く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<唱歌・叙情歌> ソプラノの岡田由美子さんと一緒に歌う!

2013年03月16日 | 音楽

【早春賦、赤い靴、埴生の宿、蘇州夜曲、みかんの花咲く丘……】

 奈良市生涯学習財団主催の「With コンサート~唱歌・叙情歌を一緒に歌おう」と題した歌声コンサートが15日、奈良市の中部公民館で開かれた。出演はソプラノ歌手の岡田由美子さん。中高年の女性を中心に約200人が参加し、懐かしい唱歌、童謡、流行歌など約20曲をピアノの伴奏に合わせて口ずさんだ。

  

 岡田さんは大阪芸術大学卒で、日伊声楽コンコルソ入選、日本歌曲コンクール第3位などの実績を持つ。東日本大震災支援コンサートや宮城県多賀城市(奈良市の姉妹都市)の市制40周年復興コンサートへの出演のほか、盲導犬チャリティーコンサートなど福祉活動にも力を入れており、奈良県社会福祉協議会会長賞を受賞している。

 コンサートではまず岡田さんが奈良にちなむ「八重桜」「平城山」や東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」など7曲を独唱。続いて来場者と一緒に「早春賦」「春の小川」「赤い靴」など7曲を歌った。松原由香さんのピアノ独奏(リストの「愛の夢」)を挟んで、「埴生の宿」「ローレライ」「蘇州夜曲」「高原列車は行く」「みかんの花咲く丘」「花」などと続き、最後は「故郷(ふるさと)」で締めくくった。この間約1時間40分。歌い終わって参加者の多くが清々しい表情を浮かべていた。

 この日歌った曲のうち「赤い靴」は米国人宣教師の元へ養子に出した薄幸な子どもをモデルに野口雨情が作詞し、本居長世が作曲した。知らない人がいない有名な童謡だが、過去に音楽教材の中で扱われたことがないそうだ。以前読んだ「教科書から消えた唱歌・童謡」(横田憲一郎著)によると、「『異人さんにつれられて』の歌詞が、外国人が女の子をさらうという意味に受け取られ、外国人への差別的ニュアンスがある」(教科書編集者の話)からというのだが……。

 「埴生の宿」の原曲は英国の「ホーム・スイート・ホーム(楽しきわが家)」。明治時代に里見義(ただし)が訳詞をつけ、「ビルマの竪琴」で一躍有名になった。戦時中、激戦地ビルマで英国部隊に取り囲まれた日本兵たちが「埴生の宿」を歌うと、敵・味方なく大合唱になった――。英国発祥の歌にはこのほか「蛍の光」や里見訳詞の「庭の千草」などがあるが、いずれも日本にすっかり定着している。

 この日のプログラムには滝廉太郎作曲の2曲も入っていた。「花」と「荒城の月」。だが時間の都合からか、「荒城の月」だけカットされたのが残念だった。以前、滝が少年時代を過ごした大分県竹田市を中心に、「荒城の月」の音楽教科書への継続掲載運動が展開されたことがあった。「時代感覚に合わない」「歌詞が難解」といった理由で懐かしい唱歌や童謡が教科書から次々に消えてきたが、この「荒城の月」は最近どんな扱いになっているのだろうか。

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<サンシュユ(山茱萸)> 春告げ花の1つ 小枝の先に黄色い小花がいっぱい!

2013年03月15日 | 花の四季

【ハルコガネバナ、アキサンゴの別名も】

 早春の花には菜の花、タンポポ、マンサク、ロウバイなど黄色のものが多い。このサンシュユもその1つで、葉に先駆けて小枝の先に20~30個の黄色い小花の固まりをつける。趣は和風だが、原産地は朝鮮半島~中国。今から300年ほど前の江戸時代享保年間(1720年ごろ)に朝鮮から種子が渡来し、東京の小石川植物園で栽培されたのが始まりという。

 サンシュユは山のグミを意味する漢名「山茱萸」の音読みといわれる。ただサンシュユは中国では「野春桂」と呼ばれ、山茱萸は別の植物という説もある。植物学者・牧野富太郎博士は和名を「ハルコガネバナ(春黄金花)」と名づけた。「アキサンゴ(秋珊瑚)」や「ヤマグミ」の別名も持つ。秋になると長さ1.5cmぐらいの真っ赤なグミに似た実をつけることによる。

 実は乾燥させて滋養強壮薬として用いられる。16世紀に出版された中国の漢方書「本草綱目」にもその薬効が詳しく記されているという。冷え性や頻尿、脚気、頭痛、めまい、耳鳴りなどに効果があるそうだ。薬用酒の材料としても利用される。欧州中部~西アジア原産のものに「セイヨウサンシュユ」がある。花や実がサンシュユよりやや大きく、果実酒やジャムに使われる。

 サンシュユはハナミズキやヤマボウシと同じミズキ科の落葉小高木で、生け花や茶花の素材として珍重され、庭木や公園木として好んで植えられてきた。奈良県はサンシュユの切り花栽培が盛んで、桜井市山田の「サンシュユの丘」や明日香村の八釣の里は開花シーズン、多くのカメラマンでにぎわう。原産地韓国の全羅南道には「山茱萸村」があり、毎年3月ごろ「求礼山茱萸祭り」が開かれるそうだ。「山茱萸の黄や町古く人親し」(大野林火)。

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<奈良県立民俗博物館> 学芸員トーク「中国地方の神楽」テーマに

2013年03月11日 | 祭り

【新舞・旧舞・十二神祗・山代神楽などの演目9つを比較しながら鑑賞】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で10日、「中国地方の神楽」をテーマに〝学芸員トーク〟が開かれた。講師は神楽どころとして有名な広島県出身の学芸員・吉本由梨香さん。神楽が盛んな中国地方には神楽団や社中、保存会などが500以上もあるという。そのうち同館が集めた映像の中から代表的な9つの演目を比較鑑賞。館内にはこれに合わせて神楽のパネル写真や天蓋の切り飾り、御幣なども展示されていた(写真)。

  

 吉本さんが「広島で最も勢いのある神楽」としてまず紹介したのは「新舞」。戦後、進駐軍のGHQ(連合国軍総司令部)は神楽に対し厳しい検閲を実施、神道色の強いものを排除した。規制に触れないように新舞と呼ばれる新しい神楽を創作したのが美土里町の佐々木順三氏。「娯楽性、演劇性を高めたもので、動きの激しい舞が特徴。神社に奉納するほか各種イベントや結婚式などに呼ばれることも多い」という。

 新舞に対し、それまで芸北地方などで伝承されてきた神楽の演目を「旧舞」と呼ぶ。島根県邑智郡から伝えられたといわれ、文化文政年間(1804~30年)に伝わった高田神楽と、江戸末期から明治にかけて伝わった矢上舞がある。新舞の例として琴庄神楽団の「滝夜叉姫」、旧舞の例として三谷神楽団の「塵倫」を挙げて映像を流した。琴庄神楽団は面の早替えが人気を集めているそうだ。

 広島県西南部で舞われるものに「十二神祗」がある。その呼び名は12の演目があるからという説のほか、天神7代・地神5代を合わせた数に由来するともいわれる。中でも有名な演目が死人を生き返らせる杖を持つ鬼が登場する「荒平」や神懸かりをする「天代将軍」。山口県の「山代神楽」は「十二神祗の影響を受け、もともとあった神楽と混ざり合ったもの。リズムが単調なのが特徴」。

 「天代将軍」では神楽舞台の天井に飾られた天蓋の四方と中央に米袋が吊るされており、弓でそれを突くことによって舞人に神霊が乗り移って神懸かる。島根県邑智郡に伝わる「大元神楽」では「綱貫」「六所舞」など一連の舞で〝託太夫〟をぐるぐる旋回させて神懸かりを促す。

 吉本さんは神懸かりについて「笛や太鼓のお囃子に乗って舞ううちに、周りからはやし立てられることによって神懸かり状態になる。ただ神懸かりしやすい人としにくい人がいるようだ」と話す。大元神楽は昨年秋、島根県江津市の市山飯尾山八幡宮式年祭で奉納されたが、3人の〝託太夫〟がいずれも神懸かりができなかったそうだ。

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【奈良県中世史講演会】 静止画アニメ「大和の風」の上映演奏会に合わせて

2013年03月10日 | メモ

 奈良県の戦国時代を描いた静止画アニメと吹奏楽による「大和の国」の上映演奏会が9日、郡山市のやまと郡山城ホールで開かれた。上映に先立って中世史講演会が行われ、信貴山観光協会理事長で信貴山千手院の田中真瑞貫主が「信貴山城と松永弾正」の演題で、続いて大和郡山市文化財審議会の長田光男氏が「奈良県の戦国時代」の演題で講演した。

  

【信貴山千手院・田中貫主「松永久秀は〝戦国時代の3悪人〟の1人ではない!】

 田中貫主によると、大和国の戦国大名・松永久秀(松永弾正)が信貴山に築いた山城は「東西500m、南北700mにわたり、4階櫓の天守閣を持つ斬新なもので、天守閣発祥の地ともいわれる」。続いて久秀は東大寺北側に多門城を造営する。織田信長は優美な天守を持つその城を見て感動し、後に安土桃山城を築いたといわれる。

 信長は久秀のことを徳川家康に「この老翁は世人なしがたき事3つなしたる者なり」として、将軍殺し(室町幕府第13代足利義輝)・主君殺し・東大寺大仏殿の焼き払いを挙げて紹介したという。そのため久秀には北条早雲・斎藤道三とともに〝戦国時代の3悪人〟ともいわれる。

 だが、田中貫主は「信長をはじめ当時の武将は皆同じようなことをやった。久秀が特別悪人だったわけではないのではないか」と疑問を投げかける。「勝てば官軍負ければ賊軍。大仏殿の炎上も久秀が首謀者とは断定できない。三好三人衆の中にいたキリスト教徒が火を付けたという説もある」。奈良県には三郷町に久秀を祀る五輪塔があり地元民が毎年供養しているという。王寺町の達磨寺には久秀のお墓もある。

 久秀は茶人としても知られていた。信長に2回謀反を起こすが、最初(信長が義輝の弟、義昭を奉じて上洛したとき)は名器の茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上し、大和守護代を任される。だが、2回目の謀反では茶釜「平蜘蛛」を差し出せば助命するとの信長の命令を拒否、その茶釜とともに爆死したともいわれる。

【大和郡山市文化財審議会の長田氏「久秀追い出しの裏に軍師・嶋左近の策略!」】

 戦国時代の大和武士(ざむらい)は大和源氏や筒井氏を中心とする乾党をはじめ、散在党、長谷川党、長川党、南党、平田党、古市党、東山内衆、宇多三将などがあった。長田氏によると「それらの大和武士の集団は当時勢力が強かった興福寺か春日社に属し、その支配下にあった。そのために天下を狙う立場になかったのが特徴」。

 興福寺に雇われた武士は〝衆徒〟として僧籍を持ち、春日社の武士は〝神人(じにん)〟という身分を与えられた。興福寺の中には一乗院と大乗院という派閥があった。そのため、それぞれに雇われた武士団は派閥争いの矢面に立たされた。さらに南北朝時代には乾党が北朝に、散在党が南朝側に分かれるなどして、小競り合いを繰り返した。

 しかし「松永久秀が大和に侵入し筒井城が奪われると、大和武士たちは筒井氏を先頭に結束した」。転機となったのが「筒井順慶が橋頭堡として築いた辰市城の合戦」。この合戦で大和側は久秀の追い出しに成功し、筒井城の取り戻しに成功した。順慶は明智光秀の仲介で信長の配下に入り、久秀に代わって大和守護代に任じられた。

 辰市城の合戦を勝利に導いたのが軍師・嶋左近。山伏(修験者)を活用するなど策略を巡らし、久秀側に500人の戦死者を出す大敗をもたらせた。筒井氏の3家老の1人として3代にわたって仕えるが、筒井氏が没落すると石田三成の配下に入る。「三成に過ぎたるものが2つあり。嶋の左近に佐和山の城」。そこでも名軍師として活躍したが、関が原の合戦で討ち死にした。筒井氏は伊賀へ国替えとなり、代わって豊臣秀長が郡山城に入ると、大和武士たちの役割も終わった。

 順慶は36歳という若さで病死する。長田氏は「歴史にイフはないが」と断ったうえで、「もし順慶が長生きしていたら、大和の中世の歴史も違った展開を見せていたかもしれない」と結んだ。

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<水彩画家・寺田みのるさん>「大衆画家の道を邁進! 小説・作詞・落語の台本も」

2013年03月09日 | ひと模様

【画廊飛鳥での個展初日に「66歳の青春」トーク】

 旅の情景を描き続ける水彩画家でエッセイストの寺田みのるさん(大津市在住)の個展が8日、奈良県明日香村の「画廊飛鳥」で始まった。初日にはご本人が「66歳の青春」と題してギャラリートーク、「人生はいつまでも青春。大切なのは感動・感激・感謝する気持ち。これからも多くの方々に楽しんでもらうため、大衆画家として旅を続け描き続けていきたい」などと語った。個展は14日まで。

      

(「毎日夫人」に連載中の「あなたと歩きたい街。」㊧は2月号掲載の「川口基督教会(大阪市西区)、㊨は3月号掲載の「東京駅」)

 寺田さんはこれまでに内外で80回を超える個展を開いており、この画廊飛鳥での開催は4回目。新作の水彩画や書19点を含む作品約50点が並ぶ。これまでに取材で訪ねた都市は世界48カ国に上るという。新作にも英国やドイツ、イタリアなどを描いた作品が含まれていた。そのうち「テームズ川薄暮」は墨のぼかしが効果的。新作の書の1つに「ローマの夜 スペイン階段で酔いざまし サンピエトロが笑っている」。短歌調で語呂がいい。情景が目に浮かぶようだ。

 寺田さんは幼児から絵と書に親しんだ。大手家電メーカーに就職後も勤めの傍ら絵を描き続け、28歳のときに初個展。その後、企画部長や営業部長を経て51歳で早期退職した。「36年間のサラリーマン生活で経験した営業や商品企画、人脈が今に生きている」と話す。絵は全くの独学。だからこそだろう、旅情が画面いっぱいに広がる寺田さん独自の世界があるのも。

 フランス・リヨン芸術祭に出品したり、アジア国際水彩画連盟展に招待されたりするなど、今や旅の水彩画では第一人者の寺田さん。意外だが、20代半ばまではもっぱら油絵を描いていたという。「だが体質に合わないと感じたため水彩に転じた」。2001~08年、毎日新聞の夕刊に水彩スケッチを長期連載。さらに「毎日夫人」に長く「あなたと歩きたい街。」を連載中ということもあって、寺田さんには女性ファンが多い。

 画風は静かで優しい。「私自身は口八丁手八丁ですが、絵は性格とは真反対で静かでしょ」とご本人も。今年1月には体調を崩して10日間入院したという。「私は欲張りでやりたいことだらけ。心と体のバランスをどう取っていくかがこれからの問題」。絵のほか今後力を入れたいものとして小説の執筆、作詞、それに落語や漫才の台本づくりの3点を挙げた。このうち作詞についてはすでに7~8曲を作っているという。滋賀県をもっとPRしたいと「知らんか滋賀」という詞も作ったそうだ。寺田さんのポジティブ人生に乾杯!

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<京都画壇と神坂雪佳展> 京都市美術館と細見美術館のコレクション一堂に!

2013年03月08日 | 美術

【写生重視の京都画壇の日本画と、琳派の流れをくむ神坂】

 「美の競演 京都画壇と神坂雪佳~100年の時を超えて」展が6日、大阪高島屋7階グランドホールで開幕した。明治から昭和初期にかけ竹内栖鳳や上村松園ら多くの日本画家が活躍した京都画壇。神坂はほぼ同時代に京都にありながら江戸時代の琳派の継承者として別の道を歩んだ。同展は京都画壇の作品を多く所蔵する京都市美術館と琳派のコレクションで知られる細見美術館(京都・岡崎)の両者のコラボで初めて実現した。

 

 「京都で画家たちが1人前の〝絵描き〟として認められるようになったのは明治30年代から40年代にかけて。それまでは神坂も栖鳳も下絵や図案を描いていた。その要にあったのが京都高島屋」(京都市美術館の尾崎眞人学芸課長)。高島屋は明治21年(1888年)、「画工室」という社内工房を設け、新しい意匠制作のため作家たちを招いた。神坂はその後も陶磁器など工芸デザインでも幅広く活躍、高島屋が大正2年(1913年)、新作きもの発表会「百選会」を創設したときには与謝野晶子らと共に関わり衣装顧問を務めた。

 両者は題材や作風が大きく異なる。神坂は俵屋宗達や尾形光琳ら琳派の流れを継いで、伝統的な装飾美を追求した。京都画壇の草花図や花鳥図は目の前にある単独の対象を写生的に描いたが、神坂は屏風や掛け軸に四季の草花を1つの画面の中に収めた。「神坂の四季草花図は生花の投げ入れのように根がないのも特徴」(尾崎氏)。しかも絵の具のにじみやぼかしを生む琳派のたらし込み技法を多用した。(上の写真は神坂の「四季草花図屏風(左隻)」)

     

 京都画壇の写生的な表現は人物画でも共通する。栖鳳の「絵になる最初」(上の写真㊧)は着物姿のモデルが裸体になる一瞬の恥じらいを捉えた。東本願寺の御影堂門の天井画として描く天女のモデルとして東京から呼び寄せたという。栖鳳のもう1つの美人画「アレ夕立に」(同㊨)は舞妓をあでやかに描くが、顔はかざした扇子に隠れて見えない。栖鳳の弟子、上村松園の「晴日(せいじつ)」(下の写真㊧)や「人生の花」「待月」も女性の美しさの一瞬を写し取った。対して、神坂は小野小町のような歴史上や文学に登場する人物を多く描いた。

  

 西村五雲の「園裡即興」(上の写真㊨)という作品が目を引いた。竹篭の中に入れられたウサギ数匹と篭の外で毛繕いするウサギが1匹。その説明を読んでびっくり。これらのウサギは動物園の猛獣の檻の裏側に置かれていたという。つまりウサギたちはこの後、猛獣の餌となる運命だったのだ。この作品のそばに展示された上村松篁の「兎」では白黒のパンダ顔のウサギが1匹、のんびりと野でくつろぐ。

 福田平八郎「白梅」、榊原紫峰「雪中孤鹿図」、菊池契月「散策」、堂本印象「婦女」のほか、由里本景子「単衣のおとめ」「大原女」、梶原緋佐子「帰郷」、丹羽阿樹子「遠矢」、広田多津「母子」など女性作家の作品も多く展示されている。

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<奈良・高取町点描④> 「町家のひなめぐり」に合わせ「町家の花巡り」も!

2013年03月07日 | 花の四季

【広場でハンギングバスケット展、通りにも寄せ植えや吊り籠が60点】

 連日多くの観光客でにぎわう高取町の「町家のひなめぐり」(31日まで)。土佐街道沿いに展示された美しい草花の数々が、そのイベントに彩りを添えている。作ったのはハンギングバスケット教室の生徒のほか地元の女性たち約30人。見事な寄せ植えや吊り籠が、華やいだ「花の街」に仕立て上げた。

 

 企画したのは「花工房花夢花夢(かむかむ)」。恒例のハンギングバスケット作品展と同時に、今年は町民の参加を得て作った寄せ植えと吊り籠30点ずつを通り沿いに飾った。作品展会場は観光案内所「夢創館」の隣。壁面を花で飾り立てた路地を抜けると、広場の中にも作品が点々と並ぶ。

  

 右手奥には蔵を利用した「くすり博物館」。和の雰囲気が漂う佇まいの中に、洋風に仕立てたハンギングバスケットが癒しの〝異空間〟を作り上げていた。雛人形を飾った町家の玄関口や連子格子窓などにも、今や盛りと咲き誇る草花の寄せ植えや吊り籠。なまこ壁の家老屋敷「長屋門」の門前でも、大きな鉢にチューリップをはじめ色とりどりの花が植え込まれていた。ひと足早く春がやって来たかのようだ。

  

 作品づくりを指導したのは工房を主宰する吉村雅代さん。HPによると、英国王立園芸協会日本支部認定のハンギングバスケットマスターや「日本花の会」花のまちづくりアドバイザーなどの資格を持つ。NHKで「オープンガーデンのカリスマ主婦」として紹介されたこともあるそうだ。受賞歴も目を瞠る。2004年に全国花いっぱいコンクール個人の部で「日本花いっぱい協会賞」、07年には全国花のまちづくりコンクール個人の部で農林水産大臣賞(花のまちづくり大賞)。

 

 町を巡るうちに英国の観光地バース(別府市の姉妹都市)を思い出した。バースは古代ローマの温泉浴場跡「ローマンバース」で有名な世界遺産都市だが、「花の街」としても知られる。広場や公園はもとより街路や民家の窓辺など至る所が美しい花や緑で飾られていた。訪れてから随分経つが、今でも美しい町並みを彩っていた花々が目に焼きついている。

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<奈良・高取町点描③> 押し花と草木染めで華麗な御所車や雛人形!

2013年03月06日 | メモ

【創作押し花の第一人者・亀井園子さん】

 西国33カ所第6番札所の壷阪寺を経て高取城に通じるメーンストリート「土佐街道」。かつては呉服屋や油屋などの商店を中心に約500軒が立ち並んでいたという。家老屋敷の長屋門(写真㊨)やお城の松ノ門を復元した児童公園の表門(写真㊧)、虫籠窓の町家などが往時の隆盛をしのばせる。

 

 「土佐」の名前は古く6世紀初め、大和朝廷の都造りのため土佐の国から駆り出された人々が移り住んだことに由来するという。一方通行の細長い通りの両脇には高取山から流れてくる用水路。そのせせらぎの音が心地よい。落ち着いた町並みの散策はいつ訪ねてもホッとする。ただ、年季の入った小さな木造の「土佐恵比須神社」がいつの間にか、ぴっかぴかの石造りに建て替えられていたのには少々驚かされた。

  

 「町家のひなめぐり」をするうちに、あるお屋敷の門前に展示された額縁入りの美しい御所車が目を引いた。近づいて見ると車に満載の花々はボタンやアジサイ、アネモネなどの押し花。「うちの庭で咲いたものばかりです」。年配の女性がこう説明してくれた。そばには押し花や草木染めの雛人形やアートフラワーなども並んでいた。

     

 お名前は亀井園子さん(1933年生まれ)で、「長園」という押し花教室を主宰しているという。お話しを伺ううちに、内外で活躍する押し花アート作家の第一人者であることが分かった。その受賞歴がすごい。イタリアのモンテフェルトロ公国芸術祭典でウルビーノ芸術大賞、ドイツのヨハン・セバスチャン・バッハ・アートグランプリ賞、アントニオ・ガウディ芸術大賞、ロシアのサンクトペテルブルク美術展でアカデミー賞、フランス・美の革命展inルーブルでカルーゼル・ドゥ・ルーブル・グランプリ賞……。

 御所車の正式な作品名は「彩華(ほのか)」。2012年度ハートアートコミュニケーション展の招待作品という。一昨年の「日露国際芸術祭2011 日本精鋭芸術家展」には鳩をモチーフにした「平和への讃歌」(上の写真㊧)を出品した。鳩の足下には草花だけでなくスイカやカキなど果物も素材として使われている。今年4月には東京で開かれるゴッホ生誕160周年記念シャンパン芸術祭にも出品の予定という。亀井さんに巡り合えたのも「町家のひなめぐり」(31日まで)のお陰である。

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<奈良・高取町点描②> ユーモラスな〝変わり雛〟にも温かい味わい!

2013年03月05日 | メモ

【高さ5mのジャンボ雛も 地域の高齢者が1カ月がかりで制作】

 高取町で開催中の「第7回町家のひなめぐり」では伝統的な五段飾りや七段飾りのほか、ユニークな〝変わり雛〟も多く展示されている。赤鬼・青鬼の後ろでユーモラスな表情を見せたり、わら細工の宝船に仲良く乗り込んだり、輪切りの青竹にずらりと鎮座したり……。土佐街道沿いの2カ所では地域の高齢者たちが1カ月がかりで作った〝ジャンボ雛〟も出迎えてくれた。

 

 清水谷地区の「絆の広場」にそびえる「ジャンボ子供びな」(下の写真㊧)2体は、1月11日から住民15人前後で制作を開始。焚き火で暖を取りながら連日作業に取り組み、2月15日に完成した。今年で2年目。この巨大な雛人形には高齢化が進む中で地域住民の絆を再生したいという願いが込められている。上子島地区の「元気ひろば」に展示されているジャンボ雛は今年で3年目。こちらは干支シリーズで、今年は巳年にちなんで巨大なヘビの雛人形(下の写真㊨)を作り上げた。

 

 季節の草花で飾り立てたものもあった。名づけて〝苔玉雛〟(下の写真㊨)。お内裏様はラナンキュラス、右大臣と左大臣はスイセン、3人官女はプリムラといった具合だ。町家の窓辺に飾られた雛人形の中には20年ほど前、たまたま京都・東寺の弘法市で見つけたという明治時代後期の豪華な〝御殿雛〟もあった。全部パーツが揃っているか不安もあったが、家で数時間がかりで組み立ててみると寝殿、渡り廊下、賢所がそろった畳一畳分にもなる立派な御殿が完成した。

 

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<奈良・高取町点描①> 「町家のひなめぐり」今年で7年目

2013年03月04日 | メモ

【土佐街道沿いの民家の玄関や縁側など約100カ所に雛人形を展示】

 日本三大山城の1つといわれる「高取城」で有名な城下町、奈良県高取町。往時の佇まいを残す土佐街道を中心に、いま「土佐町なみ 町家のひなめぐり」(1~31日)が行われている。2007年に地域おこしの一環として始まって今年で7回目。町家の玄関や縁側など約100カ所に、娘や孫娘への愛情と思い入れがいっぱい詰まった雛人形が展示されている。高取町といえば秋の「たかとり城まつり」が有名だが、このひなめぐりも大和路に春の訪れを告げる風物詩として知名度もアップ、連日多くの観光客でにぎわっている。

  

 メーン会場は「雛の里親館」。高さ4mの半円形に400体近い雛人形がずらりと並ぶ光景はまさに圧巻そのもの。右側が主に京雛、左側が江戸雛で、地元高取町のほか全国各地から送られてきたという。今年は「きもので彩る町家のひなめぐり」をテーマとしており、館内にも雛人形の背後に豪華な内掛けが飾られていた。天井からは無数の吊るし雛も彩りを添えていた。

 

 雛人形を展示する町家にはそれぞれのお雛様にまつわる思い出を〝雛物語〟として色紙にしたためている。「健やかで思いやりのある娘に育ってほしいとの皆の願いどおりに成長してくれました」「この人形が我が家に来た日、父は孫と満面の笑顔を見せて喜んでいました。しかし、その頃より父の身体は病に冒され二度とこの人形を見ることがなく、その年の夏に亡くなりました」。

   

 中にはいまはない雛人形にまつわる思い出を綴ったものも。「物のない時に巡り合わせた娘の為に、和裁の腕を生かして母が縮緬の布で『唐子人形』『うさぎ』『ねずみ』などを作り、紙雛の三段飾りで祝ってくれた。私にはそれが最高のお雛様だったことが今も懐かしく思い出される。その時のお雛様がもしあれば、ここに飾られたのに……。ちょっと残念である」。繰り返し読んで、母の娘への深い愛がじ~んと心に染みた。

  

 昨年の年末、自宅を全焼したものの唯一燃え残っていたというお雛様もあった。「母が大阪まで行って一番お顔のきれいなお雛様を買い求め、お祝いしてくれたものでした。亡き母がしっかりと火事の中、守ってくれていたように思われてなりません」。中には何十年も押し入れで眠っていたものも。晴れ姿をみんなに披露することができたお雛様は、どれも生き生きとして喜んでいるように見えた。

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<浄瑠璃寺九体阿弥陀像> 「まず中尊像が造立され、残り8体はその後に追加」!

2013年03月03日 | 考古・歴史

【帝塚山大学公開講座で井上英明・佐川美術館学芸員】

 奈良市の帝塚山大学で2日、「浄瑠璃寺九体阿弥陀像について」をテーマに市民公開講座が開かれた。講師は井上英明・佐川美術館学芸員。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰が盛んだった平安時代に競うように造立されたが、浄瑠璃寺(京都府加茂町)の9体は平安期作としては現存唯一のもの。その制作時期については主に永承説(1047年)と嘉承説(1107年)が唱えられてきたが、井上氏は「まず中尊像が造られ、その後に追加する形で8体が造られたのではないか」との説を披露した。

  

 浄瑠璃寺は本堂に9体の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置することから「九体寺」ともいわれる。真ん中の中尊は高さが約2.2mで、その左右にやや小ぶりの脇侍が4体ずつ並ぶ。制作年代については寺伝「浄瑠璃寺流記事(るきのこと)」の永承2年と嘉承2年の記述などを基に、2つの説を中心に論じられてきた。

 井上氏はまず永承説について、「先本堂…一日ニ葺之」と僅か1日で屋根を葺いたとの「流記事」の記述から、その規模から見て9体を安置するのは無理と判断。さらに寺名が薬師如来の居所「東方浄瑠璃世界(浄土)」に由来することから、この本堂に安置したのは阿弥陀像ではなく本尊の薬師如来とみる。嘉承説についても、嘉承年間になぜ9体を造って本尊を変更したかの説明に説得力を欠くなどとして疑問を呈した。

 平安後期に多く造られた九体阿弥陀堂の発願者・造立者は「天皇家、摂関家といった上級貴族、あるいは院近臣と呼ばれる受領層が中心」。浄瑠璃寺阿弥陀堂より前に造られたものに藤原道長が極楽往生を願って建立した法成寺無量寿院(1020年)がある。浄瑠璃寺には1150年、奈良・興福寺から恵信が入山した。恵信は摂関家の出身で祖父が藤原忠実、父が藤原忠通。その経済力を背景に恵信は苑池の整備や西岸での本堂建立などに取り組み「再興本願」とも称された。「法成寺のように池を挟んで彼岸と此岸を再現する浄土式伽藍配置を考えていたのではないか」。

 井上氏によると、阿弥陀像9体はそれぞれの作風から「中尊と他の8体は様式的な差、時代的な差もある」。さらに寺伝の記録や平等院鳳凰堂など同時代の阿弥陀像との比較から、「まず中尊が嘉承2年(1107年)に独尊像として造られ、残り8体は恵信が入ってきて本堂を西側に移した保元2年(1157年)に造られたのではないか」とみる。制作時期に半世紀の隔たりがあるというわけだ。ちなみに浄瑠璃寺の四天王立像も多聞天(毘沙門天)が最初に造られ、他の3体はその後に造られたそうだ。

 では阿弥陀像9体のうち中尊だけ大きく、他の8体がやや小さいのはなぜか。井上氏は「恵信も全て中尊と同じ〝丈六〟で造りたかったが、莫大な費用がかかるため〝半丈六〟になったのでは」と推測する。8体もそれぞれ衣文など文様が微妙に異なる。この点については「本来なら統一すべきだが、各仏像の制作を担当した〝小仏師〟の采配で少しずつ変わったのではないだろうか」とみる。

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<クールベ展> 写実主義を確立した巨匠 自作・共作など約110点

2013年03月02日 | 美術

【大丸・梅田で開幕、「重厚な暗さの中に根源的なパワー」】

 19世紀フランス美術界を代表するギュスターヴ・クールベ(1819~77年)の作品を集めた「クールベ展」が1日、大阪・梅田の大丸ミュージアムで開幕した。クールベは「目に見えるものしか描かない」と断言、当時としては極めて革新的なリアリスム(写実主義)を確立した。同展では自作に加え、弟子たちとの共作、友人や弟子の作品など約110点を展示している。クールベのデスマスク、愛用のパレットやパイプなども一見の価値がある。

   

 クールベはフランスの山村、オルナン生まれ。21歳の時パリに出るが、故郷への愛着が強く、度々帰省しては風景画を描いた。全体的に暗い色調のものが多い。ギャラリートークで府中市美術館館長の井出洋一郎氏は「オルナンを3回訪ねたが、自然豊かで木々が密集し昼なお暗いという感じだった」と話していた。ありのままに描く写実主義に徹したということだろう。「重厚で暗いが、じっと見ていると、その中に根源的な力がある」とも解説していた。(上の写真は「オルナンの城(部分)」)

   

 クールベはしばしば風景画の中に人間的な要素を盛り込んだ。「トゥルーヴィルの黒い岩」(上の写真)も岩を擬人化した作品の1つ。左側に背を向けた巨人、その斜め下に長い髪の女性、さらにその右の中央にはクールベ自身の顔が描かれているというのだが……。それを確認しようと長い時間、作品に見入る来場者も多かった。クールベは肖像画など人物も描いたが、身近な親しい人しか描かなかった。美化せずストレートに表現するため、女性からはモデルを断られたこともあるそうだ。

 「クールベの絵のもう1つのキーポイントは反教権主義」(井出氏)。油彩線画「会議物語・争いまたは窓外投げ出し事件」は宗教会議の後、酒を飲んでどんちゃん騒ぎする宗教家たちの乱れた姿を風刺した作品。クールベは1870年、レジョン・ド・ヌール勲章を拒否したことで権力の敵対者とみなされる。さらにパリ・コミューンに参加して投獄され、73年にはスイスへの亡命を余儀なくされた。投獄中には差し入れの油彩道具を使って静物画を描いた。

   

 着の身着のままに亡命したクールベは生活費を捻出するため、弟子との共同制作の絵をしばしば描いた。弟子が描いた作品にクールベが手を入れた。「シヨン城」(上の写真=部分)もその1つで、弟子のケルビーノ・パタとの共作。「以前大阪市立美術館で開かれたクールベ展では本人の作品だけだったが、今回は共作も入っているため自作と共作を比較できる貴重な機会。共作はクールベ特有の暗さがなくなっていく」(井出氏)。共作の「レマン湖のほとりの一日の終わり」も夕焼けが空を明るく染める。

 クールベの晩年は不遇だった。亡命したため故郷に帰ることもできず、酒に溺れ(1日にワイン14本を飲んだこともあるという)肝臓を壊して、1877年の大晦日に亡くなった。享年58。遺体が故郷オルナンに戻り墓地に埋葬されたのは生誕100年に当たる約40年後の1919年。生家はいまクールベ美術館になっている。クールベの写実主義は没後、モネやルノワールら印象派に受け継がれていく。

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<BOOK> 「ヒット商品は女子高生・ギャルママに聞け」

2013年03月01日 | BOOK

【植田実著、コスモ21発行】

 タイトルから想像するとマーケティングかビジネス・ハウツーもの。だが、左下に「青少年夢応援隊20年計画宣言」とある。表紙だけでは本題と「宣言」がなかなか結びつかない。帯には「東大阪の四畳半からスタートした男の根性物語」。読むとなかなか痛快で〝ごった煮〟の面白さがあった。約60年の自分史・家族史であり、苦節の社史でもある。その中に処世訓や東大阪の地場産業史、施設の孤児ら1000人のアジア留学構想という壮大な夢まで盛り込まれている。

   

 著者は1953年生まれで、パソコンや携帯のフィルムメーカー、サンクレスト(東大阪市)の社長。創業は1987年。「キラキラ・わくわく・ドキドキする商品の提供」を経営理念に掲げ、現在はのぞき見防止のメールブロック、ジュエリーシール、キズ自己修復フィルムを3本柱とする。年商は10億円余りで社員数25人。2011年に東大阪市優良企業賞を受賞している。

 本書は6章構成だが、まず第6章の「青少年夢応援隊・20年計画の実現に向けて」と番外編「小児ガンを克服した、植田元気からの応援メッセージ」から読み始めた。植田元気は著者の長男。その闘病とがん克服を通じて「子は宝」であることを痛感、社会への恩返しとして20年計画構想が生まれた。児童擁護施設の孤児や経済的に恵まれない若者を20年間に1000人アジア諸国に留学させようというもので、公益財団法人「青少年夢応援隊」の設立に向け準備中という。「世界に羽ばたき、日本の将来を背負うような人材を1人でも多く輩出する支援団体をつくりたい、というのが大それたぼくの夢である」。

 第1~5章の柱は「女子高生は神様だ!」「ドツボから天を見る」「東大阪ブランドを世界へ」など。著者は月に1回、大阪ミナミ・アメリカ村の〝三角公園詣で〟を続けているという。若い女の子から最近の流行情報などを得るためだ。ヒット商品のジュエリーシールもそんな中から生まれた。「女子高生はお客様というだけではない。売れる商品も教えてくれる、実にありがたくもかわいい神様なのだ」。6社共同出資で「ギャルママ商品開発部」も立ち上げた。

 創業からまもなく30年。この間、倒産の危機など多くの〝ドツボ体験〟をしてきた。そこで身に染みて感じたのは「会社経営で一番危険なのは売り上げが急速に伸びているとき」と「ヒット商品が1本では危ない。常に3本柱のヒット商品を用意しなくてはいけない」という2点。「生き残るためには常にイノベーション(変革)を起こしていくことが必要」。次の柱となる可能性があるのは、スマートフォンに強い衝撃を与えても表面のガラスが割れない衝撃自己吸収フィルムという。

 最近は中学や高校から講演依頼が舞い込むことも少なくない。講演では必ず「動詞3つと形容詞3つの6点セットを実践すれば人生150%変わる」と話すそうだ。3つの動詞は挨拶する、行動する、感謝する。この3つは自社の行動指針でもある。3つの形容詞は嬉しい・おもしろい・楽しい。「この3つの1つでも欠けていると思えば、それをやってはいけない。何かに迷ったりしたら、この形容詞3つを考えて行動しよう」。

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