奈良県の戦国時代を描いた静止画アニメと吹奏楽による「大和の国」の上映演奏会が9日、郡山市のやまと郡山城ホールで開かれた。上映に先立って中世史講演会が行われ、信貴山観光協会理事長で信貴山千手院の田中真瑞貫主が「信貴山城と松永弾正」の演題で、続いて大和郡山市文化財審議会の長田光男氏が「奈良県の戦国時代」の演題で講演した。
【信貴山千手院・田中貫主「松永久秀は〝戦国時代の3悪人〟の1人ではない!】
田中貫主によると、大和国の戦国大名・松永久秀(松永弾正)が信貴山に築いた山城は「東西500m、南北700mにわたり、4階櫓の天守閣を持つ斬新なもので、天守閣発祥の地ともいわれる」。続いて久秀は東大寺北側に多門城を造営する。織田信長は優美な天守を持つその城を見て感動し、後に安土桃山城を築いたといわれる。
信長は久秀のことを徳川家康に「この老翁は世人なしがたき事3つなしたる者なり」として、将軍殺し(室町幕府第13代足利義輝)・主君殺し・東大寺大仏殿の焼き払いを挙げて紹介したという。そのため久秀には北条早雲・斎藤道三とともに〝戦国時代の3悪人〟ともいわれる。
だが、田中貫主は「信長をはじめ当時の武将は皆同じようなことをやった。久秀が特別悪人だったわけではないのではないか」と疑問を投げかける。「勝てば官軍負ければ賊軍。大仏殿の炎上も久秀が首謀者とは断定できない。三好三人衆の中にいたキリスト教徒が火を付けたという説もある」。奈良県には三郷町に久秀を祀る五輪塔があり地元民が毎年供養しているという。王寺町の達磨寺には久秀のお墓もある。
久秀は茶人としても知られていた。信長に2回謀反を起こすが、最初(信長が義輝の弟、義昭を奉じて上洛したとき)は名器の茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上し、大和守護代を任される。だが、2回目の謀反では茶釜「平蜘蛛」を差し出せば助命するとの信長の命令を拒否、その茶釜とともに爆死したともいわれる。
【大和郡山市文化財審議会の長田氏「久秀追い出しの裏に軍師・嶋左近の策略!」】
戦国時代の大和武士(ざむらい)は大和源氏や筒井氏を中心とする乾党をはじめ、散在党、長谷川党、長川党、南党、平田党、古市党、東山内衆、宇多三将などがあった。長田氏によると「それらの大和武士の集団は当時勢力が強かった興福寺か春日社に属し、その支配下にあった。そのために天下を狙う立場になかったのが特徴」。
興福寺に雇われた武士は〝衆徒〟として僧籍を持ち、春日社の武士は〝神人(じにん)〟という身分を与えられた。興福寺の中には一乗院と大乗院という派閥があった。そのため、それぞれに雇われた武士団は派閥争いの矢面に立たされた。さらに南北朝時代には乾党が北朝に、散在党が南朝側に分かれるなどして、小競り合いを繰り返した。
しかし「松永久秀が大和に侵入し筒井城が奪われると、大和武士たちは筒井氏を先頭に結束した」。転機となったのが「筒井順慶が橋頭堡として築いた辰市城の合戦」。この合戦で大和側は久秀の追い出しに成功し、筒井城の取り戻しに成功した。順慶は明智光秀の仲介で信長の配下に入り、久秀に代わって大和守護代に任じられた。
辰市城の合戦を勝利に導いたのが軍師・嶋左近。山伏(修験者)を活用するなど策略を巡らし、久秀側に500人の戦死者を出す大敗をもたらせた。筒井氏の3家老の1人として3代にわたって仕えるが、筒井氏が没落すると石田三成の配下に入る。「三成に過ぎたるものが2つあり。嶋の左近に佐和山の城」。そこでも名軍師として活躍したが、関が原の合戦で討ち死にした。筒井氏は伊賀へ国替えとなり、代わって豊臣秀長が郡山城に入ると、大和武士たちの役割も終わった。
順慶は36歳という若さで病死する。長田氏は「歴史にイフはないが」と断ったうえで、「もし順慶が長生きしていたら、大和の中世の歴史も違った展開を見せていたかもしれない」と結んだ。