宮本常一『日本文化の形成』講談社学術文庫
宮本常一『生きていく民俗』河出文庫
本書が発行されたのは1965年2月。「日本の民俗」シリーズのひとつとしてだ。書かれたのはそれ以前のことだが、現象として古びていても背景にある動機のようなものは今とそれほど違わない気がする。もちろん書いたものは書いた人の眼を通して観察され考察され記述されているのでその内容にバイアスがあるのは当然だ。それでも、本書のような見聞の集積はモノを考えるときの貴重な材料になる。文庫版の初版は2012年。こういう本がこうして手軽に手にできるのは、まだ世の中が捨てたものではないということでもある。
それまで自分がいかに何も考えていなかったがよくわかった。根本的な問いは人はいかにして生きるかということだ。それはハウツーではない。物事の根本は案外単純なことが多いものだが、教科書的に単純化するべきではない。農業は「一粒万倍」と言われ何事もなければ効率のよい生産活動だ。しかし、このところの天災にみられるように、「何事もない」年というものはそれほど多くはないし、そもそも「何事」とは自分のほうの都合にとってのことでしかない。温暖化でどうこうだの、環境破壊がどうこうだのと、わかったようなことを言う人が多いのだが、地球が誕生して46億年、人間の歴史など高々数千年でしかないのに、「異常」と「正常」をきっちり分けるほどの定常的な状態の継続というものがあるのだろうか。昨日と似たような今日があるからといって、明日も同じようになると思うのは思う側の都合でしかない。結局、人の営みの歴史はそうした不確実性との付き合いの試行錯誤の歴史だと思う。その経緯のなかで、たまたま今があるというだけのことだ。おそらく類として人間はそういう不確実性を嫌というほど承知している。だからこそ安定的な状況を仮想現実として想定し、「あるべき姿」を追い求めて安心するのである。
宮本常一『海に生きる人びと』河出文庫
人ひとりの生活が一所で完結するものだという思い込みが、生活というものをどれほど窮屈にするかを思い知る。確かに、農業となれば田畑を耕して収穫するまで時間がかかるし、その間に日々の手入れも必要だ。木に成るものであれば「桃栗三年柿八年」というような時間軸になる。しかし、誰もがそうした営みに携わるわけではない。
社会が生活に規定される面はあるだろう。例えば、米を主食にする生活を基本に据えるなら、米作のサイクル、米作のための道具類の制作、米作に適合した人の動きや在り方というものが社会の在り様をある程度規定することになる。しかし、人は米だけに頼らずとも生きていけるし、米だけで生きることもできない。
交通や通信といった技術的なことが生活を変えるというのは、その通りだろうが、技術を産むのは生活の必要だ。移動しようという欲求や必要があればこそ、交通や通信が生まれるのである。では、何故移動するのか。何を求めているのか。個人のレベルではいろいろあろうが、類としては生理や脳の構造に何か関係がありそうだ。
海や川を移動路とみれば、人の生活空間は無限に広がる。そこに国だとか民族というようなものを想定することに意味があるのかと思わざるを得ない。ナントカ人とかナントカ民族というのは仮置きの前提で、そもそも存在しないということにすれば解決できる問題というのはけっこうあるのではないかと思った。