和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART3』 国書刊行会
何事にも程というものがある。続き物の本とかドラマとか映画などがあるが、大概は最初が面白くて、回を重ねる毎にそれほどでもなくなる。本書のシリーズはPART6まで予定されているが、このあたりでやめておこうかなと思っている。
PART1、2ときちんと比べたわけではないが、印象として本書はセリフよりも俳優についての和田の想いに記述の重点が移っている。そうなると、その俳優への関心が薄い、あるはそもそも知らない場合、読んでいて引っ掛かるものがないということになる。本書の原典は『キネマ旬報』に1973年から1996年まで連載されたエッセイなので、書かれた時点においては読者の側にも和田と映画経験を共有していた人が多かったはずだ。しかし、それから何十年も経て同じだけの興味関心をその時代の読者に呼び起こすことができるかどうかは別の話になる。
あとがきによると、本書にはPART1、2にはない新趣向が加えられた。
項目から次の項目への橋渡しを、シリトリのようにつないでゆく、というもので、いくらかこじつけもないではないが、どうやら最後の項目が最初に戻る形で輪のようにつながった。
246頁
本書は見開きで一つのまとまった内容になっている。ある項で語った中の例えば俳優に関することで次の項が書かれる、というようなことだ。その鍵になる事柄が俳優、監督、作中で使われた音楽などの小道具類、といったものである。それを「シリトリのようにつないでゆく」と言っているのだ。しかし、それも映画というものに興味関心があれば面白いかもしれないが、そうでない読者には「なるほど、そうですか」というより他に反応のしようがない。
そんなわけで、本書の前半は自分にとっては何事もなく淡々と流れていったのだが、漸く164ページで「おっ」となった。『哀愁(原題:WATERLOO BRIDGE)』の登場だ。1940年の作品なので公開時に観たはずはない。今となっては理由がわからないのだが、学生の頃、やたらと名画座に足を運んだ時期があった。そうやって観た作品の中で印象に残ってその後もレンタルビデオなどで何度も観たものがある。一番たくさん観て、今も手元にDVDがあるのが『アパートの鍵貸します(The Apartment)』なのだが、その次くらいが『哀愁』かもしれない。初めてロンドンを訪れたとき、真っ先に向かったのはWATERLOO BRIDGEだった。今見ればなんでもない橋なのだが、「ここかぁ」と感心して眺めたのを覚えている。
本書後半に登場する作品で『アラビアのロレンス(LAWRENCE OF ARABIA)』も印象深い。この作品は自分の生年と同じ1962年公開なのだが、ロンドンの映画館で1988年から1990年の間のどこかで観た。たまたま街をぶらぶらしていて、映画館の大きな看板を見上げていた。すると、その看板の下、映画館出入口の前で小柄なおじさんがおいでおいでをしている。近づいてみると、観たいかと、言うのである。別に観たいわけではなく、古い映画なのにこんなにデカい看板を出すんだなぁ、と思って眺めていただけだったのだが、そんなことを説明してもしょうがないので、観たいと答えたら、観ていきな、と言って中に案内してくれたのである。観終わって出ていくとおじさんがいて、どうだったと言う。いゃー感動した、というと、そうだろう、と嬉しそうだった。結局、タダで観たのである。その後、湾岸戦争があって、アラブという地域のありようについて考えさせらたこともあり、この作品はやはり何度も観た。「クニ」とか「国家」というものについての考え方は、それぞれの人々の歴史的体験に基づいてそれぞれに異なるものだという、当然のことを気づかせる作品だと思う。
本書終盤238ページに登場するのが『ローマの休日(ROMAN HOLIDAY)』。観た回数だけで言えば、自分史上最も多く観た作品で、押入れのどこかに台本付きDVDもあるはずだ。以前にも書いたが、勤め帰りに映像翻訳の学校に通った時期がある。その学校での何かの課題が本作のシーンに自分なりの字幕をつけるというもので、その台本を見ながらDVDを何度も繰り返し観たのである。しかし、作品としてはただ楽しいだけのものにしか見えなかった。楽しいだけのどこがいけない、と言われても困るのだが。
一度だけしか観ていないので、細かいことは記憶にないが、観たということだけははっきり覚えている作品がある。本書の最初の方、22ページに登場する『恐怖の報酬(LE SALAIRE DE LA PEUR)』だ。高校の文化祭で映画部が上映したのがこの作品だった。1953年の作品で、どのような理由でこの作品の上映が決まったのか知らないが、高校生というのはこういう難しい作品を観て何事かを語らないといけないのか、と妙なプレッシャーを感じた。しかし、何事も語れないままに3年間を過ごし、今もって何も語ることのできない人間である。
岡野弘彦 『折口信夫伝 その思想と学問』 ちくま学芸文庫
手元の記録によると2014年4月29日に新宿武蔵野館で『神宮希林』を観た。樹木希林を語り部として2013年の伊勢神宮式年遷宮を描いたドキュメンタリー作品だ。その中で、樹木が岡野弘彦を訪ねる場面がある。映画を観た時は、その場面のことをあまり意識していなかった。岡野が歌人であること、戦時中に陸軍に応召して千葉県で終戦を迎えたこと、くらいしか認識できていなかった。戦争を生き抜いた人であり、友人知人を戦争で亡くした人でもあり、当時「神の国」とされていた日本が無惨に敗戦を迎えたことへの想いを、伊勢神宮についての映画の中で語らせることに意味があった、ということはなんとなくわかった。映画を観た頃は、短歌も俳句も詠んでいなかったので、岡野が歌人としてどういう人なのかということへの意識がまるでなかった。
時は下って2019年1月16日、外苑前にあった「ほぼ日の学校」で岡野の講義を聴いた。それに先立つ1月11日、その講義の予習会があり、そこで岡野が映画に出ていたことを改めて知る。予習会では『神宮希林』の2年後に樹木が岡野を再訪するところを収めたビデオも観た。そこで岡野は國學院予科での同級生である板倉震とおるさんと共に陸軍特別操縦見習士官を志願するが、岡野の方は父親から厳しく諌められて志願を取り下げ、板倉さんは1945年4月21日に出撃されたという話を語っていた。岡野は板倉さんが出撃した4月21日にその発進基地があった知覧を毎年訪れていたのだという。
あまりにもしづけき神ぞ血ぬられし手もて贖(つぐな)ふすべををしへよ
岡野弘彦 第2歌集『滄浪歌』角川書店(1972年)
岡野は敗戦後、三重県の郷里に帰り、その翌日に伊勢神宮に参拝して詠んだのがこの歌だそうだ。戦前戦中、日本は「神の国」だと教えられ、戦況の悪化と共にその声がますます大きくなったのだという。しかし、生き残って伊勢神宮に詣でてみれば、何事も無いかのように静かな時が流れていた。その時に詠んだのが上の歌だそうだ。
その岡野は折口信夫の最後の内弟子だ。学者や歌人で「内弟子」というのも今の時代には妙に聞こえるかもしれないが、人から人へ内面や精神性に関わる何事かを伝えるのに生活を共にすること以外の方法があるとは思えない。しかし、現実は物事が断片化、データ化されていつでもどこでも誰にでも伝達可能な形に加工され、その授受が「教育」であるかのようなことになっている。
「師弟の間がただの知識の授受に終わるのなら、こんな功利的な関係はない」と言い切る折口の、真に身近な弟子に対する薫育は魂の教育で、近代の社会にそのまま通じるようなものではなかった。
421頁
のだそうだが、そういう意味では今は人間関係全てが功利的な関係になっている気がしないでもない。人を育てるはずの学校教育が成績という数値評価を軸に構成され、その学校は偏差値という数値評価を軸に階層化され、家庭での「しつけ」は学校での適合を軸に行われ、数値化された成績表や権威者たる先生の評価に一喜一憂したりする。学校教育の中身はその時々の権力の都合で決められる。
生身の人間は、生理的なところは数値化できるのかもしれないが、精神的なところまでも果たして数値化して評価できるものなのだろうか。尤も、本来できないことを無理矢理押し付けることで生まれる非喜劇がいわゆる「現実」とか「人生」なのかもしれない。そうであるとすれば、人の社会生活はその無理矢理からこぼれ落ちた無数の顧みられることのない要素に覆われた本来的に孤独なものとも言える。
人は自ら生まれることを選択できない。気がつけば自分がここにいるのである。それなのに、周囲からはああせいこうせいといわれて、その周囲との作用反作用の中でささやかな自己主張をしてはみるものの、あれよあれよという間に成長して衰弱して死を迎える。社会には自分が生を受ける以前から存在する秩序があり、それに従わないと排除される。しかし、その秩序は絶対的なものではなく、時と場の変容に応じて時々刻々変化する。生きてきく上で秩序を意識することは必要なのだが、その変化の表層だけに気を取られていると捉えどころがなくて気が狂いそうになる。事実、狂っている人はたくさんいる。ささやかな自己主張のささやかな成功体験に気を良くしてみたり、自分が何者であるかもわからずに右往左往し続けてみたりしながら一生を終えるところに、何となく悲劇性を感じる。生きることは本来的に悲劇である、と言えなくもない。
たぶん、右往左往するから悲劇になる。右往左往しないためには「絶対」を装いながら実はあやふやな秩序の表層に惑わされることなく、もう少ししっかりした思考の基準がないといけない。おそらくそれは誰しも思うことで、共同体とか宗教ができる土壌にはそういう誰しもが感じているであろう欠落感のようなものがある。右往左往せずに済むような、万人が是とできる思考の軸を創造したり継承したりする作業が本当の教育なのだろう。
「本当」かどうはともかくとして、現状は誰しも教育を受けて成長したことになっている。だから生きている我々はそういう基準を心に持っているはずだ。誰に尋ねても「自分とは何者か」「人とはいかなるものか」をきちんと語ることができるはずだ。
しかし、現実はそうではない。わずかばかりの利得や一時の感情の暴走で人は互いの領分を犯しあう。なまじ知恵があるので、その侵害行為は時に組織的になり精緻を極める。万人の生活に恩恵を与えている科学技術も元は侵害行為を動機に生み出されたものであったりすることもある。余計なことは考えずに、自分が生きることに必要な最低限のことにだけ精を出していれば、案外安穏と一生を全うできるのかもしれないが、余計なことがどうしてもしたくなる。そして右往左往する。なぜか。
結局、人は己をわかっていないからではないか。人類史をさんざん重ねて今更こんなことを言っても始まらないのだが、誰も何もわかっていないのである。生命体の進化であれ、神がこしらえたものであれ、現象を記述したところでそれだけでは誰も何も救われない。
私は折口信夫を柳田國男との関連の中で知ったのだが、折口が民俗学へ向かうのは日本人のそもそもの探求の一つの道としてであって、歌を詠んだり、国文学を研究したりするのと同じように、要するに自分を知るためであったのだと思う。その成果を折口を慕う門弟に伝えるのに、共通言語が必要になる。それが歌であったということだろう。また、そもそも歌とは文意だけでなくそこに込めた魂のようなものを相手に伝えるためのものであった。「言霊」とか「呪言ことほぎ」とか言葉にまつわる呪術的な響きのあるものが現在でも存在するのは言葉というもののありようがそもそもそいういうものであったことの名残だと思う。
折口がその身近の門弟を薫育するために、まず短歌を作らせ、自分の歌風、歌の気息、心と言葉のひびきを、そのまま口うつしの形で学び取らせようとしたのも、日本人の魂の歌による感染教育を目ざしたのであって、近代に起こった多くの世上の短歌結社の文学運動とは、根本的に違う要素を持っていたのである。
69頁
折口の教育の基本が歌を詠ませることにあったのは、彼はそれが魂の表現であると考えたからだ。
短歌は折口にとって、現代の文芸思潮の影響を受けた現代の文学であったが、同時に万葉びと以来の日本人が継承してきた生活の中の心の表現の定型であり、心と言葉の器であった。万葉集の中でも高市黒人をはじめとする旅の歌にいちじるしく示されているように、旅中の魂に起こってくる不安動揺を鎮め、旅先の地で触れあうさまざまな地霊や庶物霊と魂を触れあう、呪的な言葉の形であった。
67-68頁
神だの霊だのというと、今は世の不可解を一身に背追い込まされている思考停止の果てにあるゴミ箱のようなものに思われるかもしれないが、ここに述べられている「カミ(神、迦微、上、…)」は人の心の奥に伏在するはずの理屈を超えた思考の根源のようなものを指している。折口はそれを「まれびと」論として説いたらしいが、当然、それは事の性質上、完成される論理のようなものではあり得ない。しかし、例えば世界的な宗教にあって日本に古来からある宗教に欠落しているとされている緻密な教義や脆弱な罪障観について、もう少し広く世情の関心が寄せられてもよいと思う。もちろん、宗教がそれぞれの時代の権力闘争と結びついて権力基盤強化のための多数派工作の道具として使われたという側面があるので、その歴史的過程で必然的に教義が精緻化されたという事情はあるだろう。それにしても、日本では人の精神的なところに踏み込むことが忌避されるのが不思議なことに思われる。
殊に敗戦後、われわれが敗れたのはただ科学の進歩の遅れや、物量の乏しさによって敗れたのではない。われわれの神、われわれの信仰の力が、彼らの信仰の力に敗れたのだ。それをただ、物の量に負け、科学の進歩に敗れたのだという反省しかないのでは、百年後の日本は危ないよ、と予言した折口であった。また、キリスト教国の彼らは、その聖地エルサレムを奪い返そうとする十字軍のような情熱をもって、南方の島の一つ一つを落としながら日本本土に迫ってきた。それに対しわれわれはただ、神風が吹くといったまったく他力本願な心しか持たなかったという深い反省から、一時は熱心にキリスト教の教義を研究し、敗戦の年から亡くなる年まで国学院で神道概論を説き続けた折口であった。
229頁
日本の神話にも原罪を語るところはある。例えばスサノヲ(素戔嗚、すさのお)が高天原タカアマノハラで狼藉をはたらいた話などはそれにあたる。その狼藉の一つ一つを天つ罪・国つ罪として祝詞の中で唱え上げる習わしが昭和のはじめまではあったのだそうだ。また、神は元来、姿がなく、描かれたり像になることは稀なのだが、なぜかスサノヲは古来より数多く作品化されている。日本の神話に罪障観が脆弱なのではなく、昭和のはじめ頃にそうなったようなのだ。昭和のはじめにこの国で何があったのかということと考え合わせると興味深い。日本中の都市が悉く焦土と化してから76年になる。喉元過ぎれば熱さ忘れる、というが、過ぎる前から忘れているみたいだ。
内村鑑三 著 鈴木範久 訳 『代表的日本人』 岩波文庫
先日、小田原で初めて二宮尊徳のことを知り、その流れで本書を手にしたのだが、尊徳のことに関しては小田原で見聞した以上のことは書かれていなかった。それよりも、不思議な本だと思った。
日本人が外国語で日本のことを書いたものとしては、本書の他に岡倉天心の『茶の本』と新渡戸稲造の『武士道』が代表的なものらしい。岡倉天心は美術史の研究者でボストン美術館の中国・日本美術部長を務めた人で、名前くらいは知っている。たまたまボストンに本社のある会社の東京事務所に勤務していたことがあり、その会社の方針で用があってもなくても半年に一度は本社に出張して自分の仕事と関係のある人々と直接顔を合わせることになっていた。その頃に『茶の本』を読んだ。結構その当時の当地の同僚の中にはこの本を読んでいて、それに関する話題を振られることもあった。当時はまだ茶道を習い始める前だったが、そういう事情もあって読んでおかないと、と思って読んだ気がする。
新渡戸は以前の五千円札の人だったので顔は知っている。しかし、たまに見かける程度で、それほど馴染むことなく樋口一葉に交代してしまったので、『武士道』はおろか何も著作を読んだことがない。ちなみに、樋口一葉の作品も読んだことがない。
で、内村鑑三って誰?と思うのである。キリスト教に関係のある人らしいというのはわかった。本書は外国の人たちに日本とか日本人というものを説明する意図の下に書いたらしいのだが、内村鑑三という人が外国の人にとって引っ掛かりがないと書いたものも読まれないだろう。ということは、内村は少なくとも当時の外国の人々には知られていた存在だったということになる。次に、なぜ本書に紹介されている5人が「代表的日本人」なのか、ということが問題だ。
二宮尊徳以外の4人は西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮上人で、なぜこの5人なのかという説明はない。薄い本なのでサラッと読み流してしまったが、人選その他にまつわるモヤモヤが残って読後感はよろしくない。
西郷隆盛については、そういう人がいたということだけなら誰でも知っているだろう。大河ドラマにもなったし、その元である伝記や物語は数多い。尤も、自分で読んだことがあるのは司馬遼太郎の作品(『翔ぶが如く』)だけだが。倒幕の立役者のひとりであった西郷にとっては、倒幕後に構想した新政府と実際の新政府とが似ても似つかぬものになったのは確かだろう。西郷が本当のところどのような政治体制を標榜していたのか知らないが、維新の結果は徳川時代の社会体制の看板を架け替えて居抜きで人が交代しただけのようなものに見えたのかもしれない。維新後も秩序の基礎になる身分制や社会階級に大した変化がなく、志が高かった者ほど幻滅あるいは絶望したであろうことは想像に難くない。西郷がああいう形で反乱軍の神輿に乗って歴史から消えたのは、維新後の日本というより人間そのものに幻滅を覚えたからではないかと思うのである。
西郷は書いたものをあまり残していないそうだが、本書にちょっとした詩と文章が紹介されている。
道は一つのみ「是か非か」
心は常に鋼鉄
貧困は偉人をつくり
功業は難中に生まれる
雪をへて梅は白く
霜をへて楓は紅い
もし天意を知るならば
だれが安逸を望もうか
46頁
『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財も減る。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方しだいで、盛衰、貧富、興亡、生死がある。用心すべきではないか。
46-47頁
いつどのような状況で書いたものなのか知らないが、この気持ちのまま維新後の世の中を生きるのはさぞかし辛かっただろう。西郷は偉人というより、単にまともな人だったというだけなのかもしれない。だから、新政府の中には居た堪れなかったのだ。
上杉鷹山はひと頃ブームになった、と記憶している。なぜブームになったのか、は記憶にない。上杉鷹山は米沢藩主として実質的に破綻していた藩の政治経済を再建したのだそうだ。例によって、倹約と適材適所が鍵らしいのだが、本書の鷹山の章にはさらにその基本となる姿勢のようなことが書かれている。
封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。もはや忠義はありません。憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとはしません。献身とそれのもつ長所は、つかえるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣があるところに生じるのです。封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。その本質は、家族制度の国家への適用であります。
83頁
いわゆる封建制の時代に本当に人間関係が人格的な性格を帯びていたのかどうか知らないが、人間が五感を持つ生物であるということは、それらの感覚を使って環境を認識するようにできているということには違いないだろう。人間関係もその環境の内にある。近世に大衆文芸やそれに基づく演劇の類が人気を集めたとき、その人気の背景にあったのは義理と人情の世界だ。そういうものを望ましいと思うかどうかは別にして、自分の置かれた環境と関係を取り結ぼうというときに、個別要素をデータ化して損得だの合理性だので評価するよりも、生物としての感覚による総体の判断のほうが、その結果が良くても悪くても、心情としては受け容れ易い気がする。鷹山の章で内村はこうも書いている。
東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井から授かりました。
鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。快楽主義的な幸福観は、鷹山の考えに反していました。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。「衣食足りて礼節を知る」といにしえの賢者も言っているからであります。当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共にしたがわなければならない「人の道」に導こうと志しました。
67-68頁
歴史上、礼節を知った人々ばかりのユートピアのような土地や時代が存在したのかどうか知らないが、権力を握る側が目指すべきはそういうものであるほうが穏当である気がする。行動規範に目標数値を置いた組織が長期に亘って繁栄したという話は聞いたことがない。あまりに個別具体的なものを指向すると、背後にあるべき理念に対する意識が希薄になり、個別要件の方が自己目的化して本来目指すべきものを見失って迷走するものだ。かといって漠然とした理念のようなものは解釈が人によってまちまちなので、それだけでは行動規範にはなり得ない。身も蓋もない言い方だが、社会であるとか国家であるといった大人数の集合体を長期間に亘って統率することはそもそも無理なのである。礼節だの道徳だのといったものも幻想に過ぎない気がしないでもない。人間というものは自分で思うほど賢くもなれければ立派なものでもない、と思う。
二宮尊徳の章で書かれていることも上杉鷹山のところと同じようなことだ。小田原で知ったことだが、二宮尊徳の思想の鍵は「報徳」という概念だ。ここでの「報」は活用するという意味で、「徳」は能力という意味だ。つまり「報徳」とは「適材適所」「相対優位の活用」などという意味になる。本書には次のような記述がある。
尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。尊徳のところへ一人の男が推挙されてきました。ほかの人の三倍は仕事をする働き者であるうえ、好人物との触れ込みでした。このような賞め言葉に、わが農民指導者は、長い間、動かされたことはありませんでした。(略)わが指導者は、自分の経験上、一人前の仕事の限界を知っていたのです。だから、そんな報告にだまされることはありませんでした。その男は罰を受け、嘘いつわりを厳しく戒められて畑に送り返されました。
労働者のなかに、年老いて一人前の仕事はほとんどできない別の男がいました。この男は、終始切り株を取り除く仕事をしていました。その作業は骨の折れる仕事であるうえ、見栄えもしませんでした。男はみずから選んだ役に甘んじて、他人の休んでいる間も働いていました。「根っこ掘り」といわれ、たいして注目もひきませんでした。ところが、わが指導者の目はその男のうえにとまっていました。ある賃金支払い日のこと、いつものように、労働者一人一人、その成績と働き分に応じて報酬が与えられました。そのなかで、もっとも高い栄誉と報酬をえる者として呼びあげられた人こそ、ほかでもなく、その「根っこ掘り」の男であったのです。
89-90頁
もともと農民であった尊徳であればこそ、現場の仕事で何が問題になるかよくわかっていたということだろうが、評価の公平性という点で別の見方もあったはずだ。現に誰もが素直に尊徳の指揮下におさまったわけではなかったらしい。しかし、それでも尊徳が手がけた村落の再生案件は600を超えるものだったとされている。時の小田原藩主が幕府の老中であったという事情もあるが、やはりその手腕は大したものであったのだろう。本書では次のような話も紹介している。
村人の信頼をまったく失っていた名主が、尊徳の知恵を借りにきました。わが聖者の与えた答えは、意外なほど簡単でした。
「自分可愛さが強すぎるからである。利己心はけだもののものだ。利己的な人間はけだものの仲間である。村人に感化をおよぼそうとするなら、自分自身と自分のもの一切を村人に与えるしかない」
「それには、どうすればよろしいのでしょうか」
「持っている土地、家屋、衣類などの全財産を売り、手にした金はことごとく村の財産にし、自分のすべてを村人のために捧げるがよい」
(略)
教えどおりに実行しました。彼の影響力と声望は、ただちに回復しました。(略)まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、短期間のうちに名主は以前にもまして裕福な身になりました。
96-97頁
「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できるとは思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。策術は役に立たない」
「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地をも動かしうる」
「なすべきことは、結果を問わずなされなければならない」
これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。こうして尊徳は「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。
100-101頁
「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。一時しのぎのために、計画をたて仕事をするようなこともありません。いわば「自然」の流れのなかに自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。
105頁
よく、大局を見よ、などと言われるのだが、自分の手足を動かす現場を知らない者には大局はわかるまい。尊徳が語るように「誠実」であることは尊ばれるべきことではあるが、それが尊ばれるということは世の中が誠実ではないからに他ならない。昨今の感染症騒動での先を争うかのような人の行動を目の当たりにするまでもなく、誰しも世間の狡猾とか身勝手を嫌というほど見聞きし、また、体験もしているだろう。
中江藤樹は江戸初期の陽明学者だ。やはり農民の家に生まれ、武家に養子に出されたが、士官先の国替えで米子から伊予大洲へ移住する。近江の生家の母への孝行と自らの健康上の理由から辞職を願い出るが容れられず脱藩。京都に潜伏した後、生家のある近江高島へ戻り、私塾を開く。学者として生きた人なので、本書での記述も学者としてのあり方に関することが多い。
「学者」とは、徳によって与えられる名であって、学識によるものではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。
123頁
学者は、まず、慢心を捨て、謙徳を求めないならば、どんなに学問才能があろうとも、いまだに俗衆の腐肉を脱した地位にあるとはいえない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるなら、善悪の判断は自然に生じる。
135頁
世の中の桜をたえておもはねば
春の心は長閑なりけり
137頁
谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない。
139-140頁
いわゆる「立身出世」は近代以降の考えだ。身分制が敷かれていた時代には、おそらく今とは身の丈の感覚が違っていた。また、情報伝達や交通の違いから明らかなように、人の世界観は今とは比べものにならないくらい違ったものであったはずだ。そうした中での承認欲求と現代のそれとは自ずと違う。村落の中で互いに見知った関係性の中で暮らすのと、隣に誰が住んでいるのか知らない社会で暮らすのとは、人の自己認識も当然違う。違う、のである。違いすぎるくらい、違うのである。
今は主に感染症の影響で移動が思うようにはできないが、そういう特殊事情を除いてみれば、我々はいつでもどこでも誰とでも交渉ができる。しかし、それはその交渉相手を知っているということと同じではない。生活に必要なあれこれを見ず知らずの相手から瞬時に受け取って暮らすことができるが、今とは比べものにならないくらい認識できる世界が狭かった時代に比べて友人知人が増えた、かどうかはわからない。むしろ、見ず知らずの相手と交渉できるようになったおかげで、生身の人と知り合いになる機会は激減したかもしれない。
いわゆる「心の病」が増えているらしい。生活の道具類が発達して見ず知らずの相手との交渉だけで生きていける時代になった。その結果、人は生物として持っている感覚と生活に使うそれとが適合しなくなった、のかもしれない。それで感覚の方が麻痺して悲鳴をあげる、つまり、病に陥るのかもしれない。もちろん、医学が発達して、それまで病気として認識されていなかったような状態が「病気」として認定されたということもあるだろう。しかし、我々の生活が我々の適応能力を凌駕するほどに変化を続けているのは確かである、気がする。
結局、自分の身の丈という尺度を持たないことには、いつまで経っても流動し続ける世間を追い求めて心身の消耗の無限地獄から抜け出すことができないのだろう。身の丈を知るには自らの手足を動かして生活をするしかない。と言っても、今更できることは限られているのだが、飯をつくるとか、洗濯や掃除をするとか、歩いていくことができる先には歩いていくとか、些細なことでも自分の身の丈のわかる経験をコツコツ積み上げていくことが何よりも大事であるように思われるのである。
本書5人目の「代表」は日蓮だ。キリスト教徒の内村が日蓮を挙げるのは妙な気もするが、内村が日本人であるのだからそこに神仏に関係する人が取り上げられることに違和感はないという人もいるだろう。いずれにしても、いわゆる「宗教」となると、その類の言説には素直に感心するようなところが少なく、本書でも日蓮の章には付箋を貼ったところがなかった。
本書の原書は日清戦争の最中に書かれ、同戦争が日本にとっての「義戦」であることを諸外国に訴える宣伝図書として発行されたものだそうだ。日清戦争当時は内村も義戦であると信じていたようなのだが、その後、それが義戦ではなかったとの認識に変わり、宣伝的な箇所を削除して、人物描写にも修正を加えて本書の姿になったとのことだ。宣伝図書とみれば、それに合わせて「代表的」人物を挙げ、宣伝したいことを連ねたものであるわけで、不思議な本でもなんでもなかったのである。日露戦争の前には、内村は既に戦争と名のつくものに「義戦」というものはあり得ないとの非戦論者になっていた。それでも本書を取り下げなかったところに、内村の考える理想の人間像があったということだろう。
人間という生物が何者であるのか、本当のところはわからないのだが、とりあえず直立二足歩行をするというだけなのではないか、と私は思っている。生物「進化」の頂点に当然のように己を置いて他の生物を睥睨している感があるが、自分が優位になるような尺度を選んで自分を物事の中心に据えること自体が馬鹿馬鹿しいことのように思われるのである。
内田百閒 『蓬莱島余談 台湾・客船紀行集』 中公文庫
昨年後半に百閒を随分読んで一旦は打ち止めにしたのだが、何かの拍子にこんなふうに目につくものがあると、つい手が出てしまう。本書の初版は2022年1月25日発行だ。本人没後何十年も経て出版されているものなので書下ろしはあるはずがなく、掲載されている文章の多くが既読であることは承知しているのだが、それでもうっかり手にしてしまう。
百閒は1939年に、友人である辰野隆の紹介で日本郵船の嘱託となった。文書顧問として一室と店童(お世話係)をあてがわれ、通勤にはタクシーかハイヤーが用意された。仕事は社内文書の作成や校正だ。午後半日勤務、週休二日で月200円の手当だったという。当時の公務員の初任給が70-80円というので、既に文筆家として名のある存在であったとはいえ、かなり恵まれた待遇と言える。社内文書のために作家を高給で雇うということが今となっては想像もつかないことだが、しかし、日本を代表するような大企業ともなるとそれくらいの品格を意識したという社会でもあったということだろう。
その百閒が、岡山中学の先輩で台湾の明治製糖の重役であった中川蕃しげるから台湾へ招待された。明治製糖の創業メンバーには郵船出身の小川䤡吉ぜんきちも名を連ねており、郵船と全く無縁の台湾行きではなかったのかもしれない。いずれにしても明治製糖の招待で、郵船の船で、1939年11月に9日間をかけて台湾旅行に出かけた。その時のことが本書の表題にもなっている「蓬莱島余談 台湾・客船紀行集」で本書11ページから99ページまでを占めている。旅行は9日間でも、それをもとにした紀行文は1939年12月から1949年12月に亘る。
その中に百閒が「リアリティ」というものについて語っている箇所がある。以前、『立腹帖』でも感心して引用したものなのだが、ここでも引用する。
辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。
86頁 馬食会「当世漫語 昭和十四年十二月」より
近頃は受け売りのような文章が巷に溢れ、受け売りでないにしても思慮浅薄なものが「作家」とか文筆を生業にしている人の手から世間に垂れ流されている。そういう意味ではリアリズムが希薄になっている時代と言えるのかもしれない。馬鹿みたいに「グローバル化」と騒ぎ立てた果てに、感染症騒動や戦乱が起こると、その「グローバル化」で分業を徹底した所為で「サプライチェーンの混乱」が生じて右往左往することになる。てっきりそういうリスク対策も打った上での「グローバル化」なのかと思っていたが、そうではないらしい。今は世間全体にリアリズムの意識が希薄だから目の前のしかも表層のことしか認識されない。無邪気に今日と同じ明日があると思い込んで、思いもよらぬことが起こるとは考えない。考えない、のではなく考えることができないのだろう。百閒がここで言っている「リアリズム」と経済のそれとは別のことのように見えるかもしれないが、私は通底していると思っている。
それと関係があるのかどうか知らないが、外国為替市場で円安が進んでいる。外国為替相場というのは相対の話なので、世界の混乱の中で他所よりも日本(=日本円あるいは日本円建の資産)に魅力が無いと思われているということでもある。個人的には外貨預金の円評価額が上昇して、新たに預金をしたわけでもないのに残高が増え続けて結構なことなのだが、円安が続けば物価もマジで上がるだろうから、そうなると呑気なことも言っていられなくなる。
ついでに言えば、ルーブルがあの直後に暴落したが、今はだいぶ旧に復している。ルーブル建の資産価値が無視できないものであるということなのだろう。人はパンのみに生きるわけではないが、パンがなければ生きられない。背に腹は代えられない、ということだろう。「グローバル化」の中で急には大国を退けてどうこうするわけにはいかないということなのだ。
さて話は本書のことに戻る。本書では船あるいは船旅に関するものが集められている。新造船の披露航海では航海そのものはもちろんのこと、寄港先でも顧客を集めて披露行事を催すものらしい。八幡丸の披露公開ではその顧客の中に林芙美子がいて、神戸から乗船することになった。その時の話が興味深い。
林さんが招待を受けて乗船する事がきまると、船客課担当の重役永島義治さんは課員に林さんの全著作を買い集めて来いと命じた。
どれだけ集まったか知らないが、ないものもあったかも知れない。手に入っただけの林さんの著作を永島さんは片っぱしから読み始めた。
御自分も乗船する事になっていたその前日までに、まだ有名な作品の中で読み残したのがあって、その晩はそれを読む為に徹夜したと云う話であった。
しかしそうして林さんの著作に出来るだけ目を通して、その上で当の作者に会った時、話題として読後感でも持ち出すのかと云うに、決してそうではない。永島さんが林さんと会った席には、いつも私は同座していたが、一度もそんな話は出なかった。
永島さんが云うには、こちらから高名な作家を御招待しておいて、そのお作を何も読んでいないなどと云う、そんな失礼な話があるものではない。試験勉強の様な事で相済まぬが、そうしてでもお作に接しておくのは、お招きした主人側の礼儀です。
世間でよく云われた「郵船サアヴィス」なるものの真諦はこれだと私は感心した。
224-225頁
こういうことはハウツーではなくて、心とか気持ちの問題だ。人を招く、人に招かれる、という対面での付き合いには当然に相手に対する態度というものが相互に顕われる。そこには言葉で表現できないこと、表現したら変容してしまうことが必ずあるものだ。そういうことにどれほど気を配ることができるか、また、そういう気配りにどれほど気づくことができるかによって人間関係は自ずと変わる。百閒は「サアヴィス」と書いているが、そんなものではなく、人としてどうかということだと思う。そういう「サアヴィス」と縁遠いまま齢を重ねてしまったが、個人対個人の付き合いにおいては心しないといけないと身が引き締まる思いがした。
そういえば、「御馳走」というのも、客をもてなすのにふさわしい食材や料理人を求めて走り回ることから転じて、その結果として供される料理という意味だ。走り回っているところは客には見えないし、また、見せてはいけない。人と人との関係というのは、本来はそうやって目に見えないところで互いに思いやりを積み重ねて築き上げるものなのである。
余談だが、林芙美子は1931年11月にシベリア鉄道で渡欧している。満州事変の2ヶ月後、緊迫した情勢の中だ。そんな時に何故かといえば、パリにいた恋人で4歳下の画家、外山五郎に会うためだった。11月4日に鉄道で東京を発ち、5日に大阪着。10日に下関から関釜連絡船で釜山に渡り、東清鉄道経由で13日にハルビン着。翌日ハイラルを経て満州里へ、そこからシベリア鉄道で20日モスクワ着、21日ポーランド国境のストウプツィ着。そこで列車を乗り換えて22日ベルリン着。23日パリ到着。シベリア鉄道をはじめ旧ソ連の幹線鉄道はゲージ1,524mmの広軌、ポーランドから西の欧州は1,435mmの標準軌。林はそのことに気づいていただろうか。ゲージの違いには結構深い話があったりするものだが、長くなるので別の機会にする。
和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART4』 国書刊行会
『PART3』を読んだときに、もういいかなと思ったのだが、既に本書を予約注文した後だったので手にすることになった。予約しておいてよかったと思った。尤も、予約しなくても普通に書店で買うことができるとは思うが。
取り上げられている作品の時代がだいぶ近くなって1970-80年代のものが多くなり、観たことはなくてもポスターとかチラシに見覚えのある作品があって、本書自体がこれまでのシリーズよりもなんとなく身近に感じられるのが良い。文章も読みやすくなっている気がする。と、思ったら「あとがき」にこんなことが書いてある。
一冊目二冊目あたりは、ほとんど記憶だけで書いていた。三冊目からあやしくなり、今はまるで駄目。メモに頼らなくてはならない。ただし映画を観ながら何か書きつけることは好きではなく、映画館を出てから思い出せるものを書くようにしている。映画が終わった時にはもうケロッと忘れてしまっていることが多いので、この方法もあまり役には立たないのだが、それでもなお頭に残るセリフが自分にとっていいセリフだったのだ、と解釈することにしよう。
記憶力の悪さを補う意味もあり、このPART4には、映画人(ないし映画の周辺の人)の言葉を組み入れてみた。こちらは活字で読めるから、まあ楽なのであった。
247-248頁
書く方が楽になった分、読む方も楽になった、というわけでもないのだろうが、PART3は確かに少し読みにくかった。内田百閒に言わせれば、忘れたことも含めてリアリズムなのだから、書きにくさを読みにくさとして味わうことにリアリティがあるとも言える。しかし、読みやすいに越したことはない。
あとがきについて触れたついでに、もう一つあとがきに書かれていたことに触れておく。
ぼくはたった一つの挿入歌のメロディを憶えたくて、あるいは好きな西部劇の中の拳銃の抜き方を確認したくて、映画館に何度も足を運んだ。数秒のシーンをもう一度観るために、三本立の映画館に一日中いたこともある。ヴィデオならこういう手間はかからない。
一方、その手間が楽しい思い出になっている場合もある。便利なことはいいが、それで失っているものはないとは言えないのだ。ヴィデオで繰り返し見て、昔の西部の遠景に自動車が走っているのを発見しても、それが幸せだろうかと思う。
248-249頁
こうやって何度も観るから映画のことがなおさら好きになったり、映画のことから様々のことに発想が広がって、考えることの幅や深さが大きくなったりすることもあると思う。何かが好きだと言うとき、その何かに対する熱量が本書が書かれた頃に比べると今の時代は低い気がする。
こうやって何かについて文章を書くとき、疑問に思ったことや「あれなんだったっけかな」というようなことを調べるのにネットは便利で重宝している。でも、ネット検索が今ほど手軽ではなく、検索できる内容もテキスト情報に限られていた30年ほど前の修士課程の学生だった頃、課題や論文を書くのに図書館で悪戦苦闘して調べ物をしたり考え事をしたりしていた頃の方が、手にした情報や考えが自分の中で熟成したものになっていた気がするのである。それと、お世話になった図書館の司書のおばさんの笑顔が今でも記憶に刻まれていて、その笑顔の記憶のおかげもあって、アナログの時代が豊かに感じられるのかもしれない。
マクラが長くなったので、今回は付箋を貼ったセリフを並べるだけにする。能書きは無し。
「死んだ蜂に刺されたことあるかい?」
「男の悩みは二種類に決まっています。女とその母親についてです」
「愛が何だ。炎と燃えて一年。あとの三十年は灰だ」
「友人を持つ人間に、敗残者はいない」
「心の耳できけば、何でもわかる」
「私の作品の中の詩に、男たちは魅惑されるの。私の身体の中にも詩があるわ。それを男たちに読ませるのよ」
「昔の戦争は、負けても名誉が残った。この戦争には名誉などない。勝ってもいやな記憶が残るだけだ」
「破壊と苦痛に終りはない。不死身の蛇のように、頭を切り落としても替りが生えてくる。いずれこの戦争は終わるが、次がまた始まるだろう」
「みんなが戦争は避けられないって言う。平和が避けられないってどうして言えないの」
「戦争が始まったら、戦わされるのは素人です」
「くだらない歌だね」
「だから好きよ。大笑いするには恋の歌を聴くに限るわ」
「貧乏人の特技は、本当に愛されているかどうかわかること」
「長い夜だったわ」
「すぐ夜が明ける。朝になれば夜のことは忘れるよ」
「今は映画もテレビもひどいものでしょ。あんなにひどいんだから、ひどい私にもやれるわ」
「女の子でも道化になれる?」
「努力すればね」
「大統領には?」
「努力すれば何でもなれるよ」
「道化と大統領と両方なりたいわ」
「そりゃぴったりだよ」
「死を怖がる奴は、生きるのも怖がる」
「どんな女も顔を洗ったら同じだ」
「危険な仕事か」
「危険かどうかは俺たちが運がいいかどうかで決まる」
「平和は怖い。地獄を隠し持っているようだ」
「誰もが自分を正しいと思っていることが恐ろしい」
本書の中の記述から抜粋して並べただけ。どのセリフが何という作品の誰のセリフであるかは敢えて書かない。原語がどんなものであったのか、気にならないこともないのだが、日本語字幕や日本語のセリフにしたもので外国映画を語るところに面白さがあるとも思う。改めて思うのだが、外国語から起こした日本語というのは、やはり日本の日本語とはだいぶ違う。いろいろ説明をつけようと思えばつけられるのだろうが、誰もが納得できる説明というのは無理な気がする。