スクーリングはグループワークを伴うことが多い。今回も7~8人のグループに分かれて与えられた課題についてグループとしての結論を出し、それを参加者全員の前でプレゼンをした。スクーリングは金土日の3日間だが、金曜日は主に講義に充てられ、土曜日はフィールドワーク、日曜はプレゼン、という日程なので、グループで活動する時間は数時間程度しかない。それでも、どのグループもそれなりにまとまったものを発表している。限られた時間で、その時間なりのものをつくりあげるということに意味が無いわけではないとは思う。同じ講義を聴き、同じものを見学した者どうしで、同じ課題について考えたときに、人によってどれほど違ったものを発想するかということを知ることも、知識や思考を深める上で大いに役に立つことには違いない。しかし、時間の制約が大きいなかで通り一遍のことに労力を費やすことは、スクーリングの在り方として果たしてどうなのだろうかという疑問もないわけではない。
全日制とは違い、通信課程の場合は学生の入学目的も入学以前の履歴も千差万別である。学校なので、当然、卒業して然るべき資格なり学位なりを得ようという人もいるだろうし、そうした名目上のことはともかくとして、知識や思考を深めてみたいという人もいるだろう。目的が一致していない集団で目先の課題を処理しようとすれば、そこに参加者間の軋轢や葛藤が生じるのは自然なことだ。参加者が社会人としての一般常識を持ち、余計な対立を避けるという行動に出れば、そうした葛藤を安易な妥協によって克服しようとするのも自然だろう。結果として出来上がるものは毒にも薬にもならないものであったりする。
グループワークの目的が、集団行動というものの特性を理解するというようなことなら、それでもよいのだろうが、違う見方が交錯するなかで物事の見えなかった部分に光を当てるというようなことを期するなら、参加者の属性にある程度の枠を与えないと、そもそも議論が成立しないということになる。時に、議論以前にコミュニケーション自体が怪しいというようなこともある。集団というものはそういうものだというのも現実の一面ではあるが、現実を確認するために大学というものがあるとも思えない。このあたりのところは、通信課程というものを選択する学生側も考える必要があるだろうし、学校側にも再考の余地はあるだろう。
グループワークのプレゼン内容だが、これまでの限られた経験から言えば、課題のハードルが高くなるほど内容が薄くなる。思考という行為は、本来的に個人的な営みだと思う。考えるべきものが大きなものであればあるほど、思考をまとめ、表明するまでの所要時間は長くなりがちだが、一方でカリキュラムの時間割によって発表する時刻は決められている。しかも、自分の思考をたたき台にして、他人の思考と比較対照したり、議論するというようなことができるほど、相手のバックグランドを知っているわけではないし、知る作業に充てる時間的余裕もない。盲衆象を撫でるが如く、噛み合わない話し合いが行われ、その上、相手の顔をつぶさないというような気遣いも暗黙のうちに行われる。結果として、深い思考や議論が求められる課題ほど通り一遍の薄弱な内容で妥協が成立することになる。それを象徴するのがプレゼンだ。わずか10分から15分ほどの持ち時間を、ひどい場合には7人とか8人というメンバー全員で分けて、ただでさえ内容の薄弱なものを細切れにして、余計に内容が希薄になる。しかも、殆どの人が原稿をつくって、それを棒読みにするということすら行われる。
おそらく、こうした現象は学校教育の個別具体的な現場の事情ではなく、我々が生活する社会のある側面が反映されているということなのだろう。ある事象に対し、その対処について熟慮する以前に、その事象が引き起こすであろう厄介事を回避すべく、対象を切り分けて自分が負う可能性のあるリスクに対して保険をかけ、リスクを分担できる相手を募って個別のリスクを低減して、対象事象を骨抜きにする、というのが社会で生活をするもののごく一般的な心得ではないだろうか。だから、そうした細分化や分散化で対応できる事象ならば支障は起こらないのだが、事が重大すぎて無闇に細分化できないようなこと、例えば原発事故のようなものになると、社会は機能不全に陥ってしまうのである。10分間のプレゼンを1人2分で分担して然したる中身のない原稿を棒読みにする思考と、制御不能に陥った原子力施設を持て余す思考も、根は同じことのように思われる。
全日制とは違い、通信課程の場合は学生の入学目的も入学以前の履歴も千差万別である。学校なので、当然、卒業して然るべき資格なり学位なりを得ようという人もいるだろうし、そうした名目上のことはともかくとして、知識や思考を深めてみたいという人もいるだろう。目的が一致していない集団で目先の課題を処理しようとすれば、そこに参加者間の軋轢や葛藤が生じるのは自然なことだ。参加者が社会人としての一般常識を持ち、余計な対立を避けるという行動に出れば、そうした葛藤を安易な妥協によって克服しようとするのも自然だろう。結果として出来上がるものは毒にも薬にもならないものであったりする。
グループワークの目的が、集団行動というものの特性を理解するというようなことなら、それでもよいのだろうが、違う見方が交錯するなかで物事の見えなかった部分に光を当てるというようなことを期するなら、参加者の属性にある程度の枠を与えないと、そもそも議論が成立しないということになる。時に、議論以前にコミュニケーション自体が怪しいというようなこともある。集団というものはそういうものだというのも現実の一面ではあるが、現実を確認するために大学というものがあるとも思えない。このあたりのところは、通信課程というものを選択する学生側も考える必要があるだろうし、学校側にも再考の余地はあるだろう。
グループワークのプレゼン内容だが、これまでの限られた経験から言えば、課題のハードルが高くなるほど内容が薄くなる。思考という行為は、本来的に個人的な営みだと思う。考えるべきものが大きなものであればあるほど、思考をまとめ、表明するまでの所要時間は長くなりがちだが、一方でカリキュラムの時間割によって発表する時刻は決められている。しかも、自分の思考をたたき台にして、他人の思考と比較対照したり、議論するというようなことができるほど、相手のバックグランドを知っているわけではないし、知る作業に充てる時間的余裕もない。盲衆象を撫でるが如く、噛み合わない話し合いが行われ、その上、相手の顔をつぶさないというような気遣いも暗黙のうちに行われる。結果として、深い思考や議論が求められる課題ほど通り一遍の薄弱な内容で妥協が成立することになる。それを象徴するのがプレゼンだ。わずか10分から15分ほどの持ち時間を、ひどい場合には7人とか8人というメンバー全員で分けて、ただでさえ内容の薄弱なものを細切れにして、余計に内容が希薄になる。しかも、殆どの人が原稿をつくって、それを棒読みにするということすら行われる。
おそらく、こうした現象は学校教育の個別具体的な現場の事情ではなく、我々が生活する社会のある側面が反映されているということなのだろう。ある事象に対し、その対処について熟慮する以前に、その事象が引き起こすであろう厄介事を回避すべく、対象を切り分けて自分が負う可能性のあるリスクに対して保険をかけ、リスクを分担できる相手を募って個別のリスクを低減して、対象事象を骨抜きにする、というのが社会で生活をするもののごく一般的な心得ではないだろうか。だから、そうした細分化や分散化で対応できる事象ならば支障は起こらないのだが、事が重大すぎて無闇に細分化できないようなこと、例えば原発事故のようなものになると、社会は機能不全に陥ってしまうのである。10分間のプレゼンを1人2分で分担して然したる中身のない原稿を棒読みにする思考と、制御不能に陥った原子力施設を持て余す思考も、根は同じことのように思われる。