陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書
先日、横浜に出かけた。中華街で食事をしていると、常連と思しき客が入ってきて、店の人と親しげに話を始めた。誰それの新しい本が出たとかなんとか、と聞こえた。陳先生が本を出されたんだなと思って検索したら、本書がヒットした。
気がつけば国立民族学博物館友の会の会員を長いことやっている。2012年12月9日の友の会東京講演会の講師は当時民博の准教授だった陳天璽先生。陳先生のご専門は無国籍・移民のアイデンティティの研究だ。会場は横浜にある海外移民資料館の会議室で、資料館の見学もあった。その後、希望者だけということで、陳先生のご実家である中華街のレストランで食事会があった。
私はこの講演会まで無国籍の人がいるということを考えたことすらなかった。自分に経験がなく、身近にもそういう人がいないということもあって、国籍が「自分」という意識とどのように関係しているのか今でも腑に落ちる想像ができないでいる。しかし、国籍というはっきりしたものが自分を語る記号の一つとしてある、というのと、そういうものがない、というのとでは自分の価値観の座標軸での自分自身の身の置き所がだいぶ違うだろうということくらいは想像できる。
私自身は昭和の超ドメドメ人間だ。たまたま若い頃にバブルのドサクサでイギリスのマンチェスターという典型的な労働者の街にある大学に留学したこと、その後のバブルの崩壊で当時の勤務先が外資に身売りすることになったこと、その他諸々があって、外資系企業を渡り歩いてもうすぐ定年というところまで辿り着いた。結果として、社会の中での階級、国籍、人種、その他のタグ付けについて否応なく意識させられることになった。しかし、意識はしても考えるというほどのことはなかった。考えている余裕がなかったと言った方が正確かもしれない。生きるということは瑣末なあたふたに満ちている。その時々の「今」と「未来」を思い煩うだけで精一杯だった。還暦を迎えて「未来」が消えたので、ようやく少しだけ考える余裕が出てきた。そして、振り返ってみて、タグ付けと人格とか性格との関係とか、自分なりに多少納得のいく解釈ができるようになった。
今は社会を左右する色々なことが米国発祥だ。米国はいわばこの世のイノベーションの母体のような存在だ。ここ100年ほどの時代の流れのなかで、米国の地政学上の位置が「世界標準」を発するのに都合の良いところにとりあえず落ち着いたという事情もあるだろう。それれよりも、おそらく、米国という「場」の成り立ちが「金銭」という成果物としてわかりやすいものに依存しないと「自分」の存在を確かめることができない社会だからなのだろう。
世間では社会がグローバル化していると言われている。「グローバル化」の意味するところは、米国のように、歴史や文化といった不定形の過去をリセットして、共有するものを持たない者どうしが、人ひとりの人生という短い刹那で自己の存在証明を果たさないといけないという強迫観念を抱える社会になるということだろう。
必然的に社会に提示する自身の生活の成果物として、共有するもののない相手にも容易にわかるものが要求される。また、そういう明快なものは文化や歴史を超越して独り歩きをして伝播し定着するので、デジタル表示のタグが付くものは本来的に規模を拡大しやすい。結果として世界は、デジタル表示可能なタグで充満することとなる。「有」か「無」か、「有」ならどれくらいの量やサイズなのか。最初の有無の問いに「無」ならば、そもそも社会には参加できないという、なかなかドライな世界が「グローバル」の現実なのではないか。「あることが望ましい」とか「切り捨てるべきではない」というような綺麗事それ自体は議論する以前に絵空事で、その議論とは無関係な利害の一宣伝材料でしかない、のではあるまいか。
国籍とは人の属性だ。しかし、その「国」が無くなってしまったら、その国籍の人は存在しているのに存在しないことになってしまう。「有」「無」のタグで「無」が付いたので社会から排除される。デジタル処理として何の不思議もない。世界に本当のところは何人の人間がいるのか知らないが、おそらく世界人口約79億人の圧倒的大多数は「有」の方なので、無国籍は大勢として問題にはならないのだろう。だから社会としては無国籍の人は存在しないこととする。それでいいのか?釈然としない。
本書には陳先生ご自身のことも含め、さまざまな「無国籍」の事例が紹介されている。「国」というのは巨大な組織が簡単に現れたり消えたりしない、という前提で、おそらく大勢の人が生きている。しかし、ある日突然「国」が誕生したり消滅したりするのは歴史上の現実としてある。現実というものは個人の事情を勘案したりはしない。
本書によれば、無国籍が生じる原因は様々だ。
旧ソ連や旧ユーゴスラビアなどのように、国家の崩壊、領土の所有権の変動によって無国籍になった人もいれば、私のように外交関係の変動が原因で無国籍になった人もいる。また、国際結婚や移住の末、国々の国籍法の隙間からこぼれ落ちて無国籍となった子どもたちも存在する。日本の場合、具体的にはかつて沖縄に多かったアメラジアンや、1990年代以降に増えたフィリピンやタイからダンサーとして来日した女性と日本人男性との間に生まれた婚外子がそうだ。ほかにも、ロヒンギャなどのように民族的な差別の結果、無国籍となった人々、そして行政手続きの不備など、無国籍者が発生する原因は実に多岐にわたる。
15頁
本書は無国籍という具体的事例を扱ったものだ。しかし、国籍というものを人間の属性を表現するタグ付けの問題として捉えると、話はとんでもなく深く恐ろしいものに見えてくる。「国籍」というタグを「XXX」に置き換えてみると、という発想で自分自身が抱えていること、自分の身の回りの人が抱えている問題を捉えることができるだろう。そして、その問題はそもそも解決できるのか、というところにまで思いが至るはずだ。その時、、、ということなのである。
社会を生きる以上、その仕組みに自分を適応させないわけにはいかない。現実を明快に分析して、個々の課題や問題を明らかにすれば自ずと解決は見える、そのためにこれをこうしてああして、、、とロジックで物事が全て片付くとの考えはよく耳にする。また、そういうことが「価値創造」だと信じている輩もたくさんいるだろう。しかし、生身の現実というのは本当に「有」「無」とか「0」「1」とかで割り切れるものなのか、割り切らないといけないものなのか。割り切って「解決」したら幸せになるのか。
宮本常一 『民間暦』 講談社学術文庫
本書は1985年12月に初版が発行されたが、本書に収載されている論文は戦前に書き記されたものが中心である。宮本の著作はフィールドワークが基礎になっており、日本の津々浦々で宮本自身が採集した話をまとめている。
以前に山梨の農家から野菜の定期便を買っているという話を書いた。いわゆる有機農法で、自然の周期や耕作に伴う地力の変化に合わせて野菜や米を作っている。農家自身が自給自足を目指しているので、様々な種類のものを作っている。販売にはいくつかの選択肢があるのだが、我が家は1週間おきの配送を選択している。昨年の最終便が12月第2週に届いた。今年は6月第1週に最初の便が届いた。約半年の間は販売に足る収穫がないということだ。おそらく、農業に縁の無い人の中には「定期便」と称しているのに1年の半分「しか」届かないのか、と思う人がいるだろう。私は学生時代に畑仕事をするサークルに属し、現在の家人には米作を営む親戚もいるというのに、昨年12月に「今回が年内最終です」という野菜に添えられた近況報告兼請求書に「次回は来年5月頃」とあるのを見たときに「えっ」と思った。しかし、「えっ」と思う方がどうかしている。農作物は「ポチッ」とはできないのである。スーパーなどの小売店では一年中豊富に生鮮食品が並んでいる。それはどういう事情で可能なのかと考えると、少し恐ろしかったりする。つまり、農業とか食糧の生産という視点では、時間の流れは均質均等ではない。作物の生育に応じた「暦」があるはずだ。
暦はなぜ必要なのか。時間に秩序を与えるため、とでも言えばよいのだろうか。今は世界共通の暦があって、たぶん誰もが何の疑いもなく使っている。当然の前提として共通でないといけない。それぞれが勝手な暦を使ったら交渉事ができない。人と人との交渉が成り立たないといことは生活ができないということでもある。少し前にコンピュータの「2000年問題」というものがあったが、暦がバラバラだと特定の年限の問題ではなく「毎日問題」になってしまう。しかし、少し時代を遡れば、地域ごと、職業ごと、その他の集団ごとの暦があった。
やはり、基本になるのは生命を支える食糧の生産や確保に絡むものだろう。農耕なら農作物の生育に合わせた、漁撈狩猟なら獲物の行動に合わせた時間の秩序がある。人間の暮らしはそういうものに合わせて営まれていたはずだ。春になれば花が咲き、夏になれば実を結び、秋になれば実が熟れて、冬は静かに次の春に備える、というようなざっくりとした周期があり、またそういう周期に合わせた種々雑多な生命の営みがあり、そうした大きな流れの中に人間の暮らしもある。その周期に目盛を振ったのが「暦」なのだろう。
当然、周期には振れもあれば、突発的な変化もある。今よりも「科学」が未発達な時代においては、そうした予想外のことは「神」の仕業ということにしてブラックボックスとしないことには「秩序」の説明がつかない。ブラックボックス、つまりそこにいる誰にもわからないことについては、そこにいるみんなの共同責任で決め打ちして前に進まないことには生活が成り立たない。そこに村落共同体の季節の節目の行事が生まれる。節句の祭りは「祀り」、本来は神意を問う行事で、「お祭り騒ぎ」というような単なる羽目外しではなかった。
日本の四季は、二十四節気に細分化され、そこに雑節と呼ばれる補助的な節目が入る。また二十四節気を各3つずつに細分化した七十二候と呼ばれるものもある。今は二十四節気も国立天文台が太陽黄経に基づいて算出した日時を公表しているが、もとは人々が天体や身近な自然の変化を観察して推計していたものだろう。
今、地球の周りをいくつもの気象衛星がぐるぐる回り、地球上にはいくつもの気象観測施設があり、日進月歩で高性能化著しい電子計算機がフル回転して観測データの解析を行う、という具合に人類の叡智を総動員するような体制で天気予報をこしらえているが、それでも直前になって後出しジャンケンのように予報が頻繁に修正される。ましてや、大昔ならば「神」に登場していただかないことには先々の天候や農作物の生育の予想など語ることができなかっただろう。
今、「花見」といえば桜を愛でることで、その桜はソメイヨシノであることが多い。ソメイヨシノは江戸時代に江戸府外の染井地区に集住していた植木職人たちが接木で生み出した品種であることはよく知られている。いわゆるクローンなので、花は咲いても実はならず、接木でしか増殖できない。生物としてはなんとも不気味なものなのだが、それを我々は「サクラはいいねぇ」と愛でるのである。その花見はかつては文字通り「花」の咲き具合からその年の農作物の出来不出来を「予見」する行事だったという。仏教の灌仏会も同じような時期なので、ひょっとしたら何か関連があるのかもしれないが、仏教が農村に浸透する時期は日本の集落形成よりもずっと後のことなので、初めらから関連していたはずはないだろう。ただ、だいぶ古い時期から枝垂れ桜は神降臨の木のひとつとされており、霊地に植えられることが多かったようなので、神意を問うことと桜の花見は何か関係があったのだろう。その民族としての記憶が現在の花見に通じているのかもしれない。たとえ、その花がクローンであるとしても。
今月は京都の祇園祭だ。かつては旧暦6月に行われていた宮座の神事だ。宮座というのはその土地の神社を中心にした集落の単位で、宮座の行事を司るのは構成員の間で選ばれた者であった。神社といっても神職が定められて専門職となったのは近世以降のことらしい。神社は宮座の村民全員の共同責任で管理されていたのである。その際、年齢がものを言うことが多かったようで、やはり経験は尊ばれた一方、若者は実際に労働の中核を担う点で大きな発言力を持っていた。「お祭り騒ぎ」というと今は語感として単に賑やかさが強調されているように思うのだが、宮座というものが機能していた時代には、参加するひとりひとりが当事者意識と緊張感を持った真剣な行事だった。このことは、それだけ宮座というものの共同体としての一体感が強かったということでもあり、それだけ排他的でもあったということを示唆している。「他所者」という言葉が今でもあるが、これは宮座の構成員に対する非構成員を指したもので、その宮座の行事への参加資格がないという意味であった。
しかし、時代が下って人々の往来が活発化し、村落共同体での他所者の割合が大きくなると他所者抜きでの村落経営が困難になる。かといって他所者という扱いを止めると、村落の共同意識が希薄にならざるを得ない。現実に、明治になって「村落共有」という所有権のあり方が認められなくなり、それまでの共有物が構成員個人の所有に分割されると、つまり、個人所有が原則となると、共同体意識そのものが急速に希薄化することになる。文明開花で人々の科学技術の知識が高まるとともに、神仏への信仰は薄れざるを得ない。それまで村落構成員の間で選出していた神職が専業となって職業となり、予言・卜事であった節句の行事は単なる祭りになる。「神」は信任を失い、人々にとっては他人事になる。神事が他人事になるということは、それを維持するにはエンターテインメントである必要が生じる。神事でガチに占いをしていたのでは、占いに来た人の気分を害することにもなりかねないので、神事は寿ぎ専門になる。ここで注目すべきは、食うためには人の気分を害してはいけない、という現実だ。「予言」はあくまで「祝言」でなければ神職が職業として維持できないのである。
今、暦は万国共通のグレゴリオ暦だ。万国共通でなければ現代の生活は維持できない。それは、人間の暮らしが国境を超えてつながり合っているということかもしれないし、自分個人のことにしか関心がないので、暦は暦専門家にお任せ、ということなのかもしれない。
「専門家」にお任せ、というのは暦だけのことではない。物事が細分化されて「専門家」とか「プロ」とやらに任せることばかりになった。それは要するに生活のあれこれを他人任せにして、自分は己の目先のささやかな利害にのみ専心できるようになったということだろう。誰もが幸せになってけっこうなことだ。
よく仏像の美術的な話で運慶・快慶が登場する。美術史のことは何も知らないが、個人的な印象として運慶・快慶以前と以後とで仏像表現が全く違ったものになっている。運慶・快慶の登場を機に仏像の人体表現のリアリティへの追求姿勢がグッと強くなった気がする。それはなぜだろうと常日頃から思っていた。当然、造形技術の進歩というような事情はあるだろう。しかし、物事は、作ろうと思わなければ、できないものだ。リアルに作ろう、本物の人物のように作ろう、という意志があればこそ、そういうものができるのである。なぜ、そんなことを思うようになったのだろう?
例えば仏教が伝来した頃の宗教は今のそれとは違うものだっただろう。はっきりと説明できるものと空想や妄想を交えないと説明できないものとが渾然一体となったもの、今で言うところの「科学技術」と「宗教」が渾然一体となったものが当時の宗教であり仏教であったと思うのである。そういう場においては仏像も神像もアイコンでよかった。造形の精密さ緻密さは要求されていなかった。「神とか仏というものがいて、それが…」と語るときに存在をイメージできれば事足りた、のではないか。法隆寺をはじめとする奈良の古刹の仏像が、どこかユーモラスにすら見えるのは、造形技術の限界もあったには違いないだろうが、人々が仏像というものに求めたものがそういうものであったということではないか、と思うのである。
もちろん、興福寺の八部衆像や十大弟子像のように天平の作とされながらも生身の人間を写したようなものもある。南都焼討以前から存在しているこれらの仏像を見れば、リアリティの追求が本格化したのは運慶・快慶以降だというのは誤りであると言える。しかし、敢えて言いたい。
私は人の脚が気になる。脚フェチだ。変態と言われても否定できない。今年3月1日から5月8日にかけて東京国立博物館で「空也上人と六波羅蜜寺」という特別展が開催された。本展では空也上人像が360度どこからでも見えるように展示されていたので、舐め回すように拝観することができた。そのとき目を引いたのは後ろ姿の躍動感とふくらはぎの艶かしさだった。私はその背面からしばらく離れることができなかった。
空也上人像は運慶の四男である康勝の作とされている。それまでなんとなく、仏像は運慶・快慶から変わったなと感じていたのが、空也上人像の後ろ姿、特にふくらはぎを見たときにそれが確信に変わったのである。空也上人像は以前に六波羅蜜寺で拝んだことがあるのだが、他の仏像と並んで正面からしか見ることができず、後ろ姿や脚がよくわからなかった。東京国立博物館での展示には何度も足を運んでしまった。
本書の「神送り」という章の中に次のような記述がある。
高野山は諸社寺のなかでもっとも広い荘園をもっていたが、その初めには源頼朝の寄進にまつものが多かった。これは壇ノ浦合戦に亡びた平氏の霊をなぐさめる心からであって、寄進せられた荘園も平家の領有だったものである。
220頁
源平合戦というのはよほど大規模なものだったのだろう。それによって時の天皇が入水するとか、源頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開くとか、日本史の画期となる出来事だ。南都焼討の後、親平家派の高倉上皇が崩御し、続いて平清盛も高熱を発して死去したことから、平家に対して仏罰が下されたとの噂が市中に広がったらしい。実際には、たまたまそういう時期が重なっただけだったのだろうが、世情としては、やはり死者の鎮魂は残された者にとっての必須の事業であったことだろう。寺社への寄進や寺社あるいは仏像の建立は、戦乱後の統治者にとって自己の治世を安寧なものにする上で欠くことのできない事業と認識されていたとしても不思議はない。南都焼討のときああいうことになったのだから、平家滅亡の今、これでもかというほどに彼等を供養しなければ、という意識が権力を握った側に生じたとしても不思議はない。それが例えば仏像の精緻化にもつながっていると思うのである。
ちなみに、南都焼討後の復興事業の中で、源頼朝は東大寺の再建に尽力している。大仏殿の落慶供養には後鳥羽天皇とともに臨席し、その後、復興事業のほぼ最後に南大門も再建された。南大門の仁王像は運慶・快慶のほか定覚と湛慶が加わり、現在の山口県内から用材を調達して造られたという。興福寺の方は朝廷、藤原氏が中心になって復興された。
空也上人像のふくらはぎを絶賛しておいてこんなことを言うのもなんだが、運慶・快慶以降の仏像は、仏師の我(どうよ、って少し威張った感じ)が感じられて好きになれない。信仰ではなくゲージュツになっている気がする。ゲージュツは少し下品だ。
宮本常一 『ふるさとの生活』 講談社学術文庫
読者に小中学生を念頭ににおいて書かれたものらしい。語り口は平易だが、内容の濃さに変わりはない。むしろ、民俗を学ぶことの目的が明瞭にされていて、宮本の考えるあるべき姿がわかる気がする。
結局のところ民俗というのは生活の道具、風習、行事などから人と人との関係の在り様の表現であるようだ。宮本の著作は彼自身が足で集めた見聞に基づいているので、それを以て「日本の」と語るには漏れが多いかもしれない。しかし、現実に様々な地域の人々が往来し交渉することでこの国がひとつのまとまりとして機能しているのだから、少なくともサンプルとしては十分に意味のあるものだと思う。
この国の成り立ちを考えれば、現在の西日本が生活の歴史の中心であって、関東は辺境の地だ。人々が安住の地を求めて開拓、殖民をしながら東へ東へと生活圏を拡大する中で、その集団の中心も東へ移動し現在の姿になったのだろう。そうした流れがあれば、人と人との関わりの歴史とか濃さのようなものは、西が濃くて東が薄くなるのは当然だ。民俗にしても、西は生活の必然から生じたものが、東は形式が移植される形で広がっているという面は多少なりともあると思う。
大地の歴史、地質面の歴史も無視できない。いわゆる温泉場、湯治場と呼ばれる場所が国内至る所に分布している。それと表裏のことだが、火山と地震が多い。つまり、大地が概ね火山灰質で土地の生産力、地味という点では決して恵まれてはいないのである。日本列島全体が大陸プレートの辺縁に位置しているのだから、地殻変動が活発であるのは当然だ。しかし同時に大陸と大海の境に位置しているので、海流と大気の動きは複雑になりがちで、水には恵まれている。大地が比較的若く地味は良くないが、水が豊富で四季の変化がある、ということは民俗と大いに関係する。
そういう大地を切り拓いて食糧を生産し生活を立てていくには、開墾という土木作業にせよ、農耕という生産活動にせよ、共同作業がどうしても必要になる。その上、食以外に住居や衣類の用意もしないといけない。個々の家屋や衣服は個人でもなんとかなるかもしれないが、森林の伐採と運搬といった用材の確保にはやはり共同作業が必要になる。
共同作業に従事する人々の間で能力に大きな格差があると作業は捗らない。「一人前」という言葉があるが、これは共同作業に従事する一人として十分に足る能力を備えている、というのが元の意味である。共同体の構成員の「一人前」として認識されることが、その共同体の中で生きる場を得ることでもある。
しかし、個人の能力には自ずと差異がある。本人の努力は当然として、共同体として「一人前」を育成する相互扶助のようなことも必要になる。それが家族という集団であったり、師弟という擬似家族関係であったりする。「家族」というと人によっては強い思い入れがある場合もあるので、運命共同体とでも呼んだほうがいいかもしれない。運命を共にするということは、構成員の間では互いが自己の一部であり、それぞれに抱える問題があれば、我が事のように真剣に解決策や対応策を考え合う間柄であるということだ。なぜ真剣になるかといえば、構成員全員がそれぞれに「一人前」として信頼できるものでなければ集団が機能せず、集団が機能しなければ自分が生きていけないからだ。
そうした共同体の一体感を確認し合う作業として祭りその他の行事やしきたりのようなものも存在したのだろう。今でも歴史の長い祭りや儀式にはそれなりの細かな手順などが決められているが、本来はもっと複雑で外部の人間には測り知ることのできないようなものであったのではないか。そういう複雑な手順を守って儀式に参加できることが共同体の構成員であることの証しとして機能していた側面もある気がする。もちろん、祭りには神事として吉凶を占うとか災厄を祓うというような目的も当然あっただろうが、それだけが目的なら手順や作法などを事細かに決める理由にはならないだろう。大事なことは、祭りや儀式そのものよりも、それらを取り巻く人の動きの中に確たる役割を得て参加することだったのではないか。
こうして社会の成り立ちを概観すると、今の時代は「一人前」の中身があやふやで、個人の側からしてもその自覚を持ちにくい気がする。これは現在の日常生活の中で他者と何事かを「共同」して行うという実感が乏しい所為であろう。
今の時代に圧倒的大多数の人が生活の糧を得るために従事しているのは賃労働だ。おそらくその圧倒的大多数の賃労働はそれによって得る賃金以外に労働の成果を実感しにくいだろう。もちろん、営業や生産現場のような付加価値の形成が目に見えるものもあるが、それにしても営業商材の生い立ちまでは十分に認識できているか心もとないところがあるし、生産活動の原材料や設備の詳細まで把握できているかどうかも怪しい。現に、感染症の世界的流行や地政学上の異変によってサプライチェーンが混乱をきたしているのは、そうした個々の詳細がきちんと把握管理されていない証左だ。
そもそも個人が自分の生活をすべて理解できるほど今の暮らしは単純ではない。そういう「高度」な生活を実現しているのは生産活動の細分化と合理化であり、その背景として学術・科学技術などの人間の知見知識の高度化専門化があり、生産性の向上が付加価値の増加と同義とされる社会の価値体系がある。我々個人はその細分化された世界を生きていて、自分の領域外のことは貴方任せにせざるを得ない。その細分化された世界のどれを選んで生活を立てるかというところは個人の自由ということになっている。例えば日本国憲法の第22条にこうある。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する
「自由」と言われても、思考の種がなければ選択肢が設定できない。その思考あっての自由であり、思考能力を担保するための教育が保障されていなければ「自由」はあり得ない。「自由」と「教育」は表裏一体だ。「自由」と「知性」が一体と言い換えることもできよう。教育は第一義的には個人を産んだ者の責任領域で、それを補佐するのが教育機関であり教育者だ。これらが健全に機能した上で、「自由」は価値を持つ。
法の下で我々には「自由」が保障されている。しかし、保障されている「自由」を享受できるか否かは個人の問題だ。当然のように「個人」が独立した存在として様々な権利義務を負うているように思われているが、我々はいつからそんなにしっかりとした存在になったのだろうか。先日、陳先生の国籍についての本を読んだ時にも似たようなことは考えた。ふと気になって憲法を読み直したらこうある。
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める
個人の権利義務は諸々あるが、根幹の一画を成すであろう「国民」としての地位は「法律でこれを定める」のであって、自覚するとか自分で決めるというものではない。改めて考え直すと、人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。自ら存在することを選択したわけでもないのに、「天賦」のものとして権利義務が発生する。しかし、社会の中での権利義務の主体性は「法律でこれを定め」られる。我々は一体何者なのだろう?そんなことを思い煩っている余裕もなく時間は過ぎていく。生活をしなければならない。
おそらく、もっと時間が緩やかに流れていた時代には、誰もがそんなことを思ったのではないか。だから、他人と共同して生きていく工夫を重ねてきたのではないか。それがいつのまにか、共同体が希薄になって個人が濃厚になったのではないか。しかし、個人が何者かという問いは取り残されている。尤も、私にとって取り残されているだけで世の圧倒的大多数は何事かを確信しているのかもしれないが。ただ、民俗の歴史を遡れば、今ほど「個人」が前面に押し出されている時代はない気がする。「ふるさとの生活」はもうどこにもない。
宮本常一 『庶民の発見』 講談社学術文庫
「民主主義」というものが錦の御旗のようになっていて、絶対的な善であると考えられているようである。先日、著名な政治家が暗殺された折にもメディアに流れた記事の中にこの言葉が頻繁に使われていた。事件から1週間近く経った時期にたまたま学生時代のゼミの仲間二人と私の3人で代々木の飲み屋でビールのジョッキを傾けながら話していた。その中で、あの事件は政治に象徴される世の中のカネの濁流の中で身包みを剥がされてしまった階層の逆襲であって、個人の話ではないよね、というような会話があった。そこでの「カネ」はいわゆる金銭だけを指すのではなく、金銭が象徴する諸々だ。少なくとも私はそのつもりで「カネ」というものを捉えていたし、それで会話をしていて話は通じている感じだった。
それで、事件についてのメディアの記事を読んだ時の違和感の筆頭は「民主主義」という言葉なのである。「主」となる「民」って何だろう?例えば学校教育の歴史で語られるのは社会の系譜であり、それは権力の系譜で代替されている、と私は思っている。各時代において圧倒的大多数を占めるフツーの人々こと、民俗に焦点が当てられることはまずない。信頼に足る史料がないので語りようがないということもあるだろうが、おそらくオカミの側からすれば語るに値しないということなのだろう。
今我々は「国家」という権力機構の中で生きている。国家に法規はあるが、現実の生活の秩序を律しているのは「社会通念」などと呼ばれる空気に毛の生えたようなものだ。組成を科学的に表記することはできるが、はっきりと意識することはできず、かといってそれなしに生きることはできない「空気」のようなもの。「国民」とか「人民」とか「民主的、民主主義」というときの「民」を律しているのはそういうものだ。もちろん、特定の信条をはっきりと意識して生きている人は大勢いるだろうが、それにしても社会の「空気」の中のことである。
おそらく圧倒的大多数の人々はその空気の中でその時々の権力や権威を感じながら暮らしている。どのように認識しているかは各人各様なのだが、その多様性にしても「空気」の圏内に収まる程度のものでないといけない。大気圏からはみ出すと社会的に窒息する。
このところその圏内圏外を意識させる出来事が続いている。感染症の世界的な流行を巡るドタバタであるとか、地政学上の大きな異変であるとか、今回の権力者の暗殺であるとか。幸か不幸か、今は世界中の人々が個人の意思見解を世界に向けて発信することができる社会だ。しかし、おそらく空気は意思表示の道具だけでは変わらないだろう。意思表示だけでは食べることはできない。
食べるためには、食べるものを生産しないといけない。食べるものを得るには漁猟採取や強奪という手はあるが、継続的に食糧を確保するには手ずから生産することが最も確実な方法だ。勢い、人々の暮らしは食糧生産を軸に組み立てられることになる。人一人の食い扶持を個人で生産することは至難だ。今日蒔いた種が今日実って収穫できるわけではないし、蒔いた種が勝手に収穫できる状態になるわけでもない。主食となるようなものは米であれ麦であれかなりの労働を投下しないと暮らしを支えるほどの収量にはならない。当然、集団で事に当たる。その集団には生産を軸に秩序が生まれる。そういう基本は圧倒的大多数が直接的な生産活動から遠く離れて断片化してしまった現代の社会秩序を考える上でも忘れてはいけないことだと思う。
農業が産業の中心であった時代、ある地域、共同体の生活はその土地の生産力によって規定される。つまり、人口は耕地の面積や生産力とバランスしていなければならない。しかも、自然の変動というものがあり、毎年一定の収穫があるわけではないので、共同体にはある程度の余裕がないといけない。その余裕も含めてのバランスが必要だ。明治になって統計調査が行われるようになる以前の人口史料は宗門人別改帳だが、これは江戸時代の寺請制度で整備されたもので、それ以前の人口推定は考古学の領域になってしまう。従って、「バランス」と言ったところで、それを計数として確認する術はないのだが、民俗上の現象としては間引きや出稼ぎにまつわる伝承で垣間見ることになる。
宮本の書いたものは聞き書きを元にしているので、そこで語られている時代がわからない。ある古老の話は江戸の昔に端を発するものであるが、同じ章の別の話は明治以降のことであったりする。本書をはじめとする民俗関連のものを読んで考えるところでは、明治に入りそれ以前に成立していた共同体が崩壊して個人所有の原理原則が導入されたことと、役人、軍人、商工従事者というような食糧に関する非従事者の割合が大きくなったあたりが時代の流れの大きな転換点になっているように見える。
明治維新は江戸幕藩体制の制度疲労と欧米列強の海外進出圧力に対する反応だったのだろうが、肝心の経済体制が確立できないままに今日に至っている観がある。鎖国体制と米本位制の中で、土地の生産力に見合う人々の暮らしというのは単純明快で、それが故に世界史に類を見ない江戸の長期に亘る泰平の世が実現したのだろう。泰平であるが為に非生産人口の増加と余剰生産物の流通に纏わる富の偏在が限界を超えて維新という社会変動をもたらした。しかし、欧米列強に倣う国家建設の為に非生産人口の拡大が加速し、維新に至る経済の破綻が解消しないどころか却って酷くなったのではないか。西南戦争はその矛盾の象徴で、それを機にインフレが昂進し、共同体の崩壊で頼るものを失った一般大衆の窮民対策が矢継ぎ早に打ち出されることになる。
ざっくりと言えば、「殖産興業」の名の下に新興の鉱工業が雇用をもたらすと同時に、北海道開拓とハワイへの移民が余剰人口を吸収する形になった。さらに、移民先はハワイから米州へ、さらには中国大陸へと拡大する。戦争を経て移民の中身や渡航先に多少の変化はあったものの、国家事業としての海外移民は1970年代まで続くのである。
また、西南戦争以前に「富国強兵」として徴兵制による雇用創出があるが、「雇用」として成り立つには、つまり、軍隊が付加価値を生むには、戦勝によって対戦相手から賠償や領土を獲得しなければならない。もちろん、軍事は社会維持の固定費であって、社会全体の付加価値の中で負担すべきものなので、個別直接的な付加価値生産を要請すべきものではないとの考え方もある。おそらく「GDPの◯%」という軍事費の枠の設け方にはそうしたものがあるのだろう。しかし、資本の原理からすれば、投下したものに対するリターンは当然期待されるものだろう。
いわゆる社会の「高度化」で、人の暮らしが単に食べることだけから離れて細分化専門化されてさまざまに広がった。時間を巻き戻すことはできないし、知ってしまったことを知らないことにはできないし、経験したことを無かったことにはできない。宮本が集めた民俗資料やそこから考察から人の姿を考えることができるが、それは過去においてそうであったかもしれないことであって「あるべき」姿というのではない。民俗を顧みれば、そこで志向されているのは個人の暮らしよりも共同体の存続だ。しかし、現在の姿は共同体としての価値創出や経済の循環がブラックボックス化する一方で個人の福利厚生が声高に要求されるというものだ。何が「自然」な姿なのかわからないが、人間の暮らしの中で培われてきた価値観や倫理観が説得力を持ちにくい社会になっているのは確かなことのように思える。かつての民俗の中に見出された「庶民」は、たぶん、今の時代にはどこにもいない。
1997年の今時分のことだっただろうか。仕事で廣済堂印刷株式会社の上場前施設見学会に参加した。同社は現在の株式会社広済堂ホールディングスの前身のひとつで、同年8月5日に東京証券取引所の二部市場に株式を公開した。社名が示す通り主力事業は印刷業だったが、施設見学会の会場は代々幡斎場だった。会社側の意図は今もって理解に苦しむのだが、その時の説明内容に照らして想像するなら、利益がどうこうということよりも社会に必要とされることを率先して行なっています、ということを訴えたかったのだろう。主に説明をされたのは当時の廣済堂印刷の会長であった櫻井文雄(義晃)氏と記憶している。
説明の中で強調されていたのは岸信介とのつながりだった。「岸先生からのお話で」とか「岸先生に」何かをして「差し上げた」という言葉が頻繁に出てきた印象がある。代々幡斎場を運営するのは子会社の東京博善株式会社である。斎場の経営も損得ではなく、そういう要請があったと言いたかったのかもしれない。たまたま同年6月に勝新太郎を荼毘に付したのがこの代々幡斎場で、施設の説明の中で、「先日、勝新太郎さんを焼いたのはこちらの窯です」と言われた。「表の飾りは少し変えてありますが、窯そのものは他のものと同じです」とも言っていた。冠婚葬祭でよくあるランク付のことだが、そうしたものに関係なく窯自体は同じものということだ。その窯についても裏側に回って見学して説明を受けた。煙が出ないというのが特徴なのだが、都内の住宅密集地に立地して煙を出すわけにはいかない現実もある。同社が運営する斎場の中で、町屋斎場は京成本線の車窓から見ることができるが、代々幡も似た感じの構えだ。上場予定企業の施設見学会としてはかなり風変わりなものであったので、いまだに記憶に残っている。
人を動かすのは、結局のところはカネなのだろうか。今の世間は共同体が崩壊して個人がバラバラに存在するようになっているので、バラバラの個人同士を繋げるものがカネしかないのが現実ではあるのだろう。ナントカ先生はカネで権威と権力を維持し、そのカネを提供する側はそれによって利権や利得を得る、という個別具体的な名前を聞かされると自分とは無縁のことのように感じるが、その権力や利権の流れの中に人々の暮らしもある。感じるか感じないかというだけのことだ。
先日の暗殺事件に関連して或る宗教団体の名前が言及されている。Wikipediaで検索して、そこに書かれていることを追ってみたら、こんな記述があった。
文鮮明は自由民主党の安倍晋三元総理大臣の祖父である岸信介と盟友であり、1950年代から日本の政界と協力していた。岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた。神田外語大学の民族主義運動の専門家であるジェフリー・J・ホールは、統一教会は岸信介の時代から日本の保守政治に関与してきたと指摘しており、国際勝共連合などと共に日本の反共産主義運動や右派運動といった、日本の右傾化の歴史に根深く関与してきたとしている。
Wikipedia
ああいう物騒な事件に関係するようなことは何も知らないので、興味の向かうままにネットで検索をした。そこに書かれているのがどの程度信頼に足るものなのか知らないが、特に驚くようなことには出会わなかった。岸信介は満州に赴任してから大きな額のカネを動かすようになったらしい。岸は満州を去るとき、こんな言葉を残しているそうだ。
「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」
Wikipedia
満州で何があったのか、というような幅広のことはネットで検索してどうこうなるものではないだろう。岸と時期は重ならないが、文鮮明を巡るキーパーソンの一人である朴正煕も満州国軍の将校として終戦を迎え、そこから韓国国軍に加わり、ああなった。
宗教あるいは宗教心は人々の暮らしに根付いている。特定の信仰が無い人でも亡くなれば葬式をあげ、子供が生まれればお宮参りに行く人もいるだろう。七五三の時期には神社は賑わい、初詣で大勢の参拝客を集める神社もある。日本各地に残る祭りは宗教行事に由来するものが多い。但し、古来の行事はそれに関わる共同体の構成員が総出で、あるいは輪番で執り行うもので、宗教専従者が一般的になるのは鎌倉時代あたりからだそうだ。奈良や京都の古寺には朝廷ゆかりのものが多いが、それは政教一体の時代のものであって、一般大衆の信心とは別物だと思う。今でも古い集落で一番大きな建物が神社仏閣というのは少なくないが、現実の生活の不確実性をいやというほど経験していればこそ、神仏の加護を無視するわけにはいかないという想いがそういう具象を求めるのだろう。
庶民の世界ではこうした窮迫はあたりまえのことであった。だから腕っぷしのつよいものは盗賊などして生計をたてたのである。しかし、自らにそれほどの力がなければ、何ものかにたよらざるをえなかった。神仏に霊力があるものならば、祈ってその利生にあずかろうとする者も多かった。『日本霊異記』にはじまって、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』などの多くの説話文学に神仏の利生談の多いのは、仏僧や神に仕える者たちが、庶民の気をひいて、貧しい者たちの懐をねらおうとしたためであろうが、『今昔物語』に見える長谷寺観音にもうでて利生を得た男の話は、そのままといってよいほどのかたちで『宇治拾遺物語』にものせられており、それがさらに「藁しべ長者」の名のもとに現在日本各地にひろく分布しているほど、民衆にも魅力があった。まずしい者が神仏にいのって財産を得られるというのであれば、これにすがるほどよい招福の方法はない。
『庶民の発見』37頁
祈るのは、やるべきことをやり尽くした後のことであるはずだが、人は易きに流れる性向を持つ所為なのか、善良な者が言葉巧みに丸め込まれる所為なのか、順番があべこべになって貧困に拍車がかかることもある。いわゆる「うまい話」というものは幻想なのだが、貧困に喘いで気持ちまでが弱くなったところに巧みにつけ込む輩の技が一枚上手なのか、信者が低所得者に偏っている宗教もあるらしい。
そうした信者層をうまく取り込めば、政治家にとっては安定した支持基盤にもなり得る。「民主主義」は数がものを言うのである。多数派が正しい、という論理を前提とする仕組みの下では、政治は宗教と結びつくことになる。また、祈ることや信心の表現として金品の供出が要求されるのなら、信者の所得や財産の多寡と宗教の集金力は必ずしも比例しない。貧困層の集団が多額の資金を供給するのは決して非現実的なことではないのである。
和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART6』 国書刊行会
外国の映像作品を観て、面白いとか楽しいと思うことは当たり前にあるし、日本の映画が海外で賞をもらったりするところをみると、日本のものも外国で受け容れられているだろう。風土や文化の違いというのは超え難いほど大きいと感じられることもあれば、そういうことを超えて同じ種類の生き物として共感できることもある。
本書は主に外国映画を取り上げ、そこで語られる台詞をネタにまとめられたエッセイのようなものだ。その台詞は邦訳なので原語の本当の意味に必ずしも即していないのだが、映像の尺に合わせながらも映像のエッセンスは十分に伝わるよう翻訳者が工夫を凝らしたものであるはずだ。そう思うと、翻訳あるいは翻訳者という仕切りを挟みながらも、文化の違いを超えた人間社会共通の価値観のようなものを感じないわけにはいかない。本書ではそこからさらに和田誠という人の頭脳を通して加工された何事かが語られている。
それを読んで自分が何事かを感じたり考えたりする。観たことのない作品のことであっても、いろいろ思うところはあるものである。ましてや、観たことのある作品ならばなおさらだ。
「齢と共にワインのように立派になると思っている奴もいる。だが酢になるのが現実だ」
114頁 『パルプ・フィクション(原題:Pulp Fiction)』1994年
アメリカ 監督:クエンティン・タランティーノ
言わんとすることはわかるのだが、酢も良質なものになるとかなり高額で気軽に買って使えない。それに安物であっても酢は健康に良い。個人的には、中華料理屋で焼そばを食べるときに酢をたっぷりかける。もう何十年も前のことだが、現役の頃は残業の多い仕事だった。当たり前に残業食をいただいていた時のこと、職場近くの中華料理屋で上海焼そばを注文した。テーブルの上に備え付けの調味料を少し足そうと思い、酢をかけた。たまたま何かの弾みでドボドボと出てしまった。これが大変旨かった。以来、焼きそばにたっぷりの酢というのが自分の中の定番のひとつになった。だから、この台詞の言わんとすることはわかるのだが、酢を粗末なものとして表現することには抵抗を感じる。
タランティーノは私と同世代だ。同じ時代を生きてはいても、同じ空気を吸っているわけではない。アメリカの嘘みたいに安い食料品が流通する環境下で暮らしている人には、酢の尊さがわからないかもしれない。台詞の意図に反して、私は齢と共に酢のような人になれたらいいと思う。
「あいつは頑固爺いだ」
「頑固爺いは好きだ。生きていれば俺もそうなるよ」
224頁 『拳銃の町(原題:Tall in the Saddle)』1944年
アメリカ 主演:ジョン・ウェイン
自分としてはそういうつもりはないのだが、現実としてはあとは死ぬだけという年齢になった。酢のような人間であるか、頑固爺いであるかは本人ではなく周りが決めることだが、なんとかこうして暮らしていられるのは、結局のところは何事においても目立たなかったからだと思う。
「お前は意気地なしだ」
「おかげで長生きしている」
66頁 『マーヴェリック(原題: Maverick)』1994年
アメリカ 主演:メル・ギブソン
生計を立てるのは容易ではない。かといって稼ぐことに執着すると精神的には窮乏の度が増す。
「金がすべてじゃない」
「腹がへってない時はな」
70頁『地平線から来た男(原題:Support Your Local GunfighterまたはLatigo 本書では後者)』
1971年 アメリカ 映画『用心棒』とそのリメイク『荒野の用心棒』をパロディ化した作品
監督:バート・ケネディ
似たような台詞はよく聞くが、その通りだと思う。金に縁がないので、金がすべてじゃないと思わないわけにはいかないし、金があったらどうなのかと思わないわけにもいかないのだが、次のような台詞を聞くとなんとなく安心はする。
「金ができると俗物が集まってくる。いつのまにか車を買わされる。車を買えばガソリンに税金に違反の罰金だ。払うために働くハメになり、自由はなくなり、自分も俗物になるんだ」
158頁 『群衆(原題: Meet John Doe)』1941年
アメリカ 監督:フランク・キャプラ
「車」は何かの象徴であろうが、資本の論理とか市場原理とかいうものの下にある社会とはこういうものだ。それいいか悪いか、好きか嫌いかはともかくとして、そういうものだ。『群衆』という作品は戦中に作られたコメディで興行面でも大ヒットだったそうだ。戦争をするのだから「挙国一致」はどこも同じはずなのだが、何かというとつまらない決め事で縛りをかけようとする社会と、人の思うことはどうすることもできないとある程度の自由を許容する社会の違いはある。寛容の度合いの違いはその社会の力量の違いでもある。こういう余裕のある相手と戦争をして勝てるはずがないと、今だから納得できる。喧嘩をするときは相手をよくよく選ばないといけない、というのは個人の暮らしにも通じることだ。今は、感染症のこととか地政学上の異変のことが無いとしても、なんとなく窮屈な感じがする。それはたぶん、物事が過剰に理詰めに傾いている所為ではないだろうか。素朴にいいと思うことを「いい」と言えず、好きなことを「好き」と言えない雰囲気があるように思う。理屈を語れない者が排除される嫌な感じがある。
「いい奴をいいと思うのは理屈じゃない」
182頁 『二十日鼠と人間(原題:Of Mice and Men)』 1992年
アメリカ ジョン・スタインベックの同名小説の忠実な映画化作品
「神を信ずる者には説明は不要である。信じない者に説明は意味をなさない」
210頁 『聖処女(原題:The Song of Bernadette)』1943年
アメリカ 監督:ヘンリー・キング
意味のないことに縛られず、目立たずに、静かに余生を送りたいものである。できることならば、だが。
今月29日に岩波ホールが閉館する。それに関連して過去の上映作品のことが話題になっているのをネット上で見かけたりする。私がこのホールで観た作品は上映時期の順に挙げると以下のようになる。
2006年
『家の鍵(原題:Le chiavi di casa)』
『紙屋悦子の青春』
2009年
『シリアの花嫁(英題:The Syrian Bride)』
『ポー川のひかり(原題:Cento Chiodi)』
『シェルブールの雨傘(原題:Les Parapluies de Cherbourg)』
『カティンの森(原題:Katyń)』
2010年
『海の沈黙(原題:Le Silence de la Mer)』
『コロンブス 永遠の海(原題:Cristóvão Colombo – O Enigma)』
2013年
『八月の鯨(原題:The Whales of August)』
2014年」
『大いなる沈黙へ—グランド・シャルトルーズ修道院(原題:Die Grosse Stille)』
このほかに岩波ホールで上映されたが、観たのは他の劇場という作品が1つある。
『亀も空を飛ぶ(英題:Turtles Can Fly)』
映画は作り物だ。作り物であるが故に、また、作る側の商売であるが故に、作り手側の諸事情を背景にした押し付けがましさのようなものはどうしても出てしまう。それを受け手の側に心地良いものとしてみせるのが作り手の仕事でもあるのだが、それは至難であるように感じられる。至難であるが故に、人気のある俳優のギャラが高額であったりもするのだろう。しかし、多分、ギャラと俳優個人の力量は比例しない。例えば、『亀も空を飛ぶ』に登場する人たちの多くが本物の難民で、この作品の興行収入もエンターテインメント界のビックタイトルに比べたら取るに足りないものでしかないだろうが、観る者へ与える影響の度合いがそうしたデジタルの値と比例するとは思えない。
たまたま先日読んだ陳先生の『無国籍と複数国籍』には『シリアの花嫁』のことが書かれている。陳先生は国立民族学博物館に勤務されていたときに『シリアの花嫁』の上映会を企画されたそうだ。その上映会で解説を担当した錦田愛子さんと一緒に2011年にゴラン高原を訪れたという。
私たちが村の中心部を歩いていると、店先で井戸端会議をしている男性たちが親切に声をかけてくれた。
「どうしてマジュダルシャムスへ来たの?」
「『シリアの花嫁』を見て、どうしても来たくなったの…」
「あー、あれはウチのことを映画にしてくれたんだよ」
「えっ?ほんと?」
なんと奇遇なことに、映画の題材になった家族に出会った。
陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書 278-279頁
映画『シリアの花嫁』でも描かれているように、ドゥルーズ派はいとこ同士で結婚する慣習があり、そのため、マジュダルシャムス村から網の向こうのシリア側へ嫁ぐこともある。イスラエルとシリアがお互いを認めていないため、村の人々は両地を自由に行き来することはできない。それぞれシリア側とイスラエル側で祝いの宴を挙げ、その宴の最後に花嫁が歩いて国境を渡る。一旦、シリア側に渡ると、次いつ故郷に戻り家族に会うことができるのかは分からない。国々の争いのもと、引き裂かれる運命にある家族たちがここにいる。
陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書 278頁
映画は映像「作品」。作り物だが、作り物であるが故に、現実の生活の何事かを雄弁に語ることができる。そして、人はたいして賢くはないということを自覚させる。その自覚がなければ、世の中は暮らしやすくはならない。これでいいと思ってしまったら、それまでだ。
岩波ホールで観た作品は数えるほどしかなかったけれど、どの作品も多かれ少なかれ、或る自覚を喚起するものだった気がする。
宮本常一 『家郷の訓』 岩波文庫
宮本の故郷である山口県周防大島の明治から大正にかけての生活誌。今読んでも生活が違いすぎて実感として迫ってくるようなことは少ないが、昭和に育った身としては、全く手掛かりがないというほど遠い世界でもない。これまでnoteで取り上げた宮本あるいは宮本関連の著作と内容に違いがあるはずもないのだが、本書は宮本の故郷というフィールドを限定したものなので、時代の様相の変化のきっかけのようなことがより鮮明に描かれている。
やはり明治維新による社会の混乱が人々の生活に与えた影響は大きいようだ。この時代、現在のように統計類が整備されていないので、各種研究を継ぎ接ぎし、社会事象の伝聞から推測するより他にどうすることもできないが、混乱していたことに間違いはあるまい。
まず、戊辰戦争に象徴される維新に関連した内戦がある。戦争は外部不経済であり、戦勝によって交戦相手から賠償を得ることではじめて経済的な価値を生む。しかし、内戦となると、賠償があるとしても自身の右のポケットから左のポケットに財貨を移すだけのようなもので、内戦中に発生した破壊消費蕩尽だけが残ることになる。その埋め合わせは、当座は外部からの借款が可能であるとしても、結局は緊縮財政と下々に対する課税強化によるしかない。破壊された後の復興需要、兵器の開発や生産に関連した技術革新と生産性向上、といった経済効果が期待できるかもしれないが、大量の戦死者戦傷者は生産要素の喪失であり、復興が完了するまでは、当然、国内経済は疲弊混乱する。
おそらく新政府に対する期待や思惑が政府内外で渦巻いていた。大蔵省は財政規律の確立を主眼に据えるが、大蔵省以外は新たな政策の立案実行に動きたい。新政府樹立直後でもあり、ここは政府として一枚岩で事に当たりたいところであったろう。しかし、そうはならなかった。
実質的に破綻した財政の下、明治六年政変と呼ばれるものが発生する。きっかけは征韓論への賛否だが、要するに新体制が立ち上がりで行き詰まった。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが参議を辞職。西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職。結局薩摩と土佐の出身者を中心に約600名の官僚や軍人が辞職した。これが明治10年の西南戦争につながる。戊辰戦争の余韻冷めやらぬうちの大きな内戦だ。これらへの対処と並行して様々な分野での近代化投資が行われる。出費は嵩む一方だ。国民生活への負担の皺寄せは想像を絶するものであったとしか思えない。
こうした状況の下、周防大島の人々はこのような変化を見せたらしい。
明治十年から十七、八年にわたる窮迫というものが、島の人たちの骨身にこたえて金をほしがるようにさせたらしい。これについてはそれを裏付けるような話がいくつもある。
29頁
「十七、八年にわたる窮迫」というのはかなり深刻だったはずだ。バブル以降の日本経済が「失われた◯年」などと言われたりするが、おそらくそんな生やさしいものではない。周知の通り、日本はその後、日清・日露の戦争当事国となり、結果としては賠償金や領土を獲得する事になるが、そうなっていなければどうなっていたかわからない。
戦勝と近代化投資による生産性向上で国内経済はようやく安定を得たのではなかろうか。そこに第一次世界大戦で欧州での生産が滞ったことによる需要の爆発的拡大が発生した。どのようなものでも、作れば売れたらしい。鯖の缶詰と称して石ころを詰めたものを輸出して富を築いた者もいた。これにより日本経済はそれまでに体験したことのないような好景気を享受した。持ち慣れないものを持つと使い方を誤るのもよくある話だ。おそらく人々の「自分」観は大きく変化した。
大正の好景気がかなり一部の人たちを華美にして来、飲食の上にも反映した。間もなくそれが村全体の風となった。その契機となったのは大正八年の米騒動ではないかと思っている。この時までは村では麦が最も多く食われていたが、米騒動によって外米が村にも入って来た。普通の日にまっしろな飯を食べたのはこの外米が初めてであったが、そのまま外米から内地米にかわってしまったのである。部落百戸のうち八、九割まではこの時に変わったであろう。そのように村の風習の変化には画然として境があった。
平生米をたべるようになると晴の日はいっそう華美になるのが当然であった。私の祖父は、
「米をたべるのはうまいが、これではお国がもつまい。」
と心配した。お国の持たぬまえに会食(ヨバレゴト)の方が費用がかかってもたなくなってきた。一方大正の好景気を境に、今まで田舎をまわっていた大工の多くが北九州や大阪などの都会に集中するようになってきた。すると旧暦は通用しにくくなって、盆正月には容易にかえれなくなってきたのである。
74-75頁
ここで「米騒動」について補足する。好景気を背景にそれまで贅沢品の象徴でもあった米の消費が増大する一方で、農村から都市部へ工場労働者として人口が流出し、生産力の制約を受けた農村では米の生産が伸び悩んだ。このため米の需給に変動が生じ、そこに投機熱も高まって米相場が高騰した。米の値段が上がれば、それに関連して物価全体が上昇する。物価の上昇は実質所得の減少でもある。好景気の恩恵から外れている一般庶民の生活は圧迫され、日本各地で暴動が起きた。本書の記述によれば、そもそも米はハレの場の食べ物で、一般の農民庶民が普段口にするものではなかった。
食物などにもきまりがあって、朝は茶粥と芋、昼は飯に汁、夕飯は昼飯の残りと粥または雑炊であった。飯は麦飯で、米が三分も入っていればよいほうであった。六十年前までは大根をきざみ込んだ大根飯を多く食い、麦粥を食う家もあった。麦粥は麦を炒って粥にたくのである。米をたべているとすぐ村の評判になる。「米の飯を食うと蜻蛉が蹴る」という言葉がある。
91頁
読んでいて、今の自分の食生活を反省した。本書にあるような庶民の食が標準であるべきとは思わないが、今が過剰であることは明らかだ。家人と相談して少し簡素化しようかとも思うのだが、言い出して後悔しそうな気もするのでまだ何も言っていない。
私の食生活はともかくとして、実際の生産活動とは関係なく生産物の対価が極端に上下するという経験は、おそらく当時の人々に大きな衝撃を与えたであろう。真面目に働くことが馬鹿馬鹿しいと感じた人が少なくなかったのではないかと想像するのである。維新を契機に個人所有という概念が社会の末端にまで行き渡り、村落共同体の価値観の根幹が揺らいでいた。幕末以来の社会経済の混乱もあり、それまでの暮らしに対する疑念も人々の間で強くなっていたはずだ。そこに賃労働者として資本の雇用を受けるという今までにはない生き方が現れ、しかもそれがある種の成功体験として捉えられるかのような事象が現出したのである。何かと喧しくその割に生活が苦しい農村共同体での生活から、なんとなく華やかで自由に見える都市での賃労働者としての暮らし、ひょっとしたらそこから自分も資本家や何者かになれるかもしれないと期待させるような世界へ、人が向かうのは当然であろう。
実際に、米騒動を契機として物価が上昇、さらに賃金も上昇し、結果として実質所得は増大する。米騒動対策で政府が米価対策費を計上して米価の沈静化を図り、米価は一旦は下落した。しかし、経済の大きな流れは変わらず、その後相場は上昇に転じて再び米騒動時の米価にまで戻るが、今度は暴動は起こらなかった。米騒動を機に社会対策として警察官の採用を増やしたとか、米騒動時の寺内正毅内閣が辞職して爵位を持たない衆議院議員であった原敬が首相に指名されて「平民宰相」人気が出たとか、米騒動後に世情が変化したという事情はあっただろうが、おそらく一番大きいのは、実質所得が上昇していて、表面価格が同じでも実質価値は米騒動時ほど高くはなっていなかった所為であろう。
米騒動の当時、既に株式取引所は稼働していたが、上場企業は少なく、上場株式の流動性も小さかったようで、投機資金の受け入れ先としては米相場ということだったのだろう。米騒動から70年後、いわゆるバブル景気を迎えるが、人の考えることや行動は米騒動の頃とそれほど違いがあるとは思えない。宮本の書いたものを読むと、村落共同体の社会から個人主体の社会になって人々の暮らしが孤独で厳しいものになったかのような印象を受けるのだが、果たしてそうなのだろうかと思うのである。
無論農村には大きな変貌があった。共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなることを幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。もともとそういう考えがなかったのではなく、物臭太郎の物語を夢見る人はあった。しかしそれは村人の感覚から言うと第二義的なものであった。こうして幸福の基準、理想の姿というものがかわってきた。がそれは、根本からかわったのではない。ただ時代の思想の混迷の中に、新たなる基準が見出せなかったのである。そして、基準を失ったということが村落の生活の自信を失わせることにもなり、後来の者への指導も投げやりになっていった。
196頁
人間てそんなに立派なものなのか、と素朴に疑問に思うのである。宮本の著作に関するものはこれでひとまず終わる。