く~にゃん雑記帳

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<甲子園球場>カレー・コーヒー・水洗トイレ…完成当時は「最先端の風俗スポット」

2013年03月20日 | スポーツ

【大阪自由大学公開サロンで玉置通夫氏が講演】

 球春到来! 球児にとって最大の憧れの場・甲子園球場で22日「春の甲子園」センバツが開幕する。その甲子園は〝野球の聖地〟としてどんな歴史を刻んできたのか。19日大阪・梅田のキャンパスポート大阪で、大阪自由大学主催の公開サロン(演題「文化財としての甲子園」)が開かれた。講師は元毎日新聞編集委員の玉置通夫氏。「甲子園球場物語」の著書もある玉置氏は完成時のエピソードを交えながら、「甲子園は野球場の枠を超え全国に情報を発信する最先端の風俗スポットだった」などと語った。

  

 甲子園球場の完成は今から約90年前の大正13年(1924年)。夏の中等学校野球大会は前年まで鳴尾運動場で開かれていた。ところが地元勢の活躍もあって観客が溢れるなど大混乱。このため主催者の大阪朝日新聞は新球場の建設を阪神電鉄に打診。武庫川の支流、枝川と申川の廃川敷を買収済みだった阪神電鉄は、沿線開発のため集客施設造りを模索していたこともあって「渡りに船」とばかり球場の建設を決めた。地鎮祭が行われたのはその年の3月半ば。夏の大会に間に合わせるため8月1日には開場式が行われている。

 僅か4カ月半であの大球場が完成したとは! なぜ可能だったのか。玉置氏は①豊富な労働力②労働環境③空梅雨――の3点を挙げる。「当時は労働基準法や児童福祉法などもなく、いくらでも安い労働力を確保できた。しかも建設場所が狐や狸がすむ原野のため昼夜を問わず突貫工事をやることもできた。加えて天の恵み。工事は梅雨本番の6~7月に山場を迎えたが、工事報告書によると雨で工事ができなかったのは僅か9日間だけだった」。

 その年の夏の大会は最初の3日間は不入りだったが、4日目から連日満員になった。それを後押しした要因として玉置氏がまず挙げるのが球場の食堂で提供したカレーライスとコーヒー。「当時カレーのルーは発売されておらず、家庭で簡単に作れる料理ではなかった。それを球場で味わうことができるのは画期的だった。しかも一般化していなかったコーヒーと組み合わせたことで話題を集めた」。ちなみに価格はセットで30銭(今の700円ぐらい)だったという。

 球場に水洗トイレを完備したのも評判を呼んだ。「当時、水洗を備えていたのは一流ホテルなどごく一部だけ。水洗トイレはそれほど珍しく、トイレを使うためわざわざ球場に行く人も結構多かったそうだ」。選手にとっても初体験でどうしていいか分からない。垂れ下がった鎖を引っ張ると水が勢いよく流れ出したのを、トレイを壊したと勘違いして大騒ぎになったなど失敗談が今に伝えられている。

 さらに玉置氏は「野球といえばやるのも見るのも男性だったが、甲子園球場はスポーツを女性にも開放する手助けをした」と指摘する。「中等学校の野球熱は女学生の間でも広がっていたが、女性の観戦は好奇の目で見られることが多く相当の勇気が必要だった。広々した甲子園はそんな不自由さを払拭し、先生に引率された女学生や洋装姿の女性が彩りを添えるようになった」。

 昭和2年(1927年)の夏の大会からはラジオによる実況中継も始まった。ただ阪神電鉄側は当初、NHKからの中継の申し入れに「放送されると観客が来なくなる」と抵抗したという。初めての中継にアナウンサーも臨場感を伝えようと苦心したようだ。打球の音や審判の声などがはっきり入るようにホームベースの下にマイクを埋め込んだ。ところが打者が打つ前にバットでベースをたたく耳障りな音がしばしば流れ、苦情が寄せられて1日で取り止めになったという。

 甲子園を本拠地とする大阪野球倶楽部(現阪神タイガース)が設立されたのは球場完成から11年後の昭和10年(1935年)。その後、甲子園は野球だけでなく、スキーのジャンプ大会や6代目尾上菊五郎の野外歌舞伎の舞台にもなった。戦時中には大鉄傘の供出を余儀なくされ、広島が被爆した8月6日には甲子園も空襲によって被災した。昭和20年10月には進駐軍に接収され、接収が完全解除されたのは9年後だった。「甲子園球場は激動の大正・昭和・平成時代を見続けてきた〝歴史の生き証人〟でもある」(玉置氏)。

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