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昭和20年(1945年)8月15日、あの日から78年が過ぎたのですね。
幼かったKimitsukuが初めて聞いた外国地名が、インドネシア・ジャワでした。
27歳の若い父が出征して終戦を迎えた地が、ジャワ島だったようです。
3歳違いの妹が生まれる直前に出征し、無事に復員した時には
母と女児ふたりに出迎えられたと、後に話していたことを覚えています。
父から戦争の話は聞かなかったけれど、ジャワとかスマトラとかスラバヤとか
珍しい言葉が今も耳に残っています。
父が復員して来た時に持ってきたのは、洋裁鋏と真鍮製のスプーンと飯盒でした。
また左肩に傷跡があり、戦争の時に鉄砲玉がかすった跡だと聞いていましたが
実はオデキの跡だったと知り、何ともガッカリした記憶が‥。
父の場合どうやらジャワ島では戦闘らしきものは無かったようで
洋裁職人だった父は、専ら軍服の修繕などをしていたらしく
母の年若い弟が戦死したことに申し訳なく思っていたようです。
父は後年、もう一度ジャワ島へ行ってみたいと願っていましたが
その願いを果たせぬ侭、94歳で他界しました。
もっといろいろ話を聞きたかったと、今になって残念に思いますが
父は父なりに、あの時代を懸命に生き抜き、子供4人を育て
少しはS町の民生にも貢献し、社交ダンスやカラオケを楽しみ
それなりに充実した人生を全うしたのではないかと‥
そんな感慨に襲われた、78年目の8月15日でした。