【備仲臣道著、皓星社発行】
帯に「内田百読みの達人が案内する百鬼園ワールド!」。百鬼園は小説家・随筆家、内田百(1889~1971年)の別号である。百は岡山市の造り酒屋の一人息子として育った。夏目漱石門下で、ユーモアと諧謔精神に富む随筆を多く残した。
筆者の備仲臣道(びんなか・しげみち)氏は1941年朝鮮忠清南道生まれで、45年日本に帰国。山梨時事新聞(廃刊)の記者を経て、82年「月刊新山梨」(93年休刊)を創刊、編集発行人に。愛息を末期がんで亡くしている。「彼の下宿へ遺品をかたづけにゆき蔵書の中に内田百が鎮座ましましているのを見た……百に傾倒していたことを、そのときに知った」。あとがきで百との出会いをこう綴る。
以来、百を読み漁ったのだろう。2002年には随筆「メロンとお好み焼き」で第6回岡山・吉備の国内田百文学賞優秀賞を受賞した。本書は百の著作に出てくる言葉や作品を50音順に紹介・解説する。その数ざっと300件余。〝百事典〟づくりの狙いは? 「内田百は面白い……百の文を一度ばらばらの言葉にしたうえで、百がなにを考え、いかに生きたかを見れば、面白さの根源が判るだけではなくて、自分の思うとおり、偏屈を通して狷介に生きることが、この上なく楽しいことだと判るに違いない」(まえがき)。
故郷岡山への愛着心がことのほか強かった。鉄道や琴、酒、猫なども深く愛した。事典の『琴』の項によると、中学初年級の頃に琴を習い始め、陸軍士官学校の教官のとき宮城道雄との親交が始まった。『宮城道雄』によると、宮城は「7歳の折りに失明してから目が不自由であったが、目についての冗談が好きで、頻繁に口から泡を飛ばして駄洒落を言った」そうだ。その宮城が1956年、大阪行きの夜行急行列車から転落し急逝する。百はその顛末を随筆『東海道刈谷驛』に記した。
百は『夏目漱石全集』の編纂の仕事を他の3人と共に担当した。『推敲』によると「常に漱石先生が私の中のどこかに在って指導し叱咤する」。漱石には金銭面でも大いに面倒を見てもらった。『漱石』の項によると「恐る恐る(借金の)来意を告げると、漱石は叱りもせずに、いいよ、と軽く言った」。漱石は百が質入れしたものが流れないように利子分まで払ってやっている(『質屋』)。東京帝大時代に講義で知り合った『芥川龍之介』にもよくお金を借りた。
『金』の項で筆者はこう記す。「高利貸ばかりか、先輩や友人たちからも、たびたび金を借りていた百は、世間の常識に対しても含蓄のある警告を発している。まず友達にお金を借りて見ることですね。そうすれば、相手の人の気持がよく分かります――などというのがそれである」。
造り酒屋生まれの百は「お酒と言って、酒を呼び捨てにしなかった」(『酒』)、1945年5月26日の東京空襲の際には片手に目白を入れた袖籠、もう一方に1合ばかり酒の残った一升瓶を持って逃げた。食にも固執した。1960年5月には「31日間に22日も鰻重を食った」(『鰻』)、油揚げの焼きたても好物の1つで「これを〝じゅんばり〟と称して酒肴の列に加え、上席のほうに遇していた」(『油揚げ』)。この事典をめくるだけでも、百の奔放な生き様が目に浮かぶ。