こないだドラマで東京タワーをやってたね。
まぁこれはご存知リリーフランキーさんのベストセラーをドラマ化したもので、
原作はこれでもかというくらい何度も読み返した俺やけど、このドラマは
最初から見る気もあまりなかったし、途中をチラっと見たものの、やっぱり
面白くなくて結局見なかった。
理由は、つまるところドラマには「行間がない」ことに尽きると思う。
原作は当然「文」やから、視点やレトリックの面白さで「想像」を呼び起
こすおかしさや悲しさがあるんやけど、ドラマでそれをいちいち見せられた
もんにゃあ、一気にそれが冷めてしまうねんな。
たとえばちょうど俺が見ていた時にこんなシーンがあった。
大泉洋演じるリリーが、田舎へ帰ると言い出した同居している後輩に
「もっと頑張れ」という。それに応えて後輩が「何を頑張るん!」という。
ここで原作ではリリーの思いとして「正論であった」という言葉がでてくる
んやけど、ドラマではもうひとりの後輩が「正論だよ」と言ってしまった。
こういうふうに本来、リリーの思いであるはずのものが、第3者の口から
いとも簡単に出てくることで、この「正論」に対して、本では感じること
のできる本来、リリーの頭の中で駆け巡るべき葛藤、つまり読者の中で
駆け巡る(リリーへの)想像が、ブチっとThe Endを告げられてしまうのだ。
全ての原作とドラマの関係がこうやとは言わんけど、これは百数十万
部も売れ、まだ売れ続けている大ベストセラー、ほとんどの人は原作
を読んでからこのドラマを見ているはずなので、見てから、もしくは見る
前から俺と同じように「想像の芽を摘まれた」と感じた人はかなり多か
ったんとちゃうやろか。
かといって、想像まかせにして肝心の台詞を省いてしまったら何のこと
か分からなくなるから、ただでさえ難しいドラマ作りやのに、今回は厳
しい条件が揃い過ぎていたような気がするな。
でも、なんやかやと書いている間も、俺はずっと東京タワーを想像して
いる。見上げている俺、俯瞰している俺、横から、斜めからもあり、中
にいる人や、その周りの風景や産業までもが走馬灯のように自分の
頭の中を駆け巡っている。
リリーさんが、憧れや絶望、全てを詰め込んだ日本の渦の中心と言っ
ていたけど、その中心へ引き込まれるように。
このドラマは俺の中では、はずれやったけど、結果的に東京タワーへの
想像は膨らんでる訳で、東京タワーに目をつけ、「東京タワーそのもの
の持つ力」を母親を媒体として表現したリリーさんの視点、表現力は
やはり素晴らしいということなんやろうね。
そういえば江国香織さんの東京タワーも読んだけど、これもドラマにな
ってたんかな?まぁ、そっちのことは知らんけど、一流作家がこぞって題
材にする東京タワーってすごいもんやねんな。
大阪人には悔しいけれど、東京タワーの取り壊しにはとりあえず反対
の立場を表明し、今回は終わります。