城郭探訪

yamaziro

寺倉城 近江国(近江町)

2015年11月17日 | 館跡

お城のデータ

所在地:滋賀県米原市(旧・坂田郡近江町)寺倉334 map:http://yahoo.jp/pskA0J

区 分:平城

現 状:集落・宅地・神社

遺 構:なし

築城期:室町期

築城者:寺倉氏

目標地:槻倉神社

駐車場:槻倉神社前の公園駐車場

訪城日:2015.11.15

堀痕のような池

お城の概要

国道21号線添いの琵琶湖側、米原市寺倉集落。

遺構は無いようだが、槻倉神社の前に【堀痕のような池】・【印塔】が。

印塔

歴 史 

 坂田郡(旧近江町)寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とあげられ、旧米原町の三吉・寺倉には地頭山(じとうやま)城があって、堀氏が築城して守備した鎌刃城(番場)の支城であり、浅井長政の頃は今井氏が守備し、三吉の門根城は浅井家臣堀氏の屋敷だと記されます。

永正七年(1510)頃の浅井家臣に、坂田郡箕浦城を本拠とする今井肥前守がおり、西円寺館には、

今井ー族の墓

その墓が西円寺にあるといわれます。

寺倉にある禅寺・総寧寺(そうねいじ)は、亨禄年中に兵火にかかった後、新庄氏によって再建されました。

これらに見える今井・寺倉・堀・新庄はみな同族で、藤原秀郷流と称されます。(近江の寺倉氏とその一族について 安土城郭調査研究所)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『浅井三代記』

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


「旧秀隣寺庭園」(国指定名勝)

2015年11月14日 | 文化財

利休も礼賛、ヤブツバキ治療 滋賀・高島、樹齢480年

 造園関係者らの研修会も兼ねて始まった国指定名勝「旧秀隣寺庭園」のヤブツバキの治療(滋賀県高島市朽木岩瀬、興聖寺)

 滋賀県高島市朽木岩瀬の興聖寺境内にある室町時代作の「旧秀隣寺庭園」(国指定名勝)で12日、樹齢約480年と伝わるヤブツバキの治療が始まった。かつて庭園を訪れた茶人、千利休がたたえたという逸話が残る名木だが、近年は花も少なく樹勢の衰えが目立っていた。

 滋賀県緑化推進会の「淡海の巨木・名木次世代継承事業」の一環。森林育成のため県民から寄せられた「緑の募金」を活用し2009年度以降、県内28カ所の巨木・名木の治療を行った。今回は地元住民の依頼を受けたもので、初日は造園関係者らの研修会も同時に催した。守山市の樹木医、中西肇さん(68)が数日かけて治療する。

 室町時代には、近江源氏佐々木氏の一派朽木氏の居館があり、1530(享禄3)年に12代将軍足利義晴が京の兵乱を避け3年ほど滞在。流浪の身の将軍を慰めるため、管領細川高国が銀閣寺庭園を基に築庭したとされる。その後秀隣寺となり、江戸中期に朽木氏の菩提寺興聖寺が移転したが、庭園は当初の姿を保っているとみられる。

 ヤブツバキは池の中島や周辺に8本植えられ6本が現存する。細川幽斎の子忠興が千利休を案内し、利休がヤブツバキの花を見て「散り際の良い、一期一会の心を表したもの」とたたえたという。

 治療方針について中西さんは「木の状態や土壌は悪くはないが、枝が折れたまま腐ったりしている部分があるので補修し、活力を付けるため土壌改良を施す」と説明する。

 森泰孝住職(64)は「480年にして治療は初めて。以前は花のじゅうたんができるほど咲いたが、今春はほとんど花が付かなかった。今回の治療で花を取り戻してほしい」と話している。

京都新聞2016.11.13


稲部西遺跡

2015年11月14日 | 遺蹟

竪穴住居百棟に祭礼場や鋳造工房 滋賀・稲部西遺跡

多数の住居と、祭礼の場、鋳造工房がそろって確認された稲部・稲部西遺跡(彦根市稲部町)=上=と出土した桃の種。祭礼に使われたとみられる(彦根市教委提供)

 滋賀県彦根市教育委員会は12日、同市稲部町と彦富町にまたがる稲部遺跡・稲部西遺跡で、弥生時代後期後半から古墳時代前期(2~4世紀)の竪穴住居が100棟以上見つかったと発表した。これまでに、祭礼の拠点だったと考えられる独立棟持柱付きの建物や、青銅器の鋳型なども出土しており、住居と祭礼場、鋳造工房が一集落内でそろって確認できたのは滋賀県内では初めて。この時代は分業の体制や階層が生じた時代の移行期とされ、「同時期の集落の実態を知るうえで、貴重な手掛かりになる」としている。

 竪穴住居は調査地の南で直径400メートルの範囲内に、多角形建物を含む105棟を確認。掘っ立て柱建物21棟、周溝建物13棟、独立棟持柱建物3棟、区画を示す溝(幅約40センチ)2本も見つかった。掘っ立て柱建物の1棟は、柱穴の直径が1・3~1・5メートルと特に大きく、付近からは桃の種計12個も出土。建物の解体などに伴う祭礼に使われたとみている。

 2年前の調査では青銅製のやじりと棒の一部が出土。同時に見つかった土製品がその後、青銅器の鋳型の外枠の可能性が高いことも分かった。

 調査に立ち会った同志社大歴史資料館の若林邦彦准教授は「一集落内に住居と祭礼の場、工房がそろってあり、首長の下に集約されるような状況が生じているといえる。古墳出現期の集落の変化が分かる貴重な発見。今後、首長の居館が見つかる可能性もある」と話している。

 調査は1981年に始まり、現在、6次調査中。これまでに約6500平方メートルを発掘した。 15日午後1時半から現地説明会がある。問い合わせは市教委文化財課TEL0749(26)5833。

■転換期解明の貴重な鍵に

 奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人・共同研究員の話 近畿北部でこれほど大規模な古墳出現期の集落が確認されたのは驚きだ。社会の転換期の過程で、近畿北部において中心的役割を担った集落と考えられる。古墳時代が始まる前後の集落の構造や社会的な営みの実態はよく分かっておらず、その解明の鍵となるような貴重な成果が出たといえ、今後の調査に注目したい。

京都新聞2015.11.14


永源寺の山城と森のハイキング

2015年11月14日 | ウォーキング
鎌倉時代から戦国時代にかけて佐々木六角につかえた豪族小倉氏の山城を秋が深まる緑の森の中のハイキング歩くコース。
 
山上口バス停(集合)

山田城

八尾城

八尾城(遠景)・・・愛郷の森の道より

 

→星野溜

→池田牧場へ

池田牧場

(昼食)愛郷の森

→八風窒

渋川

旧八風街道

高畠新次郎が渋川沿いに居を構えており(小辰文書)、

紅葉橋

山上陣屋

お鍋の方の居城

高野街道

高野城へ出丸へ

高野神社お旅所

→小倉山上城

バス停へ (歩程 約10km)

開催日:平成27年11月14日(土)★参加費用(保険料、ガイド料等)

集合場所:山上口バス停(集合時間10:15)

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

中畑・古里遺跡:方形周溝墓見つかる 

2015年11月13日 | 遺蹟

中畑・古里遺跡:方形周溝墓見つかる 弥生中期後葉 野洲 /滋賀

毎日新聞 2015年11月13日 地方版

見つかった方形周溝墓=滋賀県野洲市妙光寺で、村瀬優子撮影
 

 県文化財保護協会は12日、中畑・古里遺跡(野洲市行畑・妙光寺)で、弥生時代中期後葉(約2000年前)の方形周溝墓(しゅうこうぼ)2基が見つかったと発表した。墓前に供物をささげるための供献(きょうけん)土器も出土し、協会は「弥生時代の人々の生活や、当時の野洲川流域の集落構成を明らかにする上で貴重な発見」としている。

 方形周溝墓は周囲を四角い溝で囲った墓。内側の盛土に集落の有力者らを埋葬している。今回見つかった2基は、共に約8・5メートル四方の大きさで、溝幅は0・6〜2・2メートル。うち1基の溝からは、供献土器とみられるつぼが出土した。

 県文化財保護協会は14日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは協会(077・548・9780)。【村瀬優子】

 

 

中畑・古里遺跡の現地説明会開催のお知らせ

公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、国土交通省滋賀国道事務所および滋賀県教育委員会からの依頼により一般国道8号野洲栗東バイパス工事に伴う発掘調査を平成27年5月から実施しています。
 調査では、弥生時代中期後葉(約2100年~2000年前)の方形周溝墓や、奈良時代の掘立柱建物・柵・井戸、平安時代中期の溝などがみつかりました。特に、方形周溝墓から供献土器が出土するなど、中畑・古里遺跡における弥生時代の人々の生活や野洲川流域の集落構成を考える上で、新たな資料が加わりました。

つきましては、一般の方々を対象とした現地説明会を下記のとおり開催します。

1.開催日時:平成27年(2015年)11月14日(土) 午後1時30分から開催
2.開催場所:中畑・古里遺跡発掘調査現場 野洲市妙光寺
3.交通機関:JR琵琶湖線 野洲駅下車 東へ徒歩20分
        ※駐車場がありませんので、自家用車でのご来場はご遠慮ください。交通公共機関をご利用ください。
4.そ の 他:雨天決行。雨天の場合は、足元が悪いため、長靴をご用意ください。
5.問い合わせ先:公益財団法人滋賀県文化財保護協会
         大津市瀬田南大萱町1732-2
         TEL:077-548-9780(8:30~17:00)


 

=弥生の方形周溝墓=

滋賀報知新聞2015.11.18

発掘された方形周溝墓

◇野洲
 滋賀県文化財保護協会は十二日、国道8号線野洲栗東バイパス工事に伴う発掘調査で、野洲市妙光寺の中畑・古里遺跡から弥生時代中期後葉(約二千百年~二千年前)の方形周溝墓二基が見つかったと発表した。
 調査は、今年五月から来年二月の予定で、七千九百平方メートルを対象に実施されているもの。方形周溝墓からは、墓前に供物や食物をささげるため使われたと考えられる弥生土器壺などが出土し、同遺跡における弥生時代の人々の生活や野洲川流域の集落構成を考えるうえで新たな資料が加わった。

 

出土した供献土器

 方形周溝墓は、周囲を溝で区画し、その内側に盛り土(墳丘)をする弥生時代を代表する墓で、地域の有力者や一族が葬られた。中畑・古里遺跡で発掘された方形周溝墓の墳丘は、いずれも一辺八・五メートルで、周囲の溝の幅は〇・六~二・二メートルだった。溝内部からは、多数の土器が出土した。墳丘内部の埋葬施設は、後世に削られたため残っていなかった。
 今回の調査結果について県文化財保護協会は、「方形周溝墓は有力者一族を埋葬するため群集してつくられるのが一般的だが、同遺跡の方形周溝墓は二基のみだったことから、限られた時期につくられたとみられる。このため、同遺跡のムラは短期間しか存在しなかった可能性を示している」としている。


佐目館(明智屋形 通称:十兵衛屋敷)  近江国(多賀)

2015年11月13日 | 居館

高室山への登山道に【高室山城】が、下屋敷【佐目館】(滋賀県中世城郭分布より)

お城の概要

別 名 :伝明智屋形 通称:十兵衛屋敷

所在地:犬上群多賀町佐目 map:http://yahoo.jp/aixGVb

現 状:宅地、畑地

築城年:室町期

築城者:佐目氏{伝明智氏)

区 分:居館

標 高:233m  比高差:ーm

遺 構:末裔に見津(けんつ)氏宅

目標値:十二相神社

駐車場:十二相神社の近く空き地に路上駐車

訪城日:2015.11.12

 

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査5』地図番号15Dに高室山城、佐目館の位置図が記す。

伊勢への旧街道を警戒・警備していた。

明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)の伝説があり、佐目館【伝・十兵衛屋敷】・・(十二神社本殿と鳥居の間)

歴 史

『淡海国木間攫(おうみのくにこまさらえ)』、には「佐目村 此邑ニ往古明智此処ニ明智十右衛門尉門住ス、出生ハ美濃ノ土岐成頼ニ続セシカ後成頼に背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミヨセケル処御屋形曰明智ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養来ヲ与ラレ二三代モ此処ニ居住スト云息十兵衛ニ至リテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す。

『淡海温故録』には、「佐目 此処ニ明智十左衛門住ス云明智ハ本国美濃ノ者ニテ土岐成頼に続センカ後ニ成頼ニ背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミ寄席セケル処屋形日ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養米ヲ与ラレ二三代モ此処ニ住スト云息十兵衛ニ至リテ器量優レタル者ニテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す

犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。

佐目集落の南東端に佐目館が位置する、「十二相神社と鳥居の間に明智屋形(通称:十兵衛屋敷)」の伝承地がある。

 この地に末裔の見津(けんつ)氏が、現在も立派庭園付き屋敷にお住まいで、運良くこの日御当主にお話しを聞けた。(見津(けんつ)の由来は「明智光秀の光を見津に変え、見津(けんつ)」と読み、この地に住み続けている。)

庭が立派な【見津(けんつ)氏宅】・・・(明智氏の末裔宅のようです)

明智光秀の光(みつ)を三津(みつ)に置き­換え、三津(けんつ)と読み・・・多賀町議­さんの説で(自宅で調べましたので)

ご主人に腰越の城鳥瞰絵図(長谷川博美氏の作図の鳥瞰図)を見せて頂きました。十二相神社の鳥居

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


高室山城(腰越の城)  近江国(多賀)

2015年11月12日 | 山城

高室山への登山道に【高室山城】が(滋賀県中世城郭分布より)

見津(けんつ)宅のご主人に腰越の城鳥瞰絵図(長谷川博美氏作図)を見せて頂きました。

お城のデータ

別 名 :腰越の城

所在地:犬上郡多賀町保月 map:http://yahoo.jp/_tsE81

現状:山林・登山道

築城年:室町期

築城者:伝)明智氏

区 分:山城

標 高:402m  比高差:161m

遺 構:堀切、塹壕、竪堀、

目標値:佐目トンネル

駐車場:高室山登山口駐車場(トイレ付き)佐目トンネル手前右側)標 高:241m

訪城日:2015.11.12

 高室山登山道の説明板

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査5』地図番号15Dに高室山城、佐目館の位置図が記す。

新発見の城として紹介された本城は、佐目集落の東方(標高402m)のピークに位置する。

その北が尾根続きであるが、北端は標高402mの鞍部にある往旧の峠道に向け急斜面で落ち込んでいる。

主郭部は東西約36mで両端に堀切が設けられ、さらに北東に第二郭が石灰岩の露頭を交えながら約130mに亘って続いている。また、主郭西にも段郭と帯郭が続いており、城域は全長約240mにも及んでいる。

西下方には2ケ所の出郭も確認されているようだが。

「緩斜平削地の郭」・「堀切」・「竪堀」・「街道側に尾根筋に沿って塹壕」「北側に平削地(郭)」も見られ、城郭遺構に違いないが、高室山城(腰越の城)

伊勢への旧街道を警戒・警備していた。   

山頂の主郭、山頂部は狭小だけれども城の裾や腰部に広範に腰郭、帯郭が配置されている。急坂の遺構(攻め入ることが出来ぬよう)山を削り急坂に)も含め広く感じます。 しかし、ここが「城跡」だと分かっていなければ、 素人には単なる尾根伝いの登山道で通り過ぎるでしょう。堀切や塹壕の存在、石灰岩の露頭を利用した厳巌な要害を知ることが出来る。また狭い郭は複雑に切り刻れて普請されている。

虎口カ頂部平削地(郭・物見櫓カ)

歴 史

「淡海国木間攫」「淡海温故録」に犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。

佐目集落の南東端に位置する『十二相神社と鳥居の間に明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)』の伝承地がある。

「淡海国木間攫(おうみのくにこまさらえ)」、には「佐目村 此邑ニ往古明智此処ニ明智十右衛門尉門住ス、出生ハ美濃ノ土岐成頼ニ続セシカ後成頼に背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミヨセケル処御屋形曰明智ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養来ヲ与ラレ二三代モ此処ニ居住スト云息十兵衛ニ至リテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す。

「淡海温故録」には、「佐目 此処ニ明智十左衛門住ス云明智ハ本国美濃ノ者ニテ土岐成頼に続センカ後ニ成頼ニ背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミ寄席セケル処屋形日ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養米ヲ与ラレ二三代モ此処ニ住スト云息十兵衛ニ至リテ器量優レタル者ニテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す

この地に末裔の見津(けんつ)氏が、現在も立派庭園付き屋敷にお住まいで、運良くこの日御当主にお話しを聞けた。(見津(けんつ)の由来は「明智光秀の光を見津に変え、見津(けんつ)」と読み、この地に住み続けている。)

これらの伝説に関連する中世城郭と推測される。

佐目トンネル手前に駐車場高室山への案内版

登山道案内切通登山道案内 佐目集落下段の虎口か

頂部主郭

南側城道

主郭の北隅に【高室山への登山道案内】

下城します。

堀切・土橋で登上記念写真北側郭(街道の反対側)

尾根の南側「街道側に尾根筋に沿って塹壕」5m程

アンテナケーブルからが主郭群

狼煙穴・・凹(直径2m余)地 

下りで気づいたが、桝形虎口か(切通のすぐ上)

十二相神社 本殿

 

境内の寺院

十二相神社の寺院裏の「中世の石仏・五輪塔」群がしっそり祀られいる。「犬上川河原に転がっていたのを後世引き上げたれられた」と伝承。

中世の「石仏群27基・一石五輪塔4其」

中世の宝筺印塔一基(傘部が欠けている)

中世の墓所址(墓石・石仏の前)

十二相神社の背後の平削地

おすい蓋【南後谷・佐目・霧ケ原】の文字に街道と木・鳥のデザイン

伝・十兵衛屋敷・・(十二神社本殿と鳥居の間)

庭が立派な【見津(けんつ)氏宅】・・・(明智氏の末裔宅のようです)

明智光秀の光(みつ)を三津(みつ)に置き­換え、三津(けんつ)と読み・・・多賀町議­さんの説で(自宅で調べましたので)

ご主人に腰越の城鳥瞰絵図(長谷川博美氏作図)を見せて頂きました。十二相神社の鳥居

仮称:腰越の城(遠景)…駐車場から

佐目トンネル手前駐車場(高室登山口)

旧街道500先で通行不可!

 

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


講座「中世・守山の村と城」・秋季特別展

2015年11月11日 | 講座

中世とは、朝廷から武士に政治の主導権が移った、平安時代末(11世紀後半)ら安土桃山時代(6世紀後半)でのおよそ500年間を指しています。近年、現集落や地域の社寺仏閣に伝わる伝統行事、あるいは信仰などのルーツが中世後期に求められる例が多いことがわかってきました。今回の特別展では、中世の守山の村、庶民のくらしぶりの一端をご紹介します。

■会期
平成27年11月3日(火曜日・祝日)~11月23日(月曜日・祝日)午前9時から午後4時まで(入館時間・期間中無休)2015年11月3日(火・祝)~23日(月・祝)まで埋蔵文化財センターで
秋季特別展「中世・守山の村とくらし」が開催される。
■時間 9:00~16:00
■場所 埋蔵文化財センター
(滋賀県守山市服部町2250番地)
■入館料 無料


【講演会】  2015年11月8日(日)14:00~
演題:「野洲川流域の村と城」
講師:堀 真人さん(公益財団法人滋賀県文化財保護協会)


塩津浜歴史研究会 20周年記念講演会

2015年11月10日 | 講座

塩津浜歴史研究会 20周年記念講演会     2015.12.16up

 

 

塩津海道常夜灯

塩津浜山城

塩津城山城

 

琵琶湖水運と塩津浜

北陸の要敦賀港と琵琶湖水運を結ぶ五里半越えの塩津海道

中嶋 守治(塩津浜歴史研究会顧問)

■北陸・奥羽と京都・大坂を結ぶ荷物の集積港として栄えた塩津浜

 四方より花吹入れて鳰の海  はせお
 近江所縁の松尾芭蕉の句にもある「鳰の海」は「あふみのうみ」「淡海」「近江」「太湖」ともいい、古来より親しまれてきた琵琶湖の古名である。歌に詠まれた琵琶湖は、物資運送の水路として古代から利用されてきた。
 10世紀(延長5年)に完成した「延喜式」第26巻「諸国運漕雑物功賃」条の中に「加賀。能登。越中等国亦同。自敦賀津運塩津駄賃。米一斗六升。自塩津漕大津船賃石別米二升」云々とあって北陸からの物資は海路で敦賀に集め、敦賀~追分~沓掛~塩津浜に至る「塩津海道」を通り湖上を船によって、京都に送るよう指示している。
「塩津海道」は別名「深坂越え」と呼ぶ。越前と近江に通ずるこの海道は難路な峠道を越えなければならなかった。「上り千頭、下り千頭」と牛、馬が漸く運ぶ物資と共に、力自慢の男たちがハァハァと肩で息をしながら大荷物を持ち上げてくる姿を谷鮟鱇(たにあんこう)とユーモラスに呼んだという。
 陸路~湖路の中継地、塩津浜は多くの問屋、旅籠、商家などが軒を連ね宿場町として大変なにぎわいを見せていた。『山本山がのいたらよかろう塩津が見えてなほよかろう』と「鄙の一節」にあって塩津のにぎわいへの羨望が歌になるほどであった。港は、湖の手前で鉤の手に曲がっている集落横の大坪川が利用されていた。波風に左右されず係留できる天然の良好に沿い、立ち並ぶ白壁の大きな倉は威風を誇っていた。

■江戸時代から発達する琵琶湖独特の帆船丸子船

丸子船

 江戸期に入ると物資の運送量は増加の一途をたどり、湖上に浮かぶ小船では対応できなくなった。そこに登場したのが、大型木造帆船丸子船であった、船の両側に長い丸い木を半分に割り付け(重木といい重心の安定を図る)たことから「丸子」とか「丸太船」とも呼ばれた。百石船(米250俵積み)以上のものを大丸子、それ以下のものを小丸子として区別していた。最大490石船の記録もある。一般的には100石積みから200石積みの船が多く、港が保有する隻数が物資輸送量を表す指針となっている。
 寛文4年(1664)敦賀の記録によると、主な上がり荷は、米75万6千俵をはじめ四十物(あいもの・塩魚)、昆布、塩鮭、紅花等。下り荷は反物、陶磁器、茶などとなっている。
 一方、陸路運送の難所、深坂越えを避け新道野越えが整備された。距離は半里(2km)長くなったが勾配、標高で有利になった塩津港には200隻を超える丸子船が従事し、荷待ちの船は港口付近に埋め尽くされていたとある。夜明け前、内嵐(陸地から湖上に向かって吹く風)に乗って次から次へと出航する丸子船の白い帆が沖合いで朝日を受けてまぶしいように光るありさまは、実に美しいものだったといわれている。

 

にぎわいを見せていた明治時代の塩津港(絵図)

■蒸気船の登場で始まる大量運送の戦国時代

 江戸末期になると、北国の各藩は藩主護衛のため、琵琶湖に自藩の持ち船を作り始めた。加賀大聖寺藩士の石川璋は藩主に「西洋では石炭を燃料とする早船を使用している、この早船を使ってはどうだろう!」と進言したところ、狂人扱いされたという。石川は大津百艘仲間の一庭啓二と二人で長崎に行き、英国人から陸用機関2組を買い入れ、大津に戻ってきた。船の横に大きな外輪、中央の長い煙突から黒煙を吐きながら「一番丸」(14馬力・4カイリ)が湖上に船出したのは明治2年3月3日であった。

江戸期の造り酒屋

 文明開化のエンジン音も高らかに走る蒸気船は、今津~大津間を5時間がかりののんびりした船旅であった。しかし、風雨に左右されない蒸気船は貨客運送の主力となり、次々と汽船会社が設立。貨客の争奪、サービス合戦、速力競争と汽船戦国時代を呈した。大量物資運送に対応するため、造船される蒸気船も大型化され、同15年には日本最初の鋼鉄船「第一太湖丸」(516総トン)、「第二太湖丸」(498総トン)も塩津~大津間に就航。
 これら大型船に対応するため、塩津港も湖に面した集落の南に移した。郡史によれば、塩津浜の街中のにぎわいは「殷賑を極めた」とあり、「街中は旅人や、牛馬車の往来繁く、荷物を扱う問屋は、百二十戸が軒を連ね、そのうち五十人以上が働く問屋は五軒あったとあり、また二十人以上泊まれる宿屋が二十数戸、飲食店は三十数戸を数え、歩くのにも不自由をきたした」と表現されている。

■貨客運送は船から鉄道に、琵琶湖水運繁栄の歴史に幕

明治に入ると日本各地に鉄道が敷設され始めた、明治15年、敦賀~長浜間に鉄道が開通。しかし、陸蒸気と称された汽車は当時の庶民にとってはまだまだ高嶺の花であった。ヤンマーディーゼルの創始者、山岡孫吉氏によれば「明治三十六年十六歳の二月三日早朝、山を越え片山港から大津まで十六銭の蒸気船に乗り大阪に向かった、当時の汽車賃は八十銭であった」と回顧している。やがて鉄道が庶民の貨客輸送の主力になると、蒸気船の姿も一気に消えてしまった。わずかに残った丸子船も高度成長の波に飲み込まれた。塩津浜繁栄の歴史は今は昔、鄙里の岸に繰り返す波音が悠久の時を今静かに刻んでいる。

船員ほけん2002年3月号に寄稿

 


伊庭城(伊庭陣屋)   近江国(能登川)

2015年11月10日 | 平城

陣屋橋を渡ると勤節館が伊庭城跡とされる陣屋

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町  map:http://yahoo.jp/8Wj4jK

区 分:平城(環濠集落=水城)

築城期:室町期 建久年間

築城者:伊庭高実

陣屋主:三枝氏(江戸期)

遺 構:石垣、堀、説明版

目標地:勤節館

駐車場:勤節館

訪城日:2015.11.6

ぢんやばし

お城の概要

城跡とされる伊庭集落、現在でも豊富な水量を誇る水路が縦横にめぐっており、当時は堅固な水城であったことを窺い知る事が出来る。

伊庭城址は、明治時代に伊庭小学校に、昭和23年小学校後に現在勤節館が建てられて保存されています。城址の四囲には石垣護岸(江戸期の石垣)の水路で囲い環濠集落・水城が残り、水堀の風情が残されている。

近年までは、伊庭川の水路(堀)は田舟で行き来し、田・農作業の水路にもは活用されいた、伊庭の集落の中心部にある。

歴 史

保元元年(1156)に崇徳上皇から源為義が伊庭荘を賜ったと「平家物語」に見え、鎌倉時代(1185頃~1333)には九条家の荘園であった。

伊庭城は、佐々木氏宗家である佐々木経方の子・行実の四男・高実が建久年間(1190~ 1199)に伊庭の地を領し、築いたとされる城郭である。

 南北朝(1336~1392)の動乱期を迎えると伊庭氏は佐々木六角氏に属して活躍し、守護代に任じられるとともに、伊庭内湖周辺に広がる水田地帯の豊かな生産力や琵琶湖の湖上交通の掌握などを背景に強大な権力を持つようになっていった。

特に、佐々木六角氏による寺社や将軍奉公衆の領地の押領に対し、長享元年(1487)の将軍・足利義尚による第一次六角征伐および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐を受け、山内・伊庭両氏を中心に家臣団が団結してこの難局を乗り越えるが、第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭である山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになり、六角氏にとって伊庭氏は危険な存在となっていった。

伊庭氏の勢力拡大を恐れた佐々木六角氏は、文亀2年(1502)六角高頼が伊庭貞隆の排除を企て、伊庭の乱が勃発した。貞隆は一旦湖西へ逃れるが管領細川政元の援助を得て攻勢に転じ、高頼を蒲生氏の音羽城に追い詰め、地位を高めつつ室町幕府の仲介で和睦している。

 永承4年(1507)管領細川氏の内紛から将軍職を巡る争いへと発展し、これに伴い六角氏と伊庭氏の対立も再燃し、永正11年(1514)に水茎岡山城主・九里信隆が高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子・浄椿と組んで六角氏に抗した

伊庭氏らは江北の戦国大名浅井亮政の支援を受け、永正13年(1516)には観音寺城を攻めたが失敗し、永正17(1520)高頼の子・定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に立て籠もったが敗れて没落した

江戸末期の能登川知行図(彦根藩 井伊家・旗本 三枝家・郡上藩 柳沢家・山上藩(種))

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町 map:http://yahoo.jp/KTL_8p
現 状:伊庭地区事務所・宅地

区 分:平城 比高:ーーm 
築城期:室町期 築城者:伊庭氏


遺 構:堀・石垣・説明板
目標地:伊庭地区事務所

駐車場:伊庭地区事務所

訪城日;2015.11.9

お城の概要

 現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、方形状の居館跡が残ります。周囲の石垣が残り堀跡と思われる小川が城址を巡ります。小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。 

 

お城の歴史

 建久年間(1189年~1198年<建久三年(1192年)鎌倉幕府成立>)に佐々木行実の四男高実が伊庭氏を名乗りこの地を領しました。

元禄十一年(1698年)に旗本三枝氏が領主となりここに陣屋を構えました。 <現地案内板より>

伊庭城は、江戸時代に永禄11年(1697)旗本三枝氏が伊庭領主となって陣屋を構え、現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。

歌碑勤節館の前に室町時代の有名な連歌師宗祇の生誕碑

能登川・林中央公園の連歌師宗祇の銅像(旅好きな連歌師)。……東北の白河、北九州の太宰府、それに越後へは7回訪れ、最後は旅先の箱根(湯本)で亡くなった。)

 伊庭城と宗祇、案内板によると連歌師宗祇は伊庭氏の出身で出生の地。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、東近江市史能登川の歴史、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


武曽館 近江国(高島)

2015年11月10日 | 丘陵城

 お城のデータ

所在地 : 高島市(旧高島郡)高島町武曽横山 map:http://yahoo.jp/Bv006D

区 分:丘城

現 状:宅地・竹林

築城年 :室町期

築城者:横山頼信  (佐々木高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信

遺  構:土塁、堀

目標地:日吉神社

駐車場:日吉神社の空きスぺース

訪城日:2015.11.7

 

お城の概要

武曽集落は丘陵先端部に位置し、鴨川支流を西の堀に琵琶湖に向けて構える。

詰め城部カ? http://yahoo.jp/vkXwPs

『日本城郭大系』には、武曽集落の氏神である日吉神社の北西背後の丘陵上に土塁と堀に囲まれた削平地を横に連ねた遺構が残っているとする。

また、『滋賀県中世城郭分布調査』には、城郭体系の山城とともに日吉神社南東の土塁が残る居館跡を報告しており、武曽城は居館と詰城からなる城郭であったようだ。

武曽館

  • 居館は、武曽集落の東端付近で日吉神社の鳥居から100m程、東に行った道路北側の資材置き場のような建物の裏手にある。                               藪の中に西面、北面、南面の明瞭な土塁と堀が残存している。北西角では折れが見られ、東面は斜面となっているようだ。が、遺構付近の竹の繁茂は激しく、郭内へは立ち入り困難。

  • また、日吉神社の鳥居から100m程、西に行った道路の北側添いに土塁を伴った郭(館)が鴨川支流を堀に残存する。横山氏の一族か?。臣下の屋敷か?。

お城の歴史

横山城の支城で、佐々木氏庶流で高島七頭の一人で武曽横山を所領とした横山氏の城館とされる。

横山氏は、近江国守護・佐々木信綱の二男・高信が高島郡に移り、高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信が横山に移り住み横山氏を称えたことにはじまるとされる。

横山下野守高長のとき、浅井長政に攻められてその軍門に降った。しかし、元亀三年(1572)に織田信長に攻められて降伏した。翌天正元年(1573)には、同じく信長に降った(南西500mのところにあ)る伊黒城が、長政に攻め落とされている。その後の武曽城および横山氏について詳細は不明である。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡高島町武曾横山」、形式は「平山城」です。城の歴史は「武曾城は、横山城の支城で、横山下野守高長のときに浅井長政に攻められて、横山の本城と共に敗れ浅井氏に降った。そして元亀三年(一五七二)、今度は織田信長の攻略によって降伏する。現在、武曾には字名として中殿・中殿前・大門等々が残っている。武曾城は、日吉神社の北西に位置し、南面は鴨川が西から東へ流れている。武曾城の本城横山に対する役割は、横山城が八田川を中心に北面を治めていたのに対して、武曾城は立地から鴨川を中心に横山城の南面を守るために築城されたものと解釈することが許されるであろう。」とあります。なお、高島郡高島町武曾横山は現在高島市武曽横山になっています。

次回に・・・・山上『詰め城』は、ここかhttp://yahoo.jp/vkXwPs

武曽集落(武曽城)  http://yahoo.jp/Am7OzR

  • 日吉神社・武曽集落

ここから詰め城へ

日吉神社境内の神社 土塁・平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、 日本城郭体系、高島の城、淡海の城

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


国史跡「雪野山古墳」の出土品特別公開 近江国(八日市)

2015年11月09日 | 文化財

 

「卑弥呼の鏡」目の前に 東近江・雪野山古墳で出土の52点

東近江市南西部にある国史跡「雪野山古墳」の出土品特別公開が五日、市内の能登川博物館で始まった。卑弥呼の鏡とも呼ばれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など、古墳時代前期の貴重な文化財五十二点を間近で鑑賞できる。十五日まで。月、火曜は休館。

 雪野山古墳は東近江、近江八幡、竜王の二市一町にまたがる雪野山(三〇八・八メートル)山頂で一九八九年、未盗掘の状態で見つかった。四世紀前半の石室から出土した副葬品が国重要文化財に指定された。

 公開されたのは、東近江市が二〇一一年から進める保存修復事業で修復を終えた出土品の一部。三角縁神獣鏡五枚は割れ目が樹脂で継ぎ合わされ、銅に刻まれた精巧な模様がつややかに輝いている。

 つぼや装飾品、鉄の刀剣ややりなども当時に近い状態で展示され、当時の時代背景や埋葬者の人物像を想像させる。

 市は公開に合わせ、出土した武器や同時期の古墳をテーマにした連続講座「雪野山古墳の時代」を同館で開く。十一月七日、十四日、十二月十二日、一月二十三日。各回百人。無料。(問)市埋蔵文化財センター=0748(42)5011

中日新聞(杉浦正至)2015.11.6

 

修復を終えた三角縁神獣鏡が並ぶ会場=東近江市の能登川博物館で

写真

参考資料:新聞、展示会場説明

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


「穴太野添古墳群」発掘調査説明会  近江国(坂本)

2015年11月09日 | 文化財

調査は、穴太野添古墳群の範囲内の北半で実施しているものです。これまで今回の調査範囲内では古墳の存在は確認されていませんでしたが、新たに7基の横穴式石室が確認されました。石室は後世の削平等により上半はなくなってしまっていますが、石室の下半、特に床面は良好な状態で残存していました。木棺の釘が埋葬当時からほとんど移動せずに残っているものや、ミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)やカンザシといった副葬品が出土しています。この地域は渡来人の存在が想定されていますが、今回検出したものも、その出土品や石室の形態などから渡来人の影響のあるものと考えられます。

横穴式石室跡を発見 大津市教委、穴太野添古墳群で7基

写真見つかった横穴式石室跡=大津市坂本で

 大津市教委は四日、同市坂本の穴太野添(あのうのぞえ)古墳群発掘調査で、古墳時代後期の横穴式石室跡七基が見つかったと発表した。周辺の古墳群でも出土している渡来系の影響を受けた墓跡で、一帯に渡来人系の墓域が広がっていたことがあらためて裏付けられたという。

 石室跡は、下段部分の石材が残っており、縦約三メートル、幅二メートル。内側へ積まれていることから、屋根は丸みのあるドーム型の墳丘とみられる。

 石室内からは、副葬品で高さ八センチ、幅十五センチのミニチュアのかまどや銀製のかんざし、木棺を止めるためのくぎ四十本や、土師(はじ)器、須恵器なども見つかった。

 ミニチュアかまどやかんざしは、大津市北部の古墳群のほか奈良県や大阪府でも見つかっており、渡来系の影響を強く受けたものとされる。

 同市北部は、渡来系の人が多く住んだ地域とされ、坂本から千石台の地域に三十一の古墳群が広がっている。

 現地説明会は七日午前十時半から。駐車場はなく、京阪穴太駅から徒歩十分。雨天決行。

(問)市文化財保護課=電077(528)2638

穴太野添古墳群位置図(PDF:1.5MB) 市内初、銀製U字形かんざしも

 大津市坂本、穴太両地区に広がる穴太(あのう)野添(のぞえ)古墳群で、6世紀の円墳とみられる古墳7基が確認され、市教委が4日、発表した。1基からは市内で初めて銀製のU字形かんざしを発見。玄室の構造や副葬品の状況から、いずれも渡来系の人々の墓とみられる。(池内亜希)

 同古墳群は、6世紀前半~7世紀前半の円墳とみられる約150基があり、1969年から24基で発掘調査。

 今回はグラウンド造成に伴い、7月から約1000平方メートルを調べた結果、7基を確認した。

 石室はいずれも横穴式で、うち5基は遺体を納めた玄室(長さ2・8~3・2メートル、幅1・5~2メートル)の保存状態が良く、壁の石が少しずつ内側にせり出し、天井がドーム状だったと推定できた。

 玄室内の西側には鉄製のくぎ、北東側からは土師器(はじき)や須恵器の甕(かめ)、壺(つぼ)が、おおむね共通した配置で出土。くぎは木棺を作る際に使用したとみられ、ほぼ元の位置で残っており、木棺の規模を復元できる可能性がある。

  • 出土したミニチュアの炊飯具
    出土したミニチュアの炊飯具

 3基の玄室では、十センチ前後程度の大きさに作られたミニチュアの炊飯具が出土。県外の渡来系の人々の墓でもみられるカマド、カマ、ナベ、コシキの4点がそろったものもあった。

 市内で初めて確認された銀製のかんざし(幅6センチ、長さ16センチ)はU字形で、1基から出土。玄室の中央付近で見つかり、保存状態も良い。

 ドーム状の天井や炊飯具などの副葬品は、渡来系の人々の墓にみられる特徴で、同古墳群でのこれまでの発掘結果と一致する。

 市教委は「6世紀に同じ葬送儀礼を持った渡来系の集団が周囲にいたことがわかる」としている。

 現地説明会は、7日午前10時30分から開始。当日は市職員が京阪穴太駅で案内する。

参考資料:2015年11月05日 Copyright © The Yomiuri Shimbun、中日新聞:2015年11月5日、

穴太野添古墳群現地説明会 大津市ホームページ

受付

古墳群……古墳の土の色まっ黒(山林だったのに、こんなに肥沃な処に?)

古墳頂部の山林…土塁で囲っていたのか?

出土品の一部展示・説明

1号墳~5号墳のパネル写真

    

現地説明会が終わり、埋め戻し・・・地中保存

その上に、比叡山高校のグランドが整備される、予定!

参考資料:現地説明会資料、大津市HP、新聞記事

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


塩津浜歴史研究会 記念講演会

2015年11月08日 | 講座
 塩津浜歴史研究会創立20周年記念講演会
日時 平成27年11月7日(土曜日)
   午後1時30分〜午後4時
会場 塩津浜公民館
   長浜市西浅井町塩津浜960番地
講演 1.講師 長谷川博美氏 (米原市文化協会城歩会)
    ・塩津城と塩津浜城の再発見
   2.講師 大田浩司氏  (長浜城歴史博物舘館長)
      ・塩津港の歴史〜古代から近代へ〜
主催 塩津浜歴史研究会 協賛 塩津浜自治会
連絡先 代表 中島守治 �0749−88−0382

講師:長谷川博美氏

右端の講師 太田浩司氏

塩津浜の街並み

塩津海道の道標旧塩津海道塩津城山城

塩津浜山城(遠景)