なんとなく小言のようなことを書いていることが多くなったような気がして、ブログを書くことに嫌気がさしてきた。例えば、通勤の電車がよく遅れるだのということは、文句を言ってどうこうなるものではない。合理化に次ぐ合理化で必要最小限の人員と費用で毎日の運行を継続しているのだから、何かしら不測の事態が発生すれば運行に支障が出るのは当然であり、利用者はそれを承知の上で利用しているはずである。遅延の根本原因を理解していなくとも、通勤や通学といった毎日の経験から遅延が起こりうることを承知するのが学習能力のある生物として当然のことである。そういう些細な不都合が我慢ならないというのなら、マイバッハとかロールスロイスとかを運転手付きで入手して、道行きには警察が前後に警護するような身分になればよいのである。それができないなら、市井の日常について回る多少の不都合や不愉快は我慢するより他にどうしようもない。不都合や不愉快を自力で解決する能力がないままに文句だけは一人前というのは醜悪この上ない、と思うようになった。
今日は妻の実家に帰省した。雪国の正月というのは不自由だらけだ。それでもそこで暮らす人々はそれを当然のことと受け容れて日々暮らしている。知恵と工夫で不自由をものともせずに淡々と生きるというのは、かっこが良いことだと思う。文句を並べる暇があったら、問題解決のための知恵を絞る。知恵がなければ我慢する。単純なことである。そういう「単純」を積み重ねて自分の生活を構築していきたいと思う。