
今でも夏休みの宿題として絵日記を書くというような学校があるのだろうか。自分が小学生のころはそういう宿題があったような気がする。日記をつけるというのは、意識的に自分の生活を観察するということでもある。自覚するとしないとにかかわらず、「自分」というものが今この瞬間だけの認識であり、時間が経過して過去の「自分」を振り返ってみれば「自分」だと思っていたものも結局は他人のひとりでしかないことがわかる。「自分」は一時の存在感であり、そもそも「自分」などというものはあやふやで本当にあるのかどうかすらもわからない幻想にすぎない、ということが日記をつけるとか自分自身を観察することでわかるようになるかもしれない。日記あるいは絵日記というものにはそういう奥行きがあるかもしれないということを考えるきっかけとして大変良い宿題だと、今は思う。
一昨日のこのブログに書いたように今月は丸々休暇である。今日、妻とのなんでもない会話のなかで、「夏休みなんだから絵日記でも書いたら」と言われた。街を歩いていて子供達の姿が目立つようになったので、そういう風景のなかでの会話で自然に出た話だったかもしれない。そういうわけで、今月は毎日このブログを更新してみようと思う。
ところで、今日はちひろ美術館に出かけてきた。「奈良美智がつくる茂田井武展 夢の旅人」という企画展を開催中で、妻がそれを観てみたいというのである。ちひろ美術館を訪れるのは2回目だ。初めて訪れたのは手元の記録によれば2006年6月だった。2005年4月から今の仕事になり、当時の職場でのシフトが16時から23時だった。昼間の時間が自由に使えたので、「ぐるっとパス」というものを買って暇にまかせて美術館や博物館を巡って歩いた。いわさきちひろの作品や人となりに興味があってというわけではなく、「ぐるっとパス」に載っていた先のひとつとして出かけたのだと思う。そういうわけなので、観たい企画や作品があって出かけるのは今回が初めてということになる。
平日の昼下がり、思いの外、見学者は多かった。しかし、その3割くらいは子供達で、なかにはメモを取っている子もいる。今の時期は都心の大きな美術館や博物館にも子供の姿は増えているのだろうが、こういう小規模のところのほうが熱心に展示を見ている風の姿が目立つ気がする。以前、夏に真鶴の中川一政美術館を訪れたときも、閑散としたなかで何人かの小学生と思しき子供達がメモを取りながら作品を見ていたのを思い出した。
自分が若かったら、果たして美術館や博物館で熱心に作品を眺めるというようなことをしただろうか。事実としてはそういうことはなかった。今、けっこう頻繁にこういう場所を訪れているのは表現という行為に興味があるからだ。
人は生まれたからには生きないといけないことになっていて、生きていくためには生活の糧というものが必要になる。糧を得るためには他人から自分というものを認識してもらい、そこに価値を見出してもらわないといけない。そのために人は己を表現しなければならない。今の社会にはそういうことがある程度システム化されていて、学歴とか職歴のような記号を得て、その記号を組み合わせてシステムに乗せてやるとある程度オートマチックに糧が得られるようになっている。しかし、システムに乗ることのできる時間には限度があるし、記号の有効期間というものもそれほど長いものではない。システムの内に居る間に糧を備蓄できれば多少の気休めにはなるかもしれないが、備蓄できる糧というようなものは限定されたものだ。当然といえば当然なのだが、生きている限りは生活の糧を得るための知恵を絞り続けなければならないのである。
そうした流れから外れてしまうと価値を産むということは難儀なことで、容易に糧を得ることはできない。その難儀なことを敢えて試みる手段として自分が作り出したものを世に問うということをする。そこにも社会のシステムとかプロトコルがあるのだが、既存の作法を超えて価値を創り出すことを「藝」と呼び、「藝」を産む主体や生み出した作品をひっくるめて「藝術」と呼ぶのだと思う。ただ、「藝術」というのは認知された後のことであって、それ以前は主体の意識とは関係なく「趣味」とか「遊び」などと呼ばれる。同じ行為が或る文脈においては「趣味」「遊び」つまり「消費」であって、別の文脈では「藝術」すなわち「生産」になる。「消費」から「生産」に転換するというのは、価値がマイナスからプラスになることだ。そういう相変換に原理原則のようなものがあるのか、あるとすればどのようなものなのか、作品を眺めているだけではたぶんわからない。しかし、考えてみるからわかるとかわからないという現象があるわけで、つまり、わからないということは、それはそれで楽しいことでもある。