熊本熊的日常

日常生活についての雑記

相手の了見を想う

2013年05月12日 | Weblog

今更だが、落語は同じ演目が演者によって全く違ったものになる。内容は同じでサゲまで承知しているのに、いつ聴いても感心してしまう演者もいれば、将来に期待を残す人もいる。そういう違いが何故生じるのか、今日の小三治のマクラのなかで、登場人物の「了見」をどこまで掘り下げて理解した上で演じるかの違いだというようなことが語られていた。

「ご隠居、こんちは」 「おぉ、だれかと思えば八っつあんかい」 ただこれだけの会話にどれほどの演じ分けができるか。ご隠居と八っつあんとの関係、互いの相手に対する感情、この場の前後の文脈、など会話の背後に考慮すべき無数の要素がある。それをどのように想定するかによって、同じ筋立てが全く違った印象を与えるものになる。その考慮すべき要素をどれほど自分のなかに用意できるかというのは、結局、演者の日常生活のなかで蓄積していくよりほかにどうしようもないのである。大袈裟な言い方をすれば、演者の人生が噺の登場人物の一言に凝縮されているのである。

観客のほうも、噺家が語る物語にどれほどの深さを感じることができるのかは、各自の人生経験と感性や知性によって様々である。古典落語となると噺に登場する名詞がわからないというようなこともままあるのだが、それをどこまで前後から想像できるか、細部にこだわるあまり全体の噺の流れについていけなくなるのか、というようなことも面白いと思うか思わないかを分ける要素となる。演者同様に観客のほうにも、登場人物の言葉に響く自分自身の人生経験がどれほどあるのか、といったことも当然に問われる。芸事というのは本来的に一方通行ではない。演者と観客との相互作用があってこそ、芸が芸として成り立つ。

今日の小三治のマクラは、自身の経験や姿勢について語っているようでありながら、聴いているほうも考えさせられるところが多分にあり、これを聴いただけでも来た甲斐があったと思った。

本日の演目
柳家小はぜ 道灌
柳亭燕路  笠碁
(仲入り)
柳貴家小雪 太神楽
柳家小三治 厩火事

開演:13時30分 終演:15時55分
会場:北とぴあ さくらホール