佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫
『万葉集』に続く勅撰和歌集が『古今和歌集』。この間、約130年。平安期はもっぱら漢詩が詠まれたのだそうだ。『古今集』には仮名序と真名序がある。内容はほぼ同じだが全く同じというわけではない。なぜほぼ同内容のものが仮名と漢文で記載されているのか。ほぼ同内容だが全く同内容でないのは何故か。研究者の間では当然なのかもしれないが、私は全く知らない。
その序にこうある。
和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、行きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。
夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。
人之在世、不能無為、思慮易遷、哀楽相変。感生於志、詠形於言。
是以逸者其声楽、怨者其吟悲。可以述懐、可以発憤。
動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌。
そうかな、と思うのである。歌を詠む人は、たぶんこれを読んで同意する。私は歌人のような感性は持ち合わせていないので、歌を詠んで日々送っている人のことを聞くと、その人の暮らしを支えている人々のほうに関心が向いてしまう。歌を詠んで毎日を送っている人も当然に腹は減るだろうし、所謂生活必需品を所有したり消費したりしていたはずだ。そういうものを供給していた人々の暮らしはどうだったのだろう、と、そっちのほうが気になってしまう。生活の心配や不安などなしにラブレターのような歌を詠みかわしてキャッキャしたり思い悩んだり、馬鹿じゃないかと思うのである。そんな奴等が何百年も生きながらえて「我が家は先祖代々歌詠みで」などと目の前で言われたら、即刻射殺する。
『万葉集』には山上憶良の貧窮問答歌が収載されている。本人の暮らしを詠んだものではないだろうが、役人として庶民の暮らし向きに関心を払うのが健康な国家だと思うのである。それが『古今』にはない。奈良時代と平安時代との大きな違いがそこにあるような気がする。
時代の流れとして、「社会」の名の下に人が階層分けをされ、その差異が大きくなる。しかし、身分が固定化されるのではなく、上下の動きは担保されるようにして、成り上がったり没落したりする余地は残す。そうすることで社会が有機体のように動くようなメカニズムを持つ。そういうガス抜き機構のようなものを設けることで、社会が生命を得る、というようなことだろうか。おそらく、歌は特権階級のアイコンだったのではなかろうか。
佐々木信綱校訂『新訂 新古今和歌集』岩波文庫
早見融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店
本書の「あとがき」の日付は2005年12月。初版の発行が2006年2月28日。速水先生は昨年亡くなられたので、当然、今回のコロナ騒動は本書には反映されていない。しかし、まるで昨日今日発売されたとしてもおかしくない内容だ。今、この時期に読む所為もあるだろうが、終章の最後の段落が印象的だ。
「結論的にいえば、日本はスペイン・インフルエンザの災禍からはほとんど何も学ばず、あたら四十五万人の生命を無駄にした。「天災」のように将来やって来る新型インフルエンザや疫病の大流行に際しては、医学上はもちろん、嵐のもとでの市民生活の維持に、何が最も不可欠かを見定めることが何より必要である。つまり、まずスペイン・インフルエンザから何も学んでこなかったこと自体を教訓とし、過去の被害の実際を知り、人々がその時の「新型インフルエンザ・ウイルス」にどう対したかを知ることから始めなければならない。なぜなら、人類とウイルス、特にインフルエンザ・ウイルスとの戦いは両者が存在する限り永久に繰り返されるからである。」(436頁)
それにしても100年前の「新型」インフルエンザ騒動と今のそれとが、少なくとも本書を読む限りは、たいして変わらない。医学もそのほかのこともこの100年でずいぶん変化したと思うのだが、そう見えるだけで、実は基本のところは変わっていないのかもしれない。人間というものが100年程度の時間では変わらないのだから、知識であるとか技術であるとか、上辺のことが多少変化したしたいのところで、どうというほどのことではないのかもしれない。
結局のところ、人は上辺のことで大騒ぎをしたり右往左往することに生き甲斐を見出しているのだろう。ウイルスを敵に見立てて「戦う」ことに興奮したいのだろう。人はそういう生き物なのである。
ところで、ウイルスというのは人間にとって本当に排除しなければならない存在なのだろうか。