国立民族学博物館友の会の体験セミナーに参加する。今回のお題は藍染め。お邪魔したのは滋賀県野洲にある紺九という紺屋工房。この工房は宮内庁や文化庁の仕事を請け負っている。どのような仕事なのかということを個別具体的に開示すると発注側から御叱りが下るそうだ。文化財の保護修復という仕事の現場をどのような人々が担っているかというのは興味のあるところだが、自分が具体的に知っているのはここと木工芸の大坂弘道さんだけだ。ここもそうと知らなければ通り過ぎてしまうような規模の工房だし、大坂さんは練馬のマンションの一室で仕事をしているらしい。「文化財」という言葉の響きとは対照的に地味なスケール感だ。しかし、考えてみれば、どれほど規模の大きなものであろうと、ひとつひとつの作業は人間の手仕事である。「文化」とはそういうものだと思う。
なぜ大事なことは手仕事でないといけないのか。「大事」の表現は一回こっきりということなのである。今この瞬間の自分が持てるものの全てを尽くしてあなただけに捧げます、というのが「大事」なのだと思うのである。そこに規模が関係することもないわけではないだろうが、自分の手をかけること、それが全てであると思うのである。つまり、それは「文化財」という大袈裟なものに限ったことではなく、我々の日常にある多くのことにあてはめられるのではないだろうか。
価値というものの表現として、当然のように貨幣価値による表示がなされる。物事を数字という明瞭な記号に集約して遣り取りをしたり比較をしたりするのは便利なことであるには違いない。しかし、神羅万象あらゆるものの値打ちが貨幣価値で表現できてしまうというのは幻想だと思う。「金で買えないものはない」という。それは「金で買えない」ものを知らないというだけのことだろう。金というものを否定するつもりは全くない。ただ、それがどういう謂われでどう評価された結果なのかということへの思いが至らないままに、表面の数字の多寡だけを眺めているというのは、なんだか滑稽な気がする。多いか少ないか、在るか無いか、それがなんだというのだろう。
自分の身の丈というものがあって、それが及ぶ範囲というものへの認識があって、どういうものに目が届き、その先を推し量るのにどういう経験や知見を用いることができるかを考えることができ、自分にとっての「世界」をしっかりと空想できる状態で生きることが安心であるように思う。自分が実際に身体を動かし自分以外の人と関係し、作用反作用を体感することの蓄積から得られる知見体験の総体だと思うのである。「手仕事」というのは、そういう自分の「世界」を築く取っ掛かりだと思う。「仕事」というと賃金を得るものと思われてしまうが、賃金は得るものの一部で、作用反作用の体験の総体が「仕事」というものだ。つまり、日常を実感を伴って生きることが人間にとっての仕事だと思うのである。だから、ちゃんと仕事ができていれば生きるのに困らないのである。