現フランシスコ教皇は、カトリック史上、はじめてのイエズス会出身の教皇です。‘偽善者’という異名をとるようにイエズス会と言えば悪名高く、近代にあって植民地支配の手先として活動した‘前科’もあります。日本国でも、本能寺の変の後、ある日本人がイエズス会士に対して‘あなたがたは本当は泥棒だったのですね’と語ったとも伝わりますが、イグナチウス・ロヨラによる同会設立当初から、イエズス会にはどこか異端、あるいは、犯罪の影が付きまとっております。
日本国にキリスト教をもたらしたのは、イベリア半島のバスク地方を出身地とするイエズス会士フランシスコ・ザビエルです。それでは、どのようにしてザビエルは日本国に上陸したのかと申しますと、殺人を犯したために‘お尋ね者’となっていたアンジローと云う名の日本人青年が、ザビエルの下に保護を求めて飛び込んできたからです。アンジローの手引きによってザビエルは日本の地を踏むのですが、この経緯から、既にイエズス会、あるいは、キリスト教の海外布教組織が、犯罪者を匿うとともに、犯罪者さえも組織の活動メンバーに迎え入れていた様子が窺えます。
そして、イエズス会発祥の地が、かつてイスラム圏であったイベリア半島であったことは、同会に異端の風味を加えています。実際に、イエズス会士にはユダヤ教から改宗したマラーノが多く、ユダヤ教への改宗を経たものであれ、レコンキスタを機にイスラム教から改宗した会員も混じっていたのかもしれません。また、創始者のロヨラ自身にも黒マリア信仰の蔭が見え、正統派のカトリックとはどこか異質な要素を含んでいるのです。
その一方で、歴代ローマ教皇の経歴を見ますと、神に仕える身として清廉潔白かつ品行方正であったとはお世辞にも言えず、世俗の慾に塗れたルネッサンス期の教皇たちの腐敗ぶりは目を覆うばかりです。それでは、近現代はと申しますと、ヨハネ・パウロ2世は不良少年でしたし、教皇に限らず、‘赤’と‘黒’は、貧困から身を興して世に名を成す立身出世のルートでもあったのです。聖職者とは、絶対善である神に奉仕する存在ですので、一般の俗人は、これらの人々もまた善性の純真なる具現者であるとみなしがちですが、そうとばかりは言えない点は、近年、相次いで表沙汰となったカトリック聖職者の犯罪によっても証明されています。
かくしてカトリックは、今日、その権威が大きく揺らいでいるのですが、今般のフランシスコ教皇の訪日にあっては、以前の法王訪日と同様に手放しでの歓迎一色とはならないかもしれません。とりわけ、注目されるのが、フランシスコ教皇は、訪日に際して袴田事件の袴田巌元被告人との面会を望んでいる点です。袴田事件とは、冤罪が主張されてきた事件ですが、2018年6月11日に高等裁判所において再審請求が棄却されています。冤罪説の真偽についてはここでは立ち入りませんが、教皇が面会を希望した理由は、同元被告が獄中にあってカトリックに改宗したからなそうです。しかしながら、この面会、以下の両面において微妙な問題を孕んでいるように思えます。
第一に、教皇が、袴田元被告を日本国の司法によって罪を着せられ、獄中に繋がれた‘殉教者’と見立てているとすれば、日本国の司法に対する厳しい批判を暗に含意していることとなります。この見立ては、いわば、同元被告に戦国時代において迫害を受けた宣教師やキリスト教信者の姿を投影させており、悪者=日本の構図と云うことになりましょう。もっとも、近年、イエズス会が、武器商人であったことに加えて、日本人を奴隷として海外に売却していた事実が国民の間で広まっておりますので、少なくない日本国民が、日本国のみを悪者に見立てる教皇のスタンスには疑問を感じるかもしれません。
もう一つの側面とは、教皇の袴田元被告に対する評価は、むしろ、袴田犯人説を印象付けてしまう点です。キリスト教では、悪人の改心こそ重要なテーマですが、同被告が獄中でカトリックに改宗したとすれば、上述したアンジローと同様に、罪の存在を前提としなければならないからです。つまり、冤罪説が成り立たなくなりますし、心の中では罪を認めながらなおも無罪を主張しているとすれば、それは真の改心とはなりませんので、同被告の‘改心’も怪しくなります。悔い改めて善人となったならば、素直に罪を認めて刑に服するはずなのですから。
宗教的な権威は、その善性が失われた途端、一挙に色あせてしまいます。しかも、善を装った悪ともなればなおさらのことです。サタンが神を称するのは偽旗作戦の最たるものですが、今日、一般の人々が、伝統宗教であれ、疑うことなく無心で信じてはならない時代を迎えているとすれば、人類は、宗教においても転換期にあるように思えるのです。
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日本国にキリスト教をもたらしたのは、イベリア半島のバスク地方を出身地とするイエズス会士フランシスコ・ザビエルです。それでは、どのようにしてザビエルは日本国に上陸したのかと申しますと、殺人を犯したために‘お尋ね者’となっていたアンジローと云う名の日本人青年が、ザビエルの下に保護を求めて飛び込んできたからです。アンジローの手引きによってザビエルは日本の地を踏むのですが、この経緯から、既にイエズス会、あるいは、キリスト教の海外布教組織が、犯罪者を匿うとともに、犯罪者さえも組織の活動メンバーに迎え入れていた様子が窺えます。
そして、イエズス会発祥の地が、かつてイスラム圏であったイベリア半島であったことは、同会に異端の風味を加えています。実際に、イエズス会士にはユダヤ教から改宗したマラーノが多く、ユダヤ教への改宗を経たものであれ、レコンキスタを機にイスラム教から改宗した会員も混じっていたのかもしれません。また、創始者のロヨラ自身にも黒マリア信仰の蔭が見え、正統派のカトリックとはどこか異質な要素を含んでいるのです。
その一方で、歴代ローマ教皇の経歴を見ますと、神に仕える身として清廉潔白かつ品行方正であったとはお世辞にも言えず、世俗の慾に塗れたルネッサンス期の教皇たちの腐敗ぶりは目を覆うばかりです。それでは、近現代はと申しますと、ヨハネ・パウロ2世は不良少年でしたし、教皇に限らず、‘赤’と‘黒’は、貧困から身を興して世に名を成す立身出世のルートでもあったのです。聖職者とは、絶対善である神に奉仕する存在ですので、一般の俗人は、これらの人々もまた善性の純真なる具現者であるとみなしがちですが、そうとばかりは言えない点は、近年、相次いで表沙汰となったカトリック聖職者の犯罪によっても証明されています。
かくしてカトリックは、今日、その権威が大きく揺らいでいるのですが、今般のフランシスコ教皇の訪日にあっては、以前の法王訪日と同様に手放しでの歓迎一色とはならないかもしれません。とりわけ、注目されるのが、フランシスコ教皇は、訪日に際して袴田事件の袴田巌元被告人との面会を望んでいる点です。袴田事件とは、冤罪が主張されてきた事件ですが、2018年6月11日に高等裁判所において再審請求が棄却されています。冤罪説の真偽についてはここでは立ち入りませんが、教皇が面会を希望した理由は、同元被告が獄中にあってカトリックに改宗したからなそうです。しかしながら、この面会、以下の両面において微妙な問題を孕んでいるように思えます。
第一に、教皇が、袴田元被告を日本国の司法によって罪を着せられ、獄中に繋がれた‘殉教者’と見立てているとすれば、日本国の司法に対する厳しい批判を暗に含意していることとなります。この見立ては、いわば、同元被告に戦国時代において迫害を受けた宣教師やキリスト教信者の姿を投影させており、悪者=日本の構図と云うことになりましょう。もっとも、近年、イエズス会が、武器商人であったことに加えて、日本人を奴隷として海外に売却していた事実が国民の間で広まっておりますので、少なくない日本国民が、日本国のみを悪者に見立てる教皇のスタンスには疑問を感じるかもしれません。
もう一つの側面とは、教皇の袴田元被告に対する評価は、むしろ、袴田犯人説を印象付けてしまう点です。キリスト教では、悪人の改心こそ重要なテーマですが、同被告が獄中でカトリックに改宗したとすれば、上述したアンジローと同様に、罪の存在を前提としなければならないからです。つまり、冤罪説が成り立たなくなりますし、心の中では罪を認めながらなおも無罪を主張しているとすれば、それは真の改心とはなりませんので、同被告の‘改心’も怪しくなります。悔い改めて善人となったならば、素直に罪を認めて刑に服するはずなのですから。
宗教的な権威は、その善性が失われた途端、一挙に色あせてしまいます。しかも、善を装った悪ともなればなおさらのことです。サタンが神を称するのは偽旗作戦の最たるものですが、今日、一般の人々が、伝統宗教であれ、疑うことなく無心で信じてはならない時代を迎えているとすれば、人類は、宗教においても転換期にあるように思えるのです。
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