今日は東京駅開業100周年記念suicaが発売されたそうだ。ところが、これを買い求める人が大勢押し寄せて危険な状況になったので、販売開始後2時間半ほどで急遽販売を中止したという。ネットのニュースによると現場では罵声怒声が飛び交い、購入できなかった人が駅員に詰め寄るなどしたらしい。毎日ぼんやり暮らしている私の眼には、一体どこの国の出来事だろうと素朴に不思議に見えた。たかが記念切符を買う程度のことでニュースになるほどの大騒ぎである。画像を見ると購入者の群れには一見してかなり高齢の人も少なくない。一体どのような人生を歩んできたのかと思う。まさか冥途の土産にするつもりではないだろうが、齢を重ねてなおも下らない混乱劇の当事者になることを恥ずかしいと思う感性も知性も無いのだろうか。
尤も、自分も高齢者の仲間入りをしてみて思うのは、物事を判断する知恵や見識というのはよほど意識的に努力しない限り身につかないということだ。世の中は日々科学技術が進歩を続け、総じて過去に比べて物事は迅速に動くようになっている。よく言われることだが、交通や通信はかつてに比べて迅速かつ大量に物事を移動させることができるようになった。身の回りのことは自動化が進展し物事を迅速に処理できるようになった。その結果手にした時間でさらなる思考の深化や進化が展開している、という側面もあるだろう。たぶん、そうやって実のある時間を使っている人は少数派で圧倒的大多数は目先のささやかな快楽にうつつを抜かしているだけだろう。記念切符くらいで大騒ぎになるほど人が集まるのはその何よりの証左だ。
東京駅は100周年を機に開業当時の姿に再生された。建物は再生ということができるが、どんなにがんばっても人間を再生することはできない。人の運命は生きてみないとわからないのだが、生まれた瞬間から決まっていることは少なくともひとつある。それは、いつか必ず死ぬということだ。人は生まれることを選択できない。気が付いたときには生きているのである。しかし、死はある程度コントロールできる。その気になれば自ら積極的に死を選択することもできる。己の死を前にしたとき、人は何を思うものなのだろうか。東京駅の記念suicaをネットオークションで売って儲けたなぁ、とか、朝から並んだのに変えなくてムカムカした、とか、諸々しょうもないことを抱えて旅立つ人生というのは、どれほど他に立派な経歴があったとしても傍目には哀しいものにしか見えない。