熊本熊的日常

日常生活についての雑記

規格外

2010年09月29日 | Weblog
規格外のリンゴが2kg届いた。私にはどこがどのような規格から外れているのか全くわからない「つがる」だ。多少色付きが悪いとか、多少歪んでいるとか、小ぶりであるというようなことはあるが、そうしたことが商品として成立しないことになるような要素であるとは思えない。2つ食べてみたが、ほど良い実の締り具合と口腔一杯に広がる爽やかな甘さが調和していて、美味しい。これのどこに商品としての不都合があるというのだろうか、と思うような素晴らしいリンゴだ。

ロンドンで暮らしていたとき、スーパーに並んでいる果物や野菜類は、大きさはばらばらで、品質もけっこういろいろだった。それでも、ばらばらであることで不便や不都合を感じたことは無く、だからこそそうやって流通しているのである。

規格には、例えば工業製品のJIS規格や農林規格のJAS規格のように、それが無いとたいへん不便なものもあるのは事実だし、それが我々の生活を円滑にしている面は確かにある。しかし、それは単なる利便性のみならず、使う人の安全にも関わるようなことだからこそ存在意義があるのであって、闇雲に形や大きさを揃えているわけではあるまい。農産物を作るときに使用する農薬の種類や量のようなことについての規格は無ければならないだろうが、農産物そのものに関して美味しくて安全であるという以上に何が必要だというのだろう。

農産物以外にも我々の生活には無数の規格が様々な場面に使われている。果たして、それらの規格のなかで、本当に必要なのはどれほどだろうか。規格を設ければ、それを監視監督する組織が必要になる。そこで雇用が発生するが、それは同時にコストが発生するということでもある。コストに見合う以上の価値が、その規格を守ることで生み出されるものがどれほどあるだろうか。安全というのはそうした価値のひとつだろう。そう考えてみれば、世の中は無用の規格に溢れているのではないだろうか。

世の中に無用な規格が溢れているとすれば、我々の頭の中も無用な決め事で一杯になっているということだ。単なる習慣や既存の慣習に従っているだけで、自分では何も考えようともせず、なにか良いこととか真っ当なことをしているつもりになっている、というようなことが多々あるものだ。考えてみて、意味が無いという結論に達した習慣や慣習は無視してみるとよい。無視した当初は多少の波紋を広げてみるものの、結局何事も起こらないようなことは、無視しても差し支えないということだ。そうやって生活をシンプルにしていけば、生じた余裕でそれまで気付かなかったことを発見するかもしれない。それが自分の生活を大きく変革することになるかもしれない。大事なのは考えること、安易に権威に付き従わないこと。

ところで、今回は生の落花生も届いたので塩茹にして食べた。落花生は生を自分で茹でて食べるのが一番旨い食べ方だと思う。残念ながら生の落花生というのは、あまり流通していない。おそらく鮮度管理が難しいからだろう。今日の落花生は千葉県の八街産直会によって栽培されたものだそうだ。

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