報道に依りますと、韓国政府は、東京オリンピック・パラリンピックの開催を来年に控え、IOCのバッハ会長に対して旭日旗の禁止を要請する書簡を送ったそうです。禁止を求める理由は、「旭日旗は日本の侵略を受けた韓国や中国、東南アジアなどに歴史の傷を想起させる明白な政治的象徴」とのことですが、この要請に対して、IOCは、ケースバイケースで検討すると返答しています。
IOCの回答を読みますと韓国への配慮が滲んでおり、どちらかと言えば、その同国の言い分を認めているように感じられます。何故ならば、ケースバイケースと云う曖昧な表現をしつつも、場合によっては、旭日旗を応援席に持ち込んだ日本側の応援団やファンが、IOCから何らかの処分を受ける可能性を示唆しているからです。韓国側がスタジアムや競技会場で、日本国の旭日旗を振るはずはないのですから。つまり、IOCは、処分の可能性を示すことで、暗に旭日旗の持ち込みを控えるよう、日本国側に圧力をかけているとも解されるのです。
しかしながら、IOCは、こうした韓国の一方的、かつ、自己中心的な政治的主張を認めてもよいのでしょうか。上述したように、禁止要請事由は、旭日旗は日本国によるアジア諸国に対する侵略の象徴であるから、というものです。そこで、‘侵略の想起’を基準にして各国の軍旗を検証してみますと、旭日旗と同様にアウトになってしまう軍旗は少なくありません。大航海時代以降、アジア・アフリカ諸国の大半は西欧列強によって植民地化されています。世界を2分しようとしたスペインやポルトガル、インドをはじめ世界大に大英帝国を拡げたイギリスが典型例ですし、フランス、オランダ、ドイツなどの諸国も植民地を保有しておりましたし、アメリカもまたフィリピンを植民地化しています。また、ロシアのように周辺諸国を侵略し続けたり、あるいは、相互に領土を取り合う関係にあった諸国も少なくありませんので、‘侵略の想起’の基準を適用すれば、相当数の国が自国の軍旗を自国チームの応援には使えないこととなりましょう。況してや、日本国の場合、朝鮮半島の併合は条約に基づくものですので、当時の国際法では合法的な行為でもありました。武力による併合ではありませんので、少なくとも日本軍は関与しておらず、軍旗である旭日旗は韓国併合とは無関係なのです(併合に対する不快感であれば、国旗の日の丸となるはず…)。
もちろん、国旗と軍旗は違うとする反論もあるかもしれません。とは申しますものの、禁止基準を帝国主義的な‘侵略の想起’という感情に定めるならば、国旗と国旗を区別することは不可能です。むしろ、国旗の方が、より強く不快な感情を引き起こすのではないでしょうか。感情とはあくまでも主観ですので、ある国の政府が一方的に他の国の標章に対して不快の感情を表明すれば、その対象となった国、あるいは、その国民の行動を規制し得ることを、それが軍旗であれ、国旗であれ、何であれ、IOCは、認めてしまったことになるのです。今後、韓国以外の諸国から、他国に対する‘いやがらせ’を目的とした、同様の要請が寄せられた場合、IOCは、日本国に対する対応と同様に、暗黙の圧力をかけるという方法で同要請に応えざるを得なくなりましょう。
また、コラムニストの小田嶋隆氏が日経ビジネスの9月13日付のオンライン版の記事で、上記の見解への反論として、「そっちこそどうなんだ主義(Whataboutism)」に基づいた議論には乗らない。あまりにもばかげている。」と述べておられます。どちらかと申しますと、議論から逃げているようにも見受けられるのですが、この問題は、‘Whataboutism’とは本質的に異なるように思えます。その理由は、旭日旗問題は、禁止という他者の行為を拘束する行為の正当性が問われているからです。
例えば、ある人が盗みを働いた場合、被害者が返還を要求した際に、加害者側が、被害者が泥棒であった過去を持ち出して‘そっちこそどうなんだ’という場合に、相手の悪行を以って自己の悪行を正当化しようとする手法として‘Whataboutism’の論法が使われます。しかしながら、旭日旗禁止に関して問題となるのは、特定の国の他国に対する主観的な不快感情を以ってある行為を禁止するという、ルール設定の是非です(‘私が不快なのだから、あなたなはしてはいけない’のルール化…)。窃盗は、加害者も被害者も共に認める禁止されるべき犯罪であり(この点、‘Whataboutism’であっても両者の窃盗=悪に対する認識を共有している…)、誰もが納得する普遍性がありますが、一方的な感情を以って軍旗や国旗といった標章の使用禁止のルールとしますと、上述したように、これを全ての諸国に適応される一般ルールとして定めますと、多くの諸国が自国の国旗や軍旗の使用ができなくなるのです(相互に相手国に禁止を求める泥沼と化すし、果ては、国歌や国花などの禁止にもエスカレートする…)。となりますと、こうした主観性を認めるルール設定に対して批判が生じるのは当然のことではないかと思うのです。
このように考えますと、韓国政府による旭日旗禁止の要請に対し、IOCは、この種の禁止要請自体が大会運営の混乱要因となることを説明した上で、拒否すべきであったのではないでしょうか。個人的な主観が他者に対して絶対的な拘束力を有する世界とは‘人の支配’となりますので、今日の国際社会の一般原則である法の支配には相応しくもありません。また、禁止をするならば、オリンピックの平和主義に鑑みて、応援における全ての国の軍旗使用の禁止を一般ルールとした方が、遥かに筋が通っているのではないかと思うのです。
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IOCの回答を読みますと韓国への配慮が滲んでおり、どちらかと言えば、その同国の言い分を認めているように感じられます。何故ならば、ケースバイケースと云う曖昧な表現をしつつも、場合によっては、旭日旗を応援席に持ち込んだ日本側の応援団やファンが、IOCから何らかの処分を受ける可能性を示唆しているからです。韓国側がスタジアムや競技会場で、日本国の旭日旗を振るはずはないのですから。つまり、IOCは、処分の可能性を示すことで、暗に旭日旗の持ち込みを控えるよう、日本国側に圧力をかけているとも解されるのです。
しかしながら、IOCは、こうした韓国の一方的、かつ、自己中心的な政治的主張を認めてもよいのでしょうか。上述したように、禁止要請事由は、旭日旗は日本国によるアジア諸国に対する侵略の象徴であるから、というものです。そこで、‘侵略の想起’を基準にして各国の軍旗を検証してみますと、旭日旗と同様にアウトになってしまう軍旗は少なくありません。大航海時代以降、アジア・アフリカ諸国の大半は西欧列強によって植民地化されています。世界を2分しようとしたスペインやポルトガル、インドをはじめ世界大に大英帝国を拡げたイギリスが典型例ですし、フランス、オランダ、ドイツなどの諸国も植民地を保有しておりましたし、アメリカもまたフィリピンを植民地化しています。また、ロシアのように周辺諸国を侵略し続けたり、あるいは、相互に領土を取り合う関係にあった諸国も少なくありませんので、‘侵略の想起’の基準を適用すれば、相当数の国が自国の軍旗を自国チームの応援には使えないこととなりましょう。況してや、日本国の場合、朝鮮半島の併合は条約に基づくものですので、当時の国際法では合法的な行為でもありました。武力による併合ではありませんので、少なくとも日本軍は関与しておらず、軍旗である旭日旗は韓国併合とは無関係なのです(併合に対する不快感であれば、国旗の日の丸となるはず…)。
もちろん、国旗と軍旗は違うとする反論もあるかもしれません。とは申しますものの、禁止基準を帝国主義的な‘侵略の想起’という感情に定めるならば、国旗と国旗を区別することは不可能です。むしろ、国旗の方が、より強く不快な感情を引き起こすのではないでしょうか。感情とはあくまでも主観ですので、ある国の政府が一方的に他の国の標章に対して不快の感情を表明すれば、その対象となった国、あるいは、その国民の行動を規制し得ることを、それが軍旗であれ、国旗であれ、何であれ、IOCは、認めてしまったことになるのです。今後、韓国以外の諸国から、他国に対する‘いやがらせ’を目的とした、同様の要請が寄せられた場合、IOCは、日本国に対する対応と同様に、暗黙の圧力をかけるという方法で同要請に応えざるを得なくなりましょう。
また、コラムニストの小田嶋隆氏が日経ビジネスの9月13日付のオンライン版の記事で、上記の見解への反論として、「そっちこそどうなんだ主義(Whataboutism)」に基づいた議論には乗らない。あまりにもばかげている。」と述べておられます。どちらかと申しますと、議論から逃げているようにも見受けられるのですが、この問題は、‘Whataboutism’とは本質的に異なるように思えます。その理由は、旭日旗問題は、禁止という他者の行為を拘束する行為の正当性が問われているからです。
例えば、ある人が盗みを働いた場合、被害者が返還を要求した際に、加害者側が、被害者が泥棒であった過去を持ち出して‘そっちこそどうなんだ’という場合に、相手の悪行を以って自己の悪行を正当化しようとする手法として‘Whataboutism’の論法が使われます。しかしながら、旭日旗禁止に関して問題となるのは、特定の国の他国に対する主観的な不快感情を以ってある行為を禁止するという、ルール設定の是非です(‘私が不快なのだから、あなたなはしてはいけない’のルール化…)。窃盗は、加害者も被害者も共に認める禁止されるべき犯罪であり(この点、‘Whataboutism’であっても両者の窃盗=悪に対する認識を共有している…)、誰もが納得する普遍性がありますが、一方的な感情を以って軍旗や国旗といった標章の使用禁止のルールとしますと、上述したように、これを全ての諸国に適応される一般ルールとして定めますと、多くの諸国が自国の国旗や軍旗の使用ができなくなるのです(相互に相手国に禁止を求める泥沼と化すし、果ては、国歌や国花などの禁止にもエスカレートする…)。となりますと、こうした主観性を認めるルール設定に対して批判が生じるのは当然のことではないかと思うのです。
このように考えますと、韓国政府による旭日旗禁止の要請に対し、IOCは、この種の禁止要請自体が大会運営の混乱要因となることを説明した上で、拒否すべきであったのではないでしょうか。個人的な主観が他者に対して絶対的な拘束力を有する世界とは‘人の支配’となりますので、今日の国際社会の一般原則である法の支配には相応しくもありません。また、禁止をするならば、オリンピックの平和主義に鑑みて、応援における全ての国の軍旗使用の禁止を一般ルールとした方が、遥かに筋が通っているのではないかと思うのです。
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