新潮文庫版の113頁にこんなことが書いてある。 「結局、守禦術の極意は民心の統御なのである。民に不満を起こさせたり、疑惑を抱かせたりすることが敵より恐ろしい。そのためには信賞必罰を旨とし、決して不満を起こさせないようにする。つねに民の和合を計るように気を配る。民心の和合こそがいかなる守城設備よりも重要なものであった。これさえあれば土塁も堅城となり、城は不落の要塞と化す。」
これは戦術という技術の問題にとどまらず、様々な事に敷衍できるように思う。精神論だけに走って物量を軽視しては戦術以前に戦いというものが成立しないのだが、気持ちの問題が大きいことは確かだろう。それは組織においても個人においても同じことのように思う。ただ、組織となると価値観の異なる複数の人に対して同じ思考の方向性を与えるという無理難題がある。複数という場合、単に頭数で多数派を掌握すればよいということではなく、全体のツボとなるような個人や機能を押さえてこそ、組織を統御することができるものだ。
とはいえ、そのツボでさえ、全てを押さえるのは不可能に近いのではないだろうか。この小説の主人公は内なる敵によって倒されてしまう。それは、吃緊の重大事を目前にしてさえ、それを重大事とは認識しない者が権力中枢に存在していたからだ。大事を成すのに思い込みは必要だ。それによって道筋を想定することができ、道筋を想定することで具体的な対応策を練ることができるからだ。しかし、自分と似たような立場にあるものが皆同じように当座の目的を共有しているという思い込みは危険だ。人の心を無視して物事は進まないのだが、形の無いものをどうこうすることで成り立つものというのは、本来的に不安定だ。