熊本熊的日常

日常生活についての雑記

私は誰?

2014年10月24日 | Weblog

ネットバンキングからの不正送金が増えているとかで、銀行のサイトを開くと注意書きがやたらに増えた。ログインするにも一手間増えたり、毎回のようにパスワードの変更を求めてくるところもある。職場のシステムも頻繁にパスワードを変更するようになっていて、今や生活は何をするにもパスワード抜きには前に進まないと言ってもいいくらいである。本人の認証は基本的にはIDとパスワードの組み合わせだ。これら2つ情報を同時に知りうるのはそれらを設定した本人のみである、との前提だ。IDもパスワードも文字列なので、その気になればさほどの困難もなく盗み出すことができるという人は世間にたくさんいるだろう。なりすましによる犯罪の実務面における根本的な原因は、ひとりの人間を数えることができる程度の文字列に置き換えていることにある。つまり、ネットバンキングという発想には、なりすましによる不正利用が当然に含まれている。では、その防止策はあり得ないということなのだろうか。

人間は社会的な生き物だ。個人として独立して存在するのではなく、他者との関係のなかで存在を与えられ、そのことによって生命の維持に必要な財貨やサービスを獲得している。結果として名前と住所というような文字列情報で管理されてはいても、どこかしかに生身の人間どうしの関係がある。文字列情報はそれだけのものでしかないが、生身どうしの関係となると五感総動員で認識することが要求される。現実には他人になりすまして生活をするということが皆無ではないし、屍体が年金の受給を続けているケースはしばしば報道されている。しかし一般論としては、ある特定の人物になりすますというのは容易ではないだろう。例えば本人認証においても生体認証というものがある。指紋、声紋、虹彩といったものは個人毎に特有のものであり、他にも匂いであるとか雰囲気であるとか人工的に再現することが容易ではない要素が組み合わさり、そこに知性や感性というさらに再現が困難な要素も組み合わさって個人が存在している。少なくとも家族とか親しい友人という間柄においてはなりすましというのは不可能、であるはずだ。

ところが、例えばオレオレ詐欺の被害者は家族を語る容疑者に騙されている。多くは息子や娘を名乗る犯人がその親を騙して金品を奪っている。なぜ被害者は自分の子供を見抜けないかといえば、そこに生身の関係が無いからだ。被害者のなかには同居している家族を名乗る犯人に騙される人もいる。生身の関係というのは物理的な距離に拠るのではない。もちろんそうした人間関係の脆弱性に付け込んで不当に他人の財貨を奪うのは紛れもない犯罪行為である。しかし、被害者の側に全く落ち度がないとも言えないだろう。老齢で判断力が低下しているということはあるにしても、それ以前に家族という関係が崩壊しているのである。オレオレ詐欺のような犯罪が発生するような社会では、ネットバンキングでのなりすましなど当たり前に発生するのである。ネットバンキングというサービスを提供する側の責任として、対応可能な一通りの対策を打つのは当然としても、セキュリティ対策のソフトを配布するとか注意喚起の告知を行うことが根本的な対応策ではないことは明白だ。もはやサービス提供者と利用者という個別の問題ではないのである。身も蓋もない言い方をすれば、お手上げなのである。


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