熊本熊的日常

日常生活についての雑記

盆前盆後

2016年08月13日 | Weblog

今の妻と一緒になってから盆というものを意識するようになった。毎年今時分に妻の実家に帰省する。帰省して特に何をするというわけではないのだが、不意に親類縁者が訪ねてきたり、こちらから出かけていったりする。そのときの挨拶が

「盆前はお世話になりました。盆後もよろしくお願いいたします。」

というものだ。また、そのときに中元を持参する。それが当然のように互いにやったりとったりするのである。なんだかいいなぁと思った。盆とか正月にはそれぞれの土地の習俗があるのだろうが、こんなふうに親戚を訪ね合うというのは今の妻と結婚するまでは経験したことがなかった。

今日は妻の実家の父方の墓と母方の墓にお参りをした。どちらの墓地も墓参りの人たちで混み合っている。巣鴨で暮らしていた頃、整体に出かけるのに染井霊園を突っ切って往復していたし、茶道の稽古には谷中霊園を突っ切って日暮里駅と稽古場を往復していたが、こんなに墓地が混雑している風景を見たことがなかった。

それでも、日本の多くの寺が檀家の減少に悩み、増え続ける無縁墓地をどうするかに頭を痛めているという現実がある。盆の時期の寺が参詣客で込み合い、駐車場に順番待の車列ができるのが真っ当な姿なのである。墓地というのは先祖が眠る場所であり、そこに詣でることは意識するとしないとにかかわらず自己証明でもある。自分が何者であるかという認識が行動に節度と忍耐とを与え、その集積によって社会の安定が支えられる。所謂「シャッター商店街」に象徴される地方社会の崩壊が意味するところは、そうした安定の支えが失われているということでもあるのだろう。

少なくとも今のところは妻の実家がある地域社会はそこそこの安定が保たれているということなのだろうが、盆の時期に寺が混み合うという状況がいつまで続くものなのか心もとない状況にあるのも事実なのである。東京で暮らしていると中元とか歳暮というのは百貨店に頼んで配送してもらうのが当然と思いがちだが、本来は持参して相手に面と向かって挨拶するべきものだ。「本来」が次善の代替策に取って代わられ、代替策であったものが主流になり、いつしか本来の意義が失われる。贈答品の生産者に加えて巨大商業資本や運輸業者が関与したほうが経済効果としては大きく、また「豊か」なことかもしれない。しかし、人と人との関係を構築し維持する本来の趣旨が失われ、本来の行為が形骸化するというのは自分というものの有り様としては貧困化と言えるのではないだろうか。