実は昨年の初めに、このタイトルでブログを書くつもりでいました。
というのも、昨年始まった大河ドラマが「麒麟がくる」。
明智光秀が主人公ということで、地元に多少ゆかりのある人物ということもあり
(実家のすぐ近くにある公園には、光秀の盟友細川幽斎〈藤孝〉の古今伝授の松があります)
楽しみにしていたのです。
それに加えて、もうひとつの理由が・・・
はい、上の画像でおわかりのとおり『十二国記』です。
もう一昨年の秋になりますが、このシリーズの最終話となる『白銀の墟 玄の月』が出版され、
このシリーズが本屋さんに山積みにされておりました。
実は私、この作品に興味はあったものの、これまで全然手をつけていませんでした。
というのも、アニメで見たときに違和感を感じて、ちょっと拒否してしまったのですね。
それが、たまたま本屋さんで手に取ったそのときから、私の長~い旅が始まったわけです。
そう、私にとって去年は、コロナだけではなくまさに麒麟の年になってしまったというわけ。
どうして『十二国記』に麒麟が関係するのかというと・・・
『十二国記』というのは、私たちが住む世界と中国風の異世界を舞台に描かれた壮大なファンタジーです。
(私はこれまでレビューの中で何度か“壮大な”を使ってきましたが、その中でもこれは上位・笑)
この世界では十二の国が存在し、天意を受けた霊獣麒麟がそれぞれの国の王を見出します。
その王が善政をしけばその王の御代が何百年と続き(王は不老不死となる)、その国は繁栄し
人々は豊かになります。
しかし、その王が道を誤れば麒麟は病の床につき、命を失えばその王も死んでしまう・・・
それほど王と麒麟は深い関係で結ばれているのです。
麒麟が死ぬと新たに麒麟が生まれて、その麒麟がまた新たな王を選ぶ、ということになるのですが、
王が不在の間は国が乱れ、妖魔が飛び交い、人々は苦しい生活を強いられることになります。
この物語は、私たちの住む世界〈蓬莱〉から王として選ばれた女子高生陽子や、
〈蝕〉という現象によって〈蓬莱〉で生まれ育った麒麟泰麒の、壮絶な戦いとある意味
成長の物語が中心ではありますが、それだけの単純なお話ではないのですね。
このシリーズを読み進むにつれて、主人公たちの目を通してこの異世界というものが
読者である私たちにもわかってきます。
王というものについて、麒麟であることについて、国づくりについて・・・
そしてこの、私たちが住む世界と全く異なるシステム(仙籍に入ると何百年と生きることができたり、
子どもは里木から生まれたり、天があり妖魔が存在する等々)でありながら、人々は
同じように苦しみ、悩み、絶望する。
しかし、わずかな希望を支えに、何を信じ、いかに生きるのかを模索しているのです。
それは、王も、麒麟も、将軍も、市井の人々も等しく。
それが壮絶なドラマを生み、読者を引き込んでいくわけです。
このシリーズはエピソードゼロとなる『魔性の子』が1991年に発表されてから、
1~2年に一作のペースで出版されていたようですが、長編は『黄昏の岸 暁の天』で
長い間止まっていたようです。
私は一昨年から去年にかけて一気読みできたから、どっぷりこの世界に浸ることができましたが、
長年のファンにとっては何とも待ち遠しかったことでしょうね~
でも一昨年発表された『白銀の墟 玄の月』は、けっこう厳しいコメントが多く
私もしばらく読むのをためらっていました。
それでも、一度読みだしたらもう止まりません。
やたらと多い登場人物(しかも、似たような役回りが多い)に、行方不明になった王を探すため
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、そのわりに話はなかなか進まず・・・
途中で、この人誰だっけ?と思うこともしばしば。
それでも。
登場人物の多さも、なかなか進まない展開も、ある意味必要なことであったのだろうな、
と思います。
何度ももうだめだと絶望を感じながら、それでも様々な人々の思いがあり、それに支えられ、
多くの犠牲を伴いながらも最後の最後で事を成し遂げた李斎や泰麒。
長年続きを待ち続けたファン、特に泰麒のファンにこの最終章はつらいかもしれないけれど、
『魔性の子』から泰麒が背負い込んだ運命を考えると・・・、こういう展開であることに
納得したのでした。
というか、『十二国記』が出る前に、すでに『魔性の子』でこの世界観を思い描いていたのは
凄い!のひと言です。
「麒麟がくる」も、残すところあと一話。
いつも落ち着いた雰囲気の光秀が、最近エキセントリックな表情になってきましたね。
さて、どんな本能寺を迎えるのか日曜日が楽しみです
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます