熊本熊的日常

日常生活についての雑記

今年の奈良から

2017年10月09日 | Weblog

今日は奈良から帰る。朝、荷物をまとめて宿から自宅宛に宅配便に乗せる。身軽になったところで宿周辺を散策して、午後3時ちょうどに出る京都行きの近鉄特急に乗り、京都から新幹線で東京に戻る。

先月、新しい職場に移籍してからはこれまでとは違って午前4時半に起床して5時40分には家を出る生活になった。あまりそういうことを気にして遊びたくはないのだが、体力があるわけでもなく無理はできないので午後3時頃には奈良を出て家路につくことにしていた。そうなると、移動に時間を費やさずに奈良市街で過ごすことを考える。まずは宿から近い元興寺を訪れる。

元興寺は昨年も一昨年も訪れた。現在の「ならまち」と呼ばれる地域がかつての元興寺の境内で、興福寺と同規模の寺院だった。そもそもこの寺は法興寺という名で、現在の地ではなく飛鳥に建立された。平城京遷都で法興寺は現在の場所に移り元興寺と名を改めた。飛鳥の元の寺は飛鳥寺として継承されて今日に至る。現在の元興寺はかつての東室南階大房という僧坊の一角だ。屋根の一部にその当時の瓦が残されている。その区画の瓦はまだら模様だ。同じ色に焼こうにも当時の技術では焼けなかったのかもしれないし、意図してそうなったのかもしれない。しかし、計算された模様には見えない。再現しようにもできないランダムなまだらだ。こういうのが良い。秩序があるようなないような、意図があるようなないような、どのようにも捉えることのできそうな様子が視界に四次元のような超次元のような深さ奥行きを与えるように思えるのである。

元興寺から興福寺の境内を突っ切っって国立博物館へ。企画展の端境期で常設のみの営業だが、ここの常設は仏像館。初めて訪れたが、ここに並んでいるのは艱難辛苦を乗り越えてようやく落ち着いたといった風情の仏様ばかりだ。なかには由来が不明の仏様もけっこうある。国宝や重文になるような仏様は寺のほうに任せて国立博物館はそういうところから漏れてしまうけれど放ってはおけない仏様をしっかりと守っていく、という考えに基づいてこういうことになっているのだとすれば、至極真っ当なことだと思う。仏様を創り拝んだのも人間なら、粗末に扱ったのも人間だ。傷だらけの仏様は、人の心の美しさも醜さもすべてをひっくるめて体現している。そういう仏様を目の前にすると、手を合わせるというよりも抱きしめたくなってしまう。

国立博物館から東大寺戒壇院へ向かう裏道に飲食店がいくつかあったのを記憶していて、そういう場所で昼をいただこうということになった。県庁東交差点の地下道を通って細い道に入り、しばらく行ったところに「お茶処」という看板が出ている民家風の建物が目に入り、そこを覗いてみたら席が空いているようだったので中に入る。メニューの選択肢は少なく、野菜雑炊をいただくことにする。家族でやっている食堂というような風情で、正直なところ期待はしていなかった。ところが、こういう店でもハズレがないので驚くのである。家庭料理のような雑炊なのだが、しっかりと出汁が引いてあり、あたりまえにきちんと作られている。一昨日の昼からこちらでいろいろなお店で食事をいただいているが、どこもそれぞれにあたりまえの仕事をしているように感じられる。もちろん商売なのだから、そこに原価計算もあれば利益の捻出という発想も当然にあるだろうが、狡さがないように思う。こういうものを作ろう、ああいうものを出そう、というプラスを積み上げる発想の仕事で、ここを削ろうとかあそこで抜こうというマイナスの余地を探るしみったれたところがないように感じられるのである。生活というものはそうありたい。どれほど儲けがあるとしても、しみったれは貧しい。貧しい発想の生活はおもしろくない。

東大寺は戒壇院と転害門だけ拝見する。戒壇院の四天王は仏像界のアイドル4人組といったところ。俗界ではなく仏像界なので「アイドル」といっても誰が騒ぐでもない。所謂イケメンで果てしなく凛々しい。昨年も一昨年も私たちのほかに見学者がいなかったのだが、今日は履物を脱ぐ場所が靴で埋まっていた。といっても、私たちを含めて5組10人程度でしかない。大仏殿のほうはかなりの人出だが、同じ境内にあるとは思えないほど穏やかな時間が流れている場所だ。ここの四天王は手を合わせるでもなく抱きしめるでもなく、少し離れたところからじっと見つめる仏様。

戒壇院も人が少ないが、転害門はもっと少ない。門のほかに人寄せ場所になるようなものがない所為もあるのだろう。それでも門の周りをうろうろしているとどこからともなくボランティアガイドが現れて説明をしてくれる。よく見ると、門の前、通りに面したところに観光案内所がある。この案内所の建物は昭和15年に建てられた南都銀行手貝支店だったそうだ。昭和47年に支店が移転した後、病院の看護師寮や店舗として利用され、平成14年に奈良市土地開発公社が購入、耐震改修等を施した後、現在の姿になったそうだ。そういうことの書いてあるチラシをそのボランティアの方からいただいた。

転害門の前にバス停があり、そこからバスで駅のほうへ行こうかとも思ったが、道路が渋滞していることもあり、歩いてもたいした距離でもないので住宅地の路地へ入りぶらぶらと歩く。住宅地には違いないのだが、そこに商店や鉄工場といった商工業を営む家が点在している。古い街ではそれが当たり前だろう。自分が子供の頃に暮らしていた土地では、基本が農地あるいは元農地で、住宅地があって、そのなかに商店があり、鉄工場や金属製の部品類の加工をしている家や小さな印刷所などが点在していた。それと同じなのだが、今でもそういう風景があることが新鮮なことのように感じられる。

近鉄奈良駅から15時ちょうど発の京都行きの特急があった。京都への車中で、スマホを使って新幹線の予約を試みるが連絡の良い列車は満席で、京都駅で1時間近くも待ち合わせの時間ができてしまった。夕飯は新幹線のなかで弁当を食べることにして、駅ビルの伊勢丹の地下にある弁当売り場を覗いてみる。車中でいただくにはいまひとつといったものばかりで決めかねているところで、ベーカリーが目に入る。サンドイッチにしようということになり、そこでミックスサンドとバゲットサンドを買って勘定を済ませると、新幹線の時間にちょうどよい塩梅になった。時間はかなり余裕があるのだが、とにかく構内が混雑していて、そういう人混みのなかを歩く分にはちょうどよい塩梅ということだ。新幹線の改札を抜け、駅弁売り場が目に入ったのでチラリと覗くと明石名物のタコ飯があった。こっちのほうがよかったかなと若干後悔する。

京都からは新幹線もその後の在来線も定刻通りの運行で、自宅に着いたのは午後8時少し前だった。