2025年4月7日(月)、阿多田島の高山(204m)・観音山(116m)に登った。1月に登って、今年2回目。1月は、観音山から高山に登って、左回りに島を一周。この日は、高山から観音山に登って、右回りに島を一周した。高山(204m)
山頂から、北に宮島、東に次に登る観音山とその向こうに大黒神島を眺めた。
観音山(116m)
山頂はどこだろうか、分り難い。 黄色のレンギョウが咲き誇っていた。白のザイフリボク・黄のサルトリイバラの若木・ピンクのコバノミツバツツジのコントラストが鮮やかだった。
卒業記念・結婚記念・出産記念などで植えられた桜を見ながら、周回道路を一周した。同行の一人が酒のつまみにと、ワラビを取りまくっていた。花より団子。自分も樹木観察ばかりではなく、今後は実利を求めてみようと思った。
港近くのサクラの木の下で、ちょっと一杯飲んだら、あっという間に帰りの船の時刻になった。
2025年3月20日(木)、安佐南区の野登呂山(452.8m)に登った。登山口は、南麓の広島安佐カントリークラブ近く。登山口には、アセビが咲いていた。これを見て、さぞかし今日はアセビが沢山見られるだろうと期待した。
登山路はよく整備され、木の根っこが階段のように、横に這っていたのが特徴的だった。残雪も少しあった。
途中、正面の武田山(410.5m)の向こうに、似島がかすかに見えた。写真に写っていないのが残念だ。
山頂から、南に団地や権現山、その向こうに太田川や二ケ城山(482.8m)、松笠山(374.3m)、呉娑々宇山の山なみ。
北には、中電南原ダム(右の白い部分)が見えた。
期待していたアセビなどの木花は、例年なら咲いているはずなのに、残念ながら全く咲いていなかった。下山したところでやっとアセビを見つけた。
2025年3月14日(金)、柱島の赤禰武人の生誕地と墓、そして3月18日(火)、山口市鰐石の処刑地に建てられた顕彰碑を訪ねた。柱島の生誕地
1838年、柱島にて、医者の長男として生まれた。
若い頃から、僧侶月性(げっしょう)、松下村塾の吉田松陰、望南塾の梅田雲浜らに学び、尊王攘夷思想に傾倒。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、井上聞多らと英国公使館焼打事件を起こす。1863年、奇兵隊の第3代総督に就任。藩内クーデター・功山寺挙兵において高杉晋作と対立し失脚し、藩を脱する。その後、藩に戻り、幕府との全面戦争を避けようと同志を説得しようとしたが、裏切り者とみなされ、山口鰐石(わにいし)で処刑された。1866年、満28歳。柱島の墓(西栄寺)
処刑地の顕彰碑(昭和28年建立、椹野川「井手ケ原河川公園」近く)
高杉晋作は、病床にてこう語った言う。「(幕府との全面戦争回避を画策した)武人の心中を洞察することが出来ず、生命を全うさせることが出来なかったのは、残念だった。」
2025年3月14日(金)、岩国港から南東26kmのところにある柱島の「金蔵山(きんぞうざん)」に登った。初めて登ったのが2021年。月日の経つのがつくづく早く感じる。中学1年生なら、早や高校2年生になっている。金蔵山(283m)は、しま山百選のひとつで、「西瀬戸内海の周防小富士」と呼ばれているところ。7時40分発の高速艇で、途中、柱島諸島の黒島・端島に寄って、8時39分に着いた。
登山口の柱島小中学校(2011年休校)から、山頂まで約1.1km。道はよく整備され、歩いた距離、山頂までの距離が掲示され、目安があり歩きやすい。
山頂には、太平洋戦争時の海軍の、見張り所の煉瓦の建物が残っている。
柱島は山口県岩国市にあり、広島県、愛媛県との県境にある。山頂から、南に山口県周防大島、東に愛媛県松山市の島々、北に広島県倉橋島を見渡した。
下山後、島一周農道を歩いた。海岸より一段高いところにある農道は、舗装され平坦で7km。農作物を運搬するために造られたそうだが、現在はあまり使われていないようだ。人口108人では已むを得ない。今はハイキングコースとして利用され、春と秋に地元の人が清掃しているそうだが、春はまだ先だ。落葉が集積し、落石や倒木もあった。
北に採石跡で直ぐわかる大黒神島、南に周防大島など周りの島々を確認しながら歩いた。
帰りの船の時刻まで集落内を散策した。
17時14分、岩国港に着いた。27,000歩、7時間30分の柱島だった。