以前なら休日に遠出するときは普段よりも早起きをして出かけていたのだが、今は普段が早起きなので休日の遠出はなんとなく余裕がある。しかし、その余裕が実は幻想だったりもする。東京駅までは1時間を見れば十分だと思っていた。確かに1時間弱で東京駅には着くのだが、それでは弁当を買ったりトイレに行ったりしているほどの余裕はない。緊張感が足りなかった。
今年も奈良に出かける。この時期に奈良に出かけるのは今年で3年目だ。奈良は楽しい。東京から奈良に至る経路はもちろん一様ではない。一昨年は京都からJR奈良線で、昨年は伊勢神宮に寄ったので名古屋で近鉄に乗り換えて伊勢を経て、今年は京都から近鉄の急行に乗った。毎回この時期に出かけるのは興福寺で塔影能を観るためである。能を鑑賞する趣味はないのだが、たまたまそういうことになっている。だから能以外には何の予定も入れずに、宿だけ予約して出かけるのである。さすがに昨年の伊勢神宮は出かける前からお参りするつもりだったし、奈良の後に京都に出かけたのも、事前に桂離宮や修学院離宮の見学を申し込んだ上でのことだった。今年は職場を変わったばかりで、いきなり長期の休暇は言い出しにくいので、土日休日の範囲内での旅行だ。
年一回3年程度では行ってみたいと思うところを回りきることなどできない。その時々の思いつきに任せて訪れる先を決めるのである。今日はなんとなく秋篠寺に行こうということになった。京都から乗った電車が橿原神宮前行きだったので、大和西大寺で下車しないといけない。大和西大寺では到着したホームに奈良行きの電車も停車していたが、それには乗らずに改札から出て荷物をコインロッカーに預ける。秋篠寺までタクシーに乗ってしまおうと思ったが、コインロッカーがあるほうの出口のタクシー乗り場にはタクシーがいなかったので線路を渡って反対側の出口に行く。タクシーはたくさん停っていたが、押熊行きのバスも停車していた。バスに乗る。車に乗ると西大寺から秋篠寺まではすぐである。
秋篠寺に参るのは初めてだ。雨上がりという所為もあるのだろうが、境内に広がる苔に覆われた林は別世界のようだ。その苔の林を抜けたところに小さな門があり、そこで拝観料を納めて本堂を拝む。そう思って観る所為もあるのだろうが、品のある建物だ。
奈良というと「古都」であり、都であった時代には「平城京」という碁盤の目のように区画整備が成された都市が営まれていた、と社会科や歴史の時間に習った気がする。大化の改新を機に日本に国家体制が確立し、初めて首都というものが造営されたのが7世紀の終わり頃のことだそうだ。そのときの首都が藤原京で、現在の飛鳥地方に造営された。一昨年は近鉄の飛鳥駅前で自転車を借りて、飛鳥寺とか石舞台古墳とか、そのあたりを一回りしてきたのだが、それらは藤原京よりも前の時代に作られたもので位置も都の中心からは外れており、あまり関係ないようだ。今、これを書いていて、ふと飛鳥寺あたりのことを思い出しただけのことである。それで、藤原京が首都とされたのが694年から710年にかけてのことで、そこから平城京へ遷都する。平城京が首都であったのが、710年から740年と745年から784年だ。短い。尤も、首都機能が他所へ移ったからといって、そこで暮らしていた人たちが丸ごといなくなってしまうわけではないだろうから、遷都が頻繁であることをあまり心配する必要はないのかもしれないが、それにしても平城京というのは大きい。そんなに大きな都市を作ってどうするのか、と思ってしまうほど大きい。自動車も鉄道も無い時代、移動や距離の感覚は人の身体感覚に拠るはずだ。重機が無い時代の土木や建築にしたって人が材料を持ち運んだり加工したりする身体感覚に拠る発想をもとに行われるはずだ。そう考えると、昔の人の発想というのは今の時代に比べて段違いに大きいと言えないか。都市を計画したり建築物を設計したりする人たちは自分でどうこうするわけではないから、好き勝手に発想できたということだろうか。それを作る現場の人たちには難儀なことだろうが、他人の難儀を気にしていたら平城京だの平安京だの、そのなかに今でも残る神社仏閣だのを造ろうなどとは思わないだろう。人は経験を超えて発想はできないはずだ。当時すでに大陸との交流があり、文明が栄えて人知を超えているかのような巨大建造物がゴロゴロしていた中国の都を目の当たりにした人たちが日本の都市計画の中核を担っていたのは確かだろう。それにしても、自分ではできないことを他人にやらせる神経というのはどのような発想に由来するのだろうか。
奈良の都は朱雀大路を挟んで西が右京、東が左京となっていてほぼ左右対称だが、多少のでこぼこがあり、さらに左京の外側に外京という小ぶりな区画があり、その外側に東大寺がある。しかし、西大寺は右京のなかにある。何を基に都市計画が立案されたのか知らないが、風水的な要素は組み込まれているはずなので地理地形的な要素はしっかりと考慮されているだろうが、強引なところもあるような気もする。秋篠寺は西大寺の北側に隣接している。東大寺のほうは、都の中心から見て少し手前に興福寺が隣接しているが、これは外京に位置し、興福寺の南に元興寺がある。外京はいわば興福寺と元興寺のためにあるような区画で、東大寺・興福寺・元興寺をひとまとめにしたような重さが都市図の右上に据わる。これにバランスするのが、秋篠寺・西大寺から川沿いに連なる唐招提寺・薬師寺という縦長のゾーンであるように見える。シンメトリーを少し崩すところに日本的なテイストを感じるのだが、それはテイストなのか別の事情なのか私は知らない。
秋篠寺は776年、光仁天皇の勅願により造営され、完成は平安遷都の頃と拝観時にいただいた略記にある。本堂とされている建物は創建当初の講堂で、1135年に兵火に罹災した後、鎌倉時代に焼残った講堂を本堂として大修理を受けたという。現存する本堂は実質的には鎌倉時代の建築ということになるが、雰囲気としては奈良時代の建築物だ。何が奈良時代を感じさせるかというと、屋根の勾配だ。仏教は大陸から伝来したもので、当然に関連施設の様式も大陸から伝来している。しかし、建物というのはそれぞれの土地の風土に適応するように設計されている。風土抜きで建物だけ他所にそっくり移すと、何かと不都合が生じる。大陸と日本の風土の違いはたくさんあるだろうが、建物に関する大きな要素は降水量や湿度だろう。何かで聞いた話なので出典を明記することはできないが、大陸由来の建物は屋根の勾配が緩く軒が浅く雨の吹き込みや水はけの悪さといった難点があったそうだ。それでも、鎌倉時代に大修理を施された旧講堂の本堂は、創建当時の様子をかなり忠実に受け継いでいる気がする。
堂内の須弥壇には本尊である薬師如来を中心に十二神将や伎芸天が並ぶ。京都の大寺だと拝観する者を圧倒するが如くに多くの仏像がこれでもかと居並ぶところもあるが、ものには程度というものがあると思う。闇雲に、「どうだ、どうだ」という姿勢を示すのは、マーケティング手法としてはそこそこに効果はあるかもしれないが、どこか胡散臭いものを感じてしまう。先ほど、「品のある建物」と書いたが、この寺は堂内の様子も上品だと思う。ところで、ここの伎芸天は芸能関係の人々の信仰を集めているらしい。そう思って拝む所為かもしれないが、華のある仏様だ。
秋篠寺から西大寺まで歩く。昼時でもあり、途中の飲食店に入ろうかとも思ったのだが、これはと思うような店がなく、西大寺の前に至る。東門門前にガトー・ド・ボワという立派な構えの洋菓子店があり、昨年も気になり今日も気になったのだが、今ここでケーキをいただくと昼食が食べられなくなり、食事のサイクルとして中途半端なことになるということで今回もご縁がなかった。とはいえ、是非一度はここのケーキをいただいてみたい。
西大寺は昨年も参詣し、今年5月には三井記念美術館で開催された「奈良西大寺展」を拝見し、同展関連イベントの大茶盛式体験にも参加させていただいた。ただそれだけのことなのだが、そんなことでもありがたいご縁のように感じられる。東大寺と比べると、寺の名前の一文字の違いをはるかに超越した賑わいの差があるのだが、どちらも参詣に価する立派な寺だ。西大寺で好きな仏様はなんといっても愛染堂におられる興正菩薩叡尊坐像である。座敷で気軽に迎えられているような親しみを感じる。
結局、昼食は奈良の街中でいただくことにした。昨年、塔影能の後に夕食をいただいたベトナム料理屋があり、今日はそこで昼食にする。腹が膨れて落ち着いたところで、ボチボチと宿に向かう。とりあえずチェックインを済ませて、荷物を部屋に置いてから興福寺にお参りする。5時半から塔影能だが、その前に境内を散策したり仮講堂の仏様を拝んだりする。
中金堂の落成まであと1年だ。土曜日は建築作業は休みではなく、足場に囲われた中だけでなく屋根の上にも作業員の姿が見える。自分にはあまり関係がないのだが、なぜかわくわくする。興福寺では中金堂の再建工事以外にも国宝館の耐震補強工事や北円堂の回廊整備など複数の工事が進行中である。国宝館が工事のために閉館しているので、そこに収められていた仏様が別の場所に移されたり、出稼ぎに出ていたりする。仮講堂には阿修羅像をはじめとする八部衆像、十大弟子像、金剛力士像、梵天・帝釈天像、阿弥陀如来像といった仏像が並んでいる。阿弥陀如来の前には華原磬という金鼓が据えてある。興福寺といえば阿修羅といった観がなきにしもあらずだが、やはりここの八部衆と十大弟子は独特の華があるような気がする。
塔影能は東金堂前に設営された舞台で奉納される。座席は指定されているので急ぐことはないのだが、開式直前になると東金堂への立ち入りができなくなってしまうので、時間に余裕を持って会場に入る。東金堂の仏様も立派なものばかり。興福寺は格が違う。とはいえ、日本の寺院は単なる宗教施設ではなく、殊に時代の古いものは政治と密接に関係した権力装置でもある。当然に権力闘争のなかで破壊の対象になることも少なくなかったわけで、それぞれの寺院の創建当時からの仏様が残っているのはそれほど多くはない。興福寺東金堂もご本尊は薬師三尊像だが、薬師如来は室町時代、両脇侍の日光菩薩と月光菩薩は奈良時代の作で、創建当時のユニットではない。当然に彫刻の道具類も製作者の技量も時代とともに変遷するので、特にお顔の様子にそれぞれの時代の個性が現れるように思う。
塔影能の後、鶴福院町の小料理屋で食事をして宿に戻る。夫婦と思しき若い二人が切り盛りしている小さな店で、おまかせのコースをいただいた。真面目な仕事ぶりで、いただいていて幸せな気分になった。毎年、奈良のいろいろなお店で食事をいただいているが、食事を終えて店を出るときに単に腹が膨れるだけでなく気持ちも充実する。そういうところも奈良を気に入っている理由のひとつだ。