当たる約40年後の1919年。生家はいまクールベ美術館になっている。クールベの写実主義は没後、モネやルノワールら印象派に受け継がれていく。