万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国民に“二重思考”を強いる皇室問題の病理

2017年11月24日 10時50分27秒 | 日本政治

眞子さま、来年11月4日結婚式=納采の儀は3月4日
近年の皇室を見ておりますと、国民の多くが底知れない不安を感じさせる“何か”があります。それは、直感的に“何かが違う”と感じさせるものなのですが、今日の皇室問題を“二重思考”の観点から眺めますと、この違和感の本質に僅かなりとも迫れるように思えます。

 “二重思考”とは、ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場する独裁国家で行われている思考訓練のことです。一党独裁国家であるオセアニア国では、科学的で高度な思考方法と銘打って、相矛盾する事柄を同時に信じさせる訓練がなされています。党のスローガンは、“戦争は平和なり”“自由は隷従なり”“無知は力なり”の三つであり、まさにこの“二重思考”の欺瞞を端的に表しています。

 “裸の王様”の寓話に語られるように、権威者や権力者による国民に対する思考の抑圧や事実の糊塗という行為自体は、昔も今も変わりはありません。そして、“正直の否定”や“理性的判断の否定”が国民に精神的な苦痛を与えることは、凡そ誰もが認めるところです。この問題は、普遍的に人類社会が直面してきたとも言えるのですが、“二重思考”は、より詐術的な手の込んだ思考歪曲を試みているように思えます。

 “二重思考”が極めて厄介なのは、理屈を捏ね繰り回したり、特異な解釈を施したり、迂回経路を設ければ、“尤もらしく”聞こえてしまうことです。例えば、部分的な真の強調、別系統の価値の移入、虚偽・捏造の混入は、人々にそれを信じる余地を与えます。一つの対象に対して二つの矛盾する要素が併存する場合、人々の頭は混乱し、心的な苦痛を覚えるのです。完全に否定はできないものの、完全に肯定もできないという曖昧な状況は、人々を不安に陥れ、健全な心を蝕みます。

 皇室の現在を見ますと・・・“高貴は下賤なり”“伝統は革新なり”“皇室は外国なり”といった言葉が思い浮かびます。何れもが相互に矛盾しながらも、現皇室に内在しているからです。そして、“菊のカーテン”という情報隠蔽の道具によって、国民は、真実に辿り着くことができず、何時までも宙に浮いた状態に耐えねばならないのです。しかも、マスメディアは、二重思考訓練機関の如く、皇室礼賛番組や報道を流し続けるのですから、国民の不快感、不信感、さらには反感までもが否が応でも高まります。

 皇室が全体主義体制に近づき、日本国支配の一機関に堕してしまうとしたら、それは、もはや、古来、日本国民から自然なる崇敬心を集めてきた皇室とは異質のものとなりましょう。皇室をめぐる“二重思考”の苦しみから如何に脱するか、日本国民は、今、まさに正念場に差し掛かっているように思えるのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

にほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする