熊本熊的日常

日常生活についての雑記

誰もがわかること

2015年01月10日 | Weblog

落語というものがどの程度人気のある芸能なのか知らないが、落語会の切符を取るのに抽選になることがある。あまりそういう抽選に外れたことはないが、特定の噺家に限って滅多に当たらない。今回は何年ぶりかで当選した落語会に出かけてきた。

抽選になるほどの人気だからといって、その落語会が面白いとは限らない。技量に優れているから人気が出る、というほど世の中が単純なら生活というものはかなり安楽なものであるはずだ。もちろん、箸にも棒にもかからないようでは人気を維持することはできないはず、だろうから切符が手に入りにくいというのはそれ相応の中身があるということなのだろう。

この落語会では新作を初演することになっている。口演する側にしてみれば、客に理解できるようにと、あれこれ気を配って練りに練って噺をしているのであろう。その気持ちというか気迫のようなものは痛いほどに伝わってくるのである。しかし、その縦横に張り巡らされたかのような伏線がなんとなく野暮ったく感じられてしまって、気持ち良く噺を聴くことができなかった。これは噺家だけの問題ではなく、我々観客の側の問題でもある。リテラシーの有無というようなことを言おうというのではない。今という時代に不特定多数を相手に何事かを語ろうとすればト書きが多くなるのは止むを得ない気がする。

つまり、趣味娯楽が限られていた時代には多くの人が同じような遊びに興じていたはずだ。娯楽の多様化によって人々の選択肢が増えれば、共有できる体験や経験は少なくなるのが道理というものだ。その昔、特定のテレビ番組が今では考えられないような視聴率を記録していた。1963年の紅白の81.4%はさすがに特別としても、50%を超えた番組は珍しくない。さらに時代を遡れば芝居や講談といったライブが人気を博していたはずだ。講釈小屋は町内に1軒はあったというし、芝居小屋は日本の津々浦々にあったそうだ。老若男女誰もが知っている芝居や講談、そういうものに登場する和歌や物語、歴史上の事件や人物の逸話、といったものがいくらもあったという。今は誰もが通り一遍のことは知っている。義務教育とネットのおかげだ。その割に端から仕舞まで誰もが知っている物語というのは思い浮かばないし、百人一首すら知らないのが当たり前になっている。囲碁将棋には時々スタープレイヤーが現れるが、それでも往時に比べれば愛好家の相対的な人口は減少しているだろう。特定の娯楽や教養が社会で共有されていた時代というのはあったのだろうが、世の中が便利になって誰でもなんでもできるような時代になると、個人の興味が拡散して広く共有できる対象が却ってなくなってしまったということなのではないだろうか。なんでもすぐに検索できて、わかったような気になる時代というのは、なんにも知らないことばかりの時代でもある。

そうなると、噺をするにはその基礎となる知識をそれとなくマクラや導入部に散りばめ、伏線を張りまくった構成にせざるを得なくなる。結果として、喧しいだけのテレビドラマのような噺に落ち着くのである。またそういう噺がウケるのである。なんだか馬鹿にされているようで素直に笑えない、と思って聴いていた人も少なからずいたのではないだろうか。そんなふうにして伝統芸は消えていくのであろう。

本日の演目

立川志の輔「スマチュウ」
立川志の輔「三方一両損」
立川志の輔「先用後利」

(志の輔らくご in PARCO 2015 パルコ劇場)